第十話 尚儀局にて
紫蓮宮を出てしばらく、赤い大きな楼門をくぐった先へ、真っ白な玉砂利の敷かれた道を歩く。
前を行く紫珠と女官二人に遅れないように気を付けつつ、香織は周囲の景色に圧倒されていた。
「すごい建物ばかりだわ」
思わずほう、と感嘆の溜息を洩らすと、紫珠が振り返った。
「香織様は、この辺りは初めてでございますか?」
「はい。紫蓮宮の周囲とはまた違った美しさですね」
紫蓮宮やその周囲の宮は、朱の欄干や柱、瑠璃瓦が海のように輝き、吊灯籠から柱の意匠まで金細工も華々しい豪華絢爛な風景だった。
対して、この辺りは黒い瓦に柱も黒、シミ一つない白い外壁。落ち着いた色合いの木材で組まれた欄干。硬い印象ではあるが、整然とした美がある。
ほほ、と紫珠が袖で口元を隠して笑った。仕草の一つ一つに気品のある人だなと香織は思う。
「噂は本当でしたのね。玲栞様は、香織様を紫蓮宮に閉じこめてしまった、と」
「え?!」
香織は驚いた。確かに、玲栞に『公主教育が終わるまで紫蓮宮から出さない』と言われたが。
「閉じこめたなんてそんな。玲栞様はわたしに公主教育をしてくださるために紫蓮宮を使うのだとおっしゃっていました。悪意はないのだと思います」
玲栞にはけっこう酷く打たれているが、それは玲栞の厚意だと香織は信じていた。
玲栞の香織に対するあの態度は、公主教育のためだと。
人に対して辛く当たるというのは、けっこうエネルギーを使うものだからだ。
「まあ……香織様は真っすぐに綺麗な心にお育ちになりましたのね。こうして香織様を王城へ迎えられて、亡き王もお喜びになっておられるでしょう」
紫珠はうれしそうに目元を和ませる。
(紫珠様は、わたしが公主だって信じてくれているんだな)
そのことが香織の胸を温かくした。
「この呉陽国王城の後宮は大きく五つの区域に分かれます」
いつの間にか紫珠は香織の隣に並んで歩いていた。
「紫蓮宮のあった区域は後宮の中心に位置し、王や王族のお住まいです。また王の宮からは妃嬪たちが住む区域である西宮に近い。
東宮は王太子とその妃嬪が住まう区域。
そしてこの区域は南宮と呼ばれますの」
紫珠が繊手を揚げ、建物を指し示す。
「ここには内侍省を含め、後宮六局の宮があります。こちらから奥へ向かって、尚宮局、尚寝局、尚食局、尚服局、尚功局、そしてここが」
とある宮殿の手前で紫珠が立ち止まった。尚宮局だという宮殿の、向かいに位置する宮殿。その黒い門の前で紫珠はにっこり笑う。
「尚儀局です。ようこそ、香織様。婚礼のお支度をいたしましょうね」
♢
内廷で行われる催事は、内侍省と尚儀局が司る。
今回は婚礼ということもあり、尚儀局が一切を取り仕切るのだという。
「お支度と言っても、香織様にしていただくのは最終的な点検ですから御安心を。慣例に則って尚儀局が準備した品を、香織様のお好みに合わせていく作業ですの」
そう言って通された部屋に用意された品々に、香織は目がくらんだ。
「す、すごい……」
衣桁に何着もの煌びやかな衣装がかけられ、漆黒の螺鈿細工の卓子には首飾りや耳環、腕環なとの装飾品がずらりと並べられている。
それら宝の山の中心に、衣桁に掛けられた二着の深紅の衣裳が目を引いた。
どちらも光沢のある絹地で、金糸銀糸で見事な花と鳥のような生き物が刺繍が施されている。
「あの、これってもしかして」
「はい。術師様と香織様の婚礼衣装ですよ」
「こ、こんれい、いしょう」
自分で言ってて顔が熱くなった。
これを着て耀藍と並んで立つことを考えただけで、地に足がついていないような夢心地になってしまう。
(わたし、本当に耀藍様と結婚するんだ……)
ぼうっとした頭で思ったとき、紫珠の一言で現実に引き戻された。
「術師様は青がお似合いになりますよね」
「え?」
「あの吸い込まれるような青い瞳と同じ青系統の衣装。瑠璃色や紺色があの方を特に引き立てる。逞しい御身体には、帯はどんな色が合うかしら……」
ハッとして隣の紫珠を見れば、どこか遠くを見るような、うっとりとした表情をしている。香織の存在を忘れたように、一人で耀藍の衣裳について語っている。
それは先ほどまでの紫珠とは別人の、艶やかで匂い立つような女人の姿だ。
「あの……」
おそるおそる香織が声をかけると、紫珠は驚いたように目を見開いた。
「あ、あたくしったら、やだわ、申し訳ございません。衣装のことになるとつい、思考に沈むことがありまして。とんだ失礼を致しました」
「いえ、気にしないでください」
「まあ、香織様はお優しい」
ほほ、と上品に笑う紫珠は、先ほどまでの高位女官の表情に戻っていた。
「ここにある衣装はすべて、婚礼で香織様がお召しになる衣装です。お気に召さない物はございますか? 色柄などのお好みもお伺いしたいですわ」
香織は仰天する。とんでもない。ここにある衣装、一着だけでも充分すぎるほどに思えるのに。
「気に入らないとかまったくないので! こんなにたくさんの綺麗な衣装、わたしにはもったいないくらいですから!」
「あらあら、香織様は欲のない御方ですわね」
紫珠は優雅に微笑むと、卓子の上に置いてある宝石を散りばめた装飾品や沓の間から、一冊の冊子を手に取った。
「ではこちらをどうぞ。祝宴のお料理の目録ですわ」
「わあ……」
冊子を広げて、思わず見入ってしまう。そこには、婚礼の儀で口をつけるお酒の種類から祝宴料理まで、料理名と食材が事細かに記されている。
(聞いたことのない食材もけっこうあるわ。これはこの世界特有の物なのかしら。お料理の名前も、初めて聞くも物が多い。いわゆる宮廷料理というやつかしら)
ふふ、という笑い声が聞こえるまで、香織は冊子に没頭してしまった。ハッと顔を上げれば紫珠が笑っている。
「す、すみません! つい、その、珍しい食材やお料理がたくさんあるので」
「いいのですよ。香織様に検めていただくためにお見せしているのですから。でも、その御様子だと、香織様が市井でとても評判の良い食堂を営まれていたというのは本当のようですね」
「ええ、はい、まあ」
本当はこれから先もこっそり営む予定だが、そのことは黙っておく。
「苦手な食材などございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
そう言われて、香織はハッとする。
これは絶好の機会ではないだろうか。
今頃、璃晴も頼んだ仕事をしてくれているだろう。香織も好機を逃さずに調査できることは調査しなくては。
「紫珠様。一つお願いがあるのですが」
「はい、何なりと。一つと言わず、なんでも仰ってください。どの食材のことですか?」
香織はごくりと唾を飲みこみ、思いきって言った。
「いえ、食材のことではありません。食材の保存庫と厨を見せていただけないでしょうか」




