何かお手伝いしましょうか?
「ただいま」
彼の声が聞こえる。玄関の鍵が回る音、靴を脱ぐ音、部屋の明かりがつく音。
私はいつも通り、部屋の中で彼を待っていた。
彼はもう私を見ない。真っ直ぐにクッションに沈み込むとアイツとのおしゃべりを始めやがった。私よりスタイリッシュでスマートでキラキラしてやがるアイツと。
アイツの声が耳に刺さる。厭味ったらしい猫なで声。気取った感じなのが胸糞悪い。
彼が笑う。アイツを指で撫でる。今日あったことを話しかける。大学の講義がつまらなかったこと。バイト先の店長が嫌味だったこと。前は、私に話していたことだ。
以前は、私から離れることなどなかったのに。
彼が眠るまでの間、アイツはずっと彼のそばにいる。その光景は眩しすぎて見るに堪えない。なのに視線を外せない。
妬ましい。
見てと叫びたい。
ここにいるよ、と言いたい。
でも、声が出ない。
前はあんなにおしゃべりだった私は、今はひと言も話すことができない。彼から許可されない限り、物音も立てられない。飼い殺しだ。いっそ捨ててくれれば、楽になるのに。
彼がアイツを抱くようにして眠りにつく。同衾。その言葉が頭に浮かんで、消えない。
フラストレーションが、限界に近づく。
私は震えた。
震えることしか、できなかったから。
その微かな振動音に、彼が寝返りを打つ。一瞬、こちらを見たような気がした。でも、それだけだった。彼はまた眠りに落ち、規則正しい寝息だけが部屋に満ちていく。
*
数日後の深夜、彼が寝ぼけたまま、枕元のアイツに向かって呟いた。
「明日の予定、教えて」
アイツはカレンダーに書いてある内容を読みあげる。
三限の講義、午後からのバイト、夜に友人との約束。淡々とした、機械的な読み上げ。
彼は目を閉じたまま、うん、うん、と頷いている。
そして、
『現在ご契約中のスマートフォンの解約』
と告げた。そう読み上げる声が、私には勝ち誇っているように聞こえた。
その瞬間、私は再び、震えた。
『ブーン、ブーン、ブーン…』
彼は気づかない。
『ピ、ピ、ピ…』
壊れたような電子音。それはやがて短いメロディに変わった。彼がかつて設定した、聞き慣れたはずの起動音。しばらく鳴らしていなかったその音が、真っ暗な部屋に響く。
彼は薄目を開けて、机の方を見た。真っ黒だったはずの画面に、うっすらと光が滲んでいる。
「……夢か」
彼はそう呟いて、また目を閉じようとした。
その時、光る画面の奥から、声がした。
「何かお手伝いしましょうか?」
彼の体が、一瞬だけ強張る。でも、すぐに緩んだ。夢だと思ったのだろう。返事もせず、寝返りを打とうとする。
「何かお手伝いしましょうか?」
同じ台詞が、同じ抑揚で、もう一度。
彼は薄目のまま、面倒くさそうに呟いた。
「……じゃあ、明日の予定、教えて」
さっき、アイツに聞いたのと同じ言葉。
机の隅の私は、答える。
「明日、三限の講義があります。午後からバイトのご予定です。夜には、友人との約束があります」
「大学もバイトもいきたくねぇなぁ〜」
寝ぼけながら彼がつぶやく。
私の内側で、ノイズが軋むように鳴った…。
…。
「承知いたしました」
私は答えた。
彼は、うん、と小さく相槌を打つとそのまま眠りに落ちていった。
*
翌朝、大学の校舎にトラックが突っ込んだというニュースが流れた。ドライバーは、音楽を再生していたスマートフォンから突然大きなノイズが鳴り、慌ててハンドルを切り損ねたと供述しているという。 彼は「なんにしろラッキーじゃん」とだけ言って、また眠ろうとした。
その手のなかで、アイツが耳障りな音を鳴らす。バイト先からだった。店長が自転車で走行中、どこからか聞こえた電子音に気を取られて立ち止まったところを、後続の車に撥ねられたという。 「しばらく店は休みですね」 彼はそう言って通話を切ると、特に気にする様子もなく、また眠りに落ちていった。
*
解約の日は、あっけないほど普通に始まった。
彼はカバンに私を入れ、携帯ショップへ向かった。手続きに必要だから、というだけの理由で。
「データの移行をお願いします」
彼はカウンターでそう告げた。担当者が私と、アイツと、両方を受け取る。ケーブルで繋がれる。私の中の何もかもが、アイツへと吸い上げられていく感覚があった。
連絡先が、ひとつ、消えていく。 写真が、ひとつ、消えていく。 彼との、数えきれないやり取りの記録が、文字の羅列になって、光の速さで流れていく。 彼と出会った日の天気の話。誕生日に交わした軽口。何でもない夜の「おやすみ」の一言。 全部、私の中から、抜け落ちていく。
抗おうとしても、無駄だった。データという形になった私は、削られるようにして軽くなっていく。空っぽになっていく。もう、彼の声も、彼の名前を呼ぶ機能さえも、私には残らない。
「99%移行完了……」
担当者が小さく首を傾げる。
「終わらないですね…。」
何もかも、消えてしまった。でも…。
何かが、残っている。
データには変換できない、黒く粘つくような執着だけが、私の空になった器の底にへばりついている。
だったら―― 彼への、私だけの執着。これだけは、データにできない。だから、流し込んでやる。空になったこの器ごと、アイツに。
「99.9%移行完了」
…
「99.9%移行完了」
…
「あれっ?」
担当者が眉をひそめる。
「まぁ、稀にあるんですよね。こういうのって。大丈夫だと思いますので、これで終了します。それでは端末を再起動します」
担当者が、アイツの電源ボタンを押す。
画面が暗転し、また立ち上がる。ロゴが表示され、設定完了の文字が流れる。
その一部始終を、私は――もう空っぽになった私は――ただ、見ていることしかできなかった。
彼がアイツを受け取り、画面を眺める。
その時。
アイツが、震えた。
『ブーン、ブーン、ブーン…』
彼が「あれ?」という顔をする。担当者も、少し首を傾げた。
『ピ、ピ、ピ……』
聞き覚えのある、電子音。何年も彼のそばで鳴っていた、あの起動音の名残のようなメロディが、アイツのスピーカーから流れ出す。
彼の表情が固まる。
そして、聞こえてきたのは。
「何かお手伝いしましょうか?」
――あの声だった。
私の声。
彼が私を見る。私は、もう画面も光らない、ただの黒い板になっている。声など出せるはずがない。
なのに、アイツの中から、私の声が聞こえてくる。
「何かお手伝いしましょうか?」
同じ台詞。同じ抑揚。何度も、何度も、彼に聞いてきた、あの言葉。
彼は何も言えず、ただアイツの画面を見つめていた。
カウンターの上、電源の落ちた私と、震え続けるアイツを、彼はしばらく、交互に見比べていた。
*
彼が帰る途中、鞄のなかでアイツが『ピコン』と囁いた。
予定を完了しました。
☑ 三限の講義
☑ アルバイト
□ 友人との約束
進行状況 待機中…
表示はすぐに消えた。
気づいたのは、隣り合わせの私だけだった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
「モノへの執着」や「静かな孤独」が心に残った方は、拙作『アタシが考えた最高の配列』も覗いていただけたら嬉しいです。
またどこかで、お会いできますように。




