第六話 小厨房と茸のお粥
「ずいぶん広い宮殿だわ」
香織は誰もいない(と思われる)紫蓮宮の回廊を足早に進んでいた。
庭院に面した回廊は、池をぐるりと囲んでいる。池には蓮の葉が品よく群生していて、手入れが行き届いていることを思わせた。
「きっと季節には蓮の花がたくさん咲くんだわ。佳蓮様の御名前の通り、美しい宮殿ね。それにしても小厨房には簡単にたどり着けそうもないな……灯りをどこかで手に入れないと」
先刻まで香織が『公主教育』と称するスパルタ訓練を受けていた部屋からはずいぶん離れたと思うが、朱塗りの欄干と立派な白い柱が続く回廊に面した部屋はどこも書斎や寝室、応接室らしき部屋で、煮炊きができるような場所の気配すらない。
どんどん陽が傾いて薄暗くなっていく。焦って歩き回るうち、香織はハタと足を止めた。
「もしかしたら、小厨房は庭院に面していない裏側にあるのかも! 考えてみたら前世のオープンキッチンとかとは違うわよね。この世界では厨房は奥向きの場所だもの」
美しい蓮池を望む部屋は宮殿の主だった部屋。
それ以外の奥向きの場所は庭院に面していないのでは。
その香織の予測は当たっていた。三つ目の応接室から(前世、華流ドラマで見たことのある後宮内の茶会に使われそうな豪華絢爛な部屋だった)内側の扉を入ると、ところどころに花窓のある広い廊下が伸びていた。
「あっ、灯りが!」
薄暗い廊下の向こう側、微かだが灯りが漏れている部屋がある。
小走りに部屋の前まで行くと、少し開いた扉から明かりが一筋漏れていた。
扉を軽く叩く。返事は無い。
「失礼します」
小声で一応言ってみる。やはり返事はない。
どうやら女官や侍女が使う部屋のようだった。きちんと整頓されているが調度品などが全体的に質素で、先刻までいた部屋とはまるで様子が違う。
広めの部屋の四隅にそれぞれ簡素な寝台が置かれていて、その一つの傍で弱い手燭が灯っていた。
そっと近付けば、薄暗い寝台に誰かが横たわっている。
「この人、さっき部屋で倒れた侍女さんだわ!」
先ほどの格好のまま横たわる侍女は、薄暗い中でも顔が青白い。
「大丈夫かしら……?!」
近付いた香織の袖を、弱々しい力が握ってきた。侍女の口が微かに動いている。何か言っているようだ。
「どうしたんですか?! どこか痛いんですか?!」
「………い」
「えっ? 何ですか? どうしたんです?!」
嫌われている身ではあるが仕方ない、と香織は割り切り、侍女の口元に耳をぐっと寄せて呼びかけた。
「どうしたんです?! どこが痛むんですか?!」
「………………なに、か、たべもの、を」
「食べ物???」
とりあえずどこか痛むのではなさそうだ。ホッとしつつ、香織はハッとする。おそらくこの侍女は貧血のように見えた。だとすれば、極度の空腹であることは充分考えられる。
「ちょっと待っててくださいね! あっ、すみませんがこの手燭、借ります!」
香織はぴょこんと頭を下げると手燭を持ち、大急ぎで部屋を出た。
「そうよ、きっとこの辺りは紫蓮宮でも女官や侍女の人たちが使う部分なんだわ。とすれば小厨房もこの近くにあるはず!」
藍色に変化していく花窓からの西日と手燭を頼りに必死に捜すと、侍女が寝ていた部屋から一度廊下を曲がった先のつきあたりに、扉ではなく暖簾の掛かった入り口が見えた。
「見つけた!」
中は小さな竈口が二つ、小さい水場が一つの立派な厨房になっていた。
後宮の規模を考えれば「小」厨房なのだろうが、普通の民家の厨房よりも広いくらいの立派な台所だ。
よく見れば灯火石が置いてあり、鳳凰が意匠された立派な手持ち宮灯として使えるようになっていた。
「宮灯で明るくなってよかったわ! 手燭も持ってきてよかったけど」
竈の火種に手燭の火を使い、湯を沸かしながら、香織は小厨房内の棚扉をどんどん開けていく。
「ええっと……お米があるわ! それから、塩や砂糖、酢に味噌に……調味料も一通り揃っているし、それからこの壺は……泡菜だわ!」
さすがは公主の住まう宮殿の小厨房。生鮮食品は無いものの、棚には米や干した茸や豆など、保存できる食品が衛生的に管理されているようだ。
「玲栞様も、ご自由に使ってけっこうですのでって言ってたし、御言葉に甘えて使わせてもらおう」
香織はさっそく、米を研ぎ始めた。
※灯火石……桂の中華風ファンタジー作品に登場する、火打石のように打つと明るくなって灯りに使える不思議な石。
♢
小さな膳車に宮灯と土鍋や食器を載せて部屋へ戻ると、すっかり暗くなった部屋の隅に起き上がる影があった。
「大丈夫ですか?」
膳車を押して近付くと、侍女はハッと青白い顔を硬くした。
「どうして貴女がここに?」
意識が朦朧としていたのだろう。どうやら『何か食べ物を』と言ったことを覚えていないらしい。問う声には非難の棘がある。
「……すみません。お夕飯を食べようと思ったら迷ってしまってこのお部屋にたどり着いたんです。一緒に食べませんか?」
状況はともかく、侍女に元気になってほしい香織はいろいろを語らず、土鍋の蓋を開けた。
ふわり、と湯気が上がり炊き立てのお米と茸の芳ばしい香りが広がる。
茸のお粥だ。
椎茸に似た茸を乾燥茸をぬるま湯に浸すと瞬く間に柔らかくなったので、その戻し汁も使ってお粥を炊いた。
茸の芳ばしい香りと微かな塩味でそのまま食べても美味しいが、せっかくなので小厨房に保存してあった泡菜を添えた。
「茸のお粥です。よかったらどうぞ」
香織が湯気上がる皿と匙を渡すと、侍女は香織を睨んだが、空腹に負けたのかすぐに皿と匙をひったくるように取った。
ふっふと乱暴に冷ましてひと匙、粥を口に運んだ侍女は驚愕に目を見開いた。
「……おいしい」
擦れた声はすぐに次のひと匙に消え、侍女は次々と匙を口に運びあっという間に一杯を食べきった。
「おかわり、食べますか?」
香織から目を逸らし、けれど無言で皿を突き出してきた侍女に土鍋から茸粥をよそって渡し、香織は自分も食べ始めた。
(この泡菜、とっても美味しいわ)
泡菜はこちらの世界では家庭常備菜だそうで、明梓に教えてもらって香織も作り、おそうざい食堂にも出していた。どちらも美味しいと思っていたが、小厨房にあったこの泡菜は一味違う。
「きっと何か、隠し味になる物が入っているんだわ。レシピが知りたい……」
あれだろうか、これだろうか、と泡菜の隠し味に思いを巡らせていた香織は、大きな咳払いに顔を上げた。
「あ、おかわりですか?」
「ち、ちがうわよっ、もういらないっ」
とはいえ土鍋の粥はほとんどが侍女のお腹に入ったので、きっと空腹は納まったにちがいない。
「よかった――」
言いかけた香織は胸元をつかまれて言葉を呑みこんだ。侍女は噛みつきそうな顔で香織に迫ってきた。
「よくないわよっ! このっ……泥棒猫っ!!」




