選択の先に。
彼女は明日、旅立つのだと、電話で僕に告げてきた。
それはまさに青天の霹靂の様な出来事だった。
『旅に出る準備はしっかりしたわ。着替えは三着ほど。下着は少し多め。二日分の携帯食料に水。お金は今まで貯めていたもの全部。多分、五十万以上は有るんじゃないかしら。後は救急セットに寝袋、マッチとライター。それとナイフね。移動手段はカブよ。流石に歩いてでの旅は無理があると思うから。時速四キロと三十キロじゃかなり違うし。……ああ、燃料はもちろん満タンにしてあるわよ。予備もしっかり積んであるし。――どう? これで準備は完璧だと思わないかしら?』
『……シートとロープもあったほうが便利だと思うよ。雨が降ったときに、簡易テントが出来るからね』
『なるほど。教えてくれてありがとう。後で準備しとくわ』
『……え? 本気で旅に出るつもりなの?』
『当たり前じゃない』
最初、僕は彼女がただの冗談を言っているのだろうと思っていた。
何故なら僕たちはまだ十七歳で、十一時を越えたら補導される年齢、つまりは未成年だ。そして今は別に夏休みなどの長期休暇などでは無く、ゴールデンウィークが終わったばかりの頃だ。もちろん授業は普通にあるし、旅に出るから休みを貰う、などと言う制度などは僕たちが通っている高校に有る筈が無い。だから明日から旅に出るなんて事は普通、有り得ない事だった。
しかし、僕は彼女が普通の少女ではない事を思い返す。
――例えば小学生の頃。校長先生がカツラだ、と言う噂が流れた時、彼女はその真偽を確かめる為に全校集会の最中、校長先生に向かって大きな声で「髪の毛を引っ張っても良いですか?」とか尋ねる様な事をした(校長先生はもちろん首を横に振ったが、そんなのはお構いなく髪を引っ張った。カツラだった)。
――例えば中学生の頃。理科の授業で先生がたまたま口にした爆弾の原理とやらをしっかりと記憶に残し、実際にそれを作り、面白そうだからと屋上で爆破させた(流石に警察沙汰になった。新聞にも載ってしまった。でも何故かばれなかった)。
――例えば高校入学した頃。彼女に対して物凄い悪口を言った教師を徹底的に尾行、もといストーカーし、その時に見つけたいろいろな秘密を授業中に手を上げてから発表した(秘密が一つ曝け出されるにつれて、教師の顔色はどんどん悪くなっていった。クラスメイトが少し彼女に遠慮するようになってしまった)。
こんな事ばかりをしてきた彼女なので、多分、今回も本気なんだろう。
だが、しかし。余りにも突然のことだったので、僕の頭は現実について行けていなかった。
『旅立つって……学校はどうするのさ?』
『もちろん、サボるわよ』
『どの位の間休むつもり? というか一体どこに行くつもりなんだよ?』
『さあ? そんな事は何一つ考えていないわよ。ただ、旅に出たいだけ』
なんて無計画なのだろう。彼女らしいと言えば彼女らしいのだけど、流石に呆れてしまった。
そもそも何故旅に出ようと思ったのだろうか。
その旨を彼女に尋ねてみると、
『楽しそうだから、とか、面白そう、っていう好奇心の気持ちが三割くらいなんだけど、やっぱり大きな理由は「この町がつまらない」からかしら。毎日同じ場所に行って一日中ずっと勉強して家に帰る。その繰り返し。遊びに出かけたとしても行く場所は限られてくる。そんな変わらない生活に私は飽きちゃったの。だから旅に出ようと思ったのよ。旅だったら同じ場所に居続けることなんてないし、何処かに滞在したとしても、長くは居ないでしょ? その位だったら飽きることもないし、いつでも楽しめるじゃない』
電話だから彼女がどんな表情をしているか分からないはずなのに。なぜだろう。僕には彼女が満面の笑みをしているのが容易に目に浮かんだ。
『それで、君は何で僕にそんな事をわざわざ連絡してきたんだ?』
その答えは、聞かなくても判り切っている事だった。だけど、僕はどうしても聞いてしまうのだ。
そして、電話から聞きなれた言葉が響いた。
『もちろん、付いて来てもらうためよ』
――予想通りの答えで、まったく笑えなかった。
そう。彼女が起こした数々の事件。その時、彼女の隣には常に僕がいた。正確に言えば連れまわされていた。理由なんて分かるはずがない。あるとするならば二人とも十歳くらいの時に家族を亡くしたことくらいだけだ。ただ、いつも彼女がそう云ったことをする際、一番巻き込まれていたのは僕だと断言できた。
『という事で明日の夜十一時に町はずれの公園に集合ね。あなたもちゃんと準備しておきなさいよ。絶対に忘れちゃダメなのはお金とカブよ。この二つを忘れたら、そこら辺にいるカラスのエサにするから』
そして、その言葉に対して僕が何かを言う前に電話を切られてしまった。
****
僕はしばらく、呆然と携帯電話を眺めて、そして体をベットの上に放り投げた。
――少し、落ち着こう。
腕を伸ばして机の上に置いてあったiPodを掴み取り、イヤホンを耳につける。再生ボタンを押して音楽が流れだすとともに、僕はため息をついた。
彼女は、本気だ。
本気で旅に出ようとしていて、今まさにその準備をしているのだろう。このつまらない日常から抜け出すために。いつでも楽しい世界を過ごすために。
でも、それは単なる夢でしかない。
いくら僕たちが天涯孤独の身で、親からの縛りがないからと言っても、それは無謀すぎた。
今まで彼女が起こしてきた事件はばれなければ大丈夫。ばれたとしても先生や警察の人に叱られるだけ。どんなことをしたって、何をしたって――さすがに限度はあるが――食べていける。そんな楽に生きていける世界に僕たちは居た。
しかし旅に出るという事は、その世界から出て行くという事だ。期限付きで、例えば一週間だけで旅に行くのならば大丈夫なのだろうが、彼女はおそらくずっと旅をする気なのだろう。
でも現実はそんなに甘くはない。まずはお金の問題。彼女は、五十万はある、と言っていた。もし僕も一緒に行くとして、僕の貯金が多分四十万くらい。合わせて九十万。けれど、九十万程度あっという間に底をついてしまう。なんたって移動手段はバイクなのだから、燃料代がどう頑張っても、どうあがいても掛かってしまう。そして毎日食べていく為の食費、怪我した時の治療費なども加えると、やはり九十万では無理があった。せめてその二十倍はなければ安心して旅を続けることはできない。滞在しているところで働こうにも、世間から見て僕らは家出人。そんな人には日雇いのバイトすらあるはずがないだろう。
たぶん、彼女はそんな事をこれっぽっちも考えてはいないのだろう。なんせ大抵いつも行き当たりばったり。後の事なんか何も考えてはいない。だから、このまま彼女が旅に出ると、絶対に困ったことになるのは目に見えている。それは限りなく無謀な行為だった。
――僕らはいつも何かに縛られている。
そう。自由なんて言葉はただの幻想でしかないのだ。
僕は重く深いため息をついた。
……僕はどうするべきだろうか。
常識的に考えるのならば、行かない方がいい。むしろ彼女を止めるべきだろう。それが一番「安全」な道だ。もちろんその道の中でも大変な事はあるだろうけど、旅に出るような非常識な道に出るよりかは遥かに安心できる生活を送れる。
でも、彼女が言いたい事もわかる。「安全」というものは基本変わらない事だ。変わらない生活だから不測の事態が何も起こることは無い。だから「安全」。だけどそれは酷くつまらないものだ。彼女みたいな好奇心が強い人にとっては、それがさらに酷く耐え切れないものなのだろう。その気持ちは――僕にだって分かる。
僕たちみたいな若い人間はみな、希望に満ち溢れている夢を見る。それが実際はどんなに大変な夢だとしても、どんなに叶わないものだとしても。そうして夢をあきらめて大人になっていく。
そう考えると、彼女はまだまだ子供だという事なんだろう。いつまでも楽しく明るい夢を見ている子供。
それでは僕はどっちなのだろうか――。
首を何度か振る。だめだ。何を考えて居るのか分からなくなってきた。
やはり頭は混乱したままのようだ。変なことばかり考えてしまう。
こんな状態じゃだめだ。
目を閉じて音楽に集中する。気分を変えたい時は別の何かに集中した方が良い。特に音楽は簡単にその場の雰囲気を変えることが出来る、人が生み出した最高の娯楽だ。少なくとも今のまともにものを考えられない状態よりかは遥かに落ちつけるだろう。
そうしてしばらくイヤホンから流れてくる演奏と歌に集中していると、ある曲が流れてきた。
流れてきたのはRADIOHEADの「Where I End and You Begin」
意味は、僕が終わって君が始まる場所。
その歌詞を聞いて、心が少しざわめいた。
もしも。僕が、明日彼女と一緒に行かなければ。
明日の待ち合わせの場所はそうなるのだろうか。
歌詞が全部そう言う訳では無いのに、妙にその言葉が頭に残ってくる。
Where I end and you begin.
僕が終わって君が始まる場所。
Where you, you left me alone.
きみはぼくをひとりで置いていった。
――それは、嫌だ。
彼女の傍に居られない。
それだけは嫌だった。
意味もなく僕は空に手を伸ばす。
その手には何も掴めやしない。ただ空を切るだけ。
さあ、考えろ。
どうすれば彼女と一緒にいられるだろうか。
――そんな答えは、とっくに出ていた。
****
夜の十時。
空に雲はどこにも見当たらず、星がちらほらと見て取れた。まんまるになっている月はその輝きを僕たちに与えているようだ。
そんな空の下。
僕はカブに乗って待ち合わせ場所である公園にやって来ていた。
カブから降りて、僕は空を仰ぐ。
町から少し離れた場所だからだろうか。いつも見ている夜空よりかは星が多いような気がする。この公園に来ることは殆ど無かった。来たとしても昼の間で夜に来たことなんかないし、こんな風に空を仰ぐのは初めてかもしれない。
視線をおろし、自分のカブへと目を向ける。
そこには何の荷物も積んでいない。
僕の所持品はこのカブと財布、それと愛用のiPodだけ。
――そう。僕は付いて行かない事にしたのだった。
というよりも彼女を引き留めることにした。
だって、そうだろう? 全く分からない世界にほとんど準備も無しに飛び出すよりもちゃんと順序を踏んで向かった方が良い筈だ。勢いよく飛び出て終わるのは、それこそダメな選択だろう? それは人たちから無謀な行為と呼ばれるものなのだろう? 子供はよく無謀なことをして、それに懲りて前に進んでいく。僕たちだっていつまでも子供のままではいけない。
だから、彼女には何とか此処に留まって貰うように説得しなければならなかった。
何度目かのため息をついて、僕はふと町の方を見た。この公園は町よりも高い丘にあるので町の様子がはっきりと見ることができた。
ここから見える町はただの明るい光の集合体だった。家の光、街灯の明かり、とても強い光はパチンコ屋だろうか。遠すぎてよく分からない。それらの光はこの暗闇の中で明々と瞬き世界を照らしていた。照らし出されている町は僕がよく知っている町。生まれてからずっと暮らしていた町。だけど、それは僕がよく知っている町とはずいぶん違うように見えた。
夜にここから町を見るのは初めてだろうか。
だからいつもの町とは違うように見えているのかもしれない。
――そうだ。この町だって捨てたものじゃないはずだ。つまらない、と彼女は言うけれどほかの町に行ってもそれは同じじゃないんだろうか。いくら今まで見たことがない町だってこことそう大差あるのだろうか。
だが、果たしてそう言ったところで彼女は納得してくれるのだろうか。
いや、そこはなんとしても納得してもらうしかない。そうでなければ僕は。
だけど。
だけど、僕が引き留めたら彼女は一体どんな表情をするだろう――
「秋典」
後ろから僕を呼ぶ声。
僕はゆっくりと振り返る。
ヘルメットを被って荷物がたくさん載っているカブを押してきた彼女は、にこにこと笑みを浮かべながらそこに立っていた。
そんな彼女にどんな顔をすればいいのか分からず曖昧に笑みを浮かべると、彼女は笑みを深めた。
――それだけで。
――その姿を見ただけで、すべてどうでもいいや、と思った。
****
彼女は僕の方へ歩み寄ってくると、その眼をさらに細めた。
「うんうん。ちゃんと来たわね。関心関心! ――って何も持ってきてないじゃないの!」
「えっと、なんと言うか……忘れた」
なんて言い訳をすればいいのか分からず、適当に誤魔化すと彼女は本当に呆れたような顔をして僕をじっと見てくる。
「忘れたって秋典……。あなたバカじゃないの?」
「うん。たぶんバカなんだと思うよ」
だって彼女の為に人生を投げ出すのだから。
なんだかんだ言っても、僕は子供でしかなかったのだ。
「お金はちゃんと持ってきてるんでしょうね?」
「うん。お金とカブはちゃんとあるよ」
だから、餌にするのは無しだよ。
そう僕がおどけた様に言うと彼女は呆れたような表情を一変させまた笑みを浮かべた。
「じゃあ、今から取りに帰るのは嫌だから途中で買いなさいよー。困るのは秋典なんだから」
「うん。わかったよ」
もしかすると、やっぱり僕は心のどこかで彼女と一緒に行きたいのだと思っていたのかもしれない。だって財布とカブはしっかりと持ってきているのだから。
「それで、僕らはどこに行くの? やっぱり無計画?」
「そんなわけないじゃない。最初は昔バイトで同じだった子の所に行ってみようと思うわ。その子、京都に住んでるのよ。一緒に観光もできるじゃない。一石二鳥よ」
「そう。ならよかった」
流石に行くあてもない旅は不安があるのだ。
「よし! まあ今日は取り敢えず三時間ほど走らせましょう。いくら家族がいないといっても学校から警察に連絡があるかもしれないし」
小さく首を縦に振る。確かに。彼女の言うとおりだった。
「それじゃあ、行く前に」
彼女は町の方を振り向くと、なぜだか手を合わせて目をつむりだした。
「何してるの?」
「お祈り。私と秋典の旅がうまくいきますように―って。あとお礼かな。いくら詰まらなかったと言っても、ここは私たちの故郷だし」
「……そうだね」
僕も彼女と同じように手を合わせて、目をつむった。
願う事なんか決まっている。
――どうか、僕たちがまたこの町に戻って来るように。
――どうか、僕らの旅が楽しいものでありますように。
――どうか、僕と彼女がいつも笑っていられるように。
しばらくして目を開けると、変わらず町は輝いていた。
彼女の方へ視線を向けると、町を見ているその顔にはこれから先への好奇心しかないようだった。不安の色なんて、まったく無い。
こういった彼女の大胆な思考は到底僕には真似出来ないし、それでいいと思う。彼女がこんな風だからこそ、僕は彼女の傍に居られたのだから。
彼女がゆっくりと振り返る。
「じゃあ、行こうか」
「うん。行こう」
町に背を向ける。
この選択が正しいとは思ってはいない。
だけど僕たちはまだまだ子供で。
まだまだ世界の厳しさを知らない。
だから、これは。この旅は。
子供の特権なんだと。そう思っておこう。
****
カブのエンジンをかける。
空も先ほどと全く変わらず澄み渡っている。
さあ。家出生活の始まりだ。
後ろにあるのは、光り輝く町。
進む先は、まだ見ぬ真っ暗な世界。
そして僕と彼女は同時にアクセルをかけた。