第42話 今は少し、君が恋しい
風に靡く金髪は絹糸のように流れ、笑う口元には一切の皮肉がない。
そして、透き通るような、淡い緑の瞳。
──どうして忘れていたのだろう。
かつての姉は、この美しい色を持っていた。
「姉さん……」
「今まで本当に、お疲れ様」
絵画のような、澱みない完璧な微笑み。
分かっている。これはあの彫像が作り出した幻想だ。
絵本で見たことがある。悪者が最愛の人の幻影なんかを作り出す、卑劣な技。
まさか自分がそれを受けるなんて思っていなかったが、確かに、自分を引き止めるなら、姉の姿は効果的だろう
「でも、もういいの。みんな、心配してるよ。楓も、陽菜ちゃんだって」
「っ……」
覚悟はしていたものの、早速痛いところを突かれて言葉を失う。
陽菜のことは、努めて考えないようにしていたのに。
結局、楓にも陽菜にも何も言わずに出てきてしまった。
心配をかけることは分かった上での、酷い行い。
それでも、仕方がないではないか。
会話して、引き止められてしまえば、優柔不断な自分のことだ。
きっと決意なんて簡単に揺らいでしまう。
そうなれば、待っているのは愛する人達の破滅。
決して、立ち止まるわけにはいかなかった。
「姉さんは、どう?私のこと、心配してる?」
これが幻想であると、確信を得るために問いかける。
きっとこの姉は、完璧な答えを返すだろう。
「当たり前でしょ。あなたのことを、愛しているもの」
何の衒いもなく向けられる、完璧な微笑み。
吸い寄せられるようにふらふらと歩いていき、姉を抱きしめる。
自分より少し高い姉の体温と、お日様のような香りが、酷く懐かしい。
少し前の自分であれば、この幻想に囚われていたかもしれない。
「そう、残念」
躊躇いなく、姉の首筋に歯を立てる。
口の中に広がる、砂のような不快な感触。
姉は悲鳴をあげるどころか、抵抗すらしない。
当たり前だ。姉が悲鳴を上げているところなんて、自分に想像できるわけがない。
そのまま腕の中で、姉の幻想は砂のように崩れ去っていく。
折角、あの頃の姉に会えたのに、少し勿体無いことをしただろうか。
きっと、あの美しい笑みを見ることはもうない。
それでも──美しくなくとも、もっと愛おしいものを、知ってしまった。
それに、久しぶりに太陽のような笑みを見て、確信した。
あの完璧な姉は、今の自分には眩しすぎる。
もっと意地悪く、不器用で、素直じゃないくらいが、きっと丁度いい。
砂に戻った姉をしばらく見下ろし、踵を返す。
幻想は消えたが、頭を侵す目眩は止まず、夢からはまだ覚めそうにない。
ふらつく足で部屋を出ようと、ノブに手をかけた途端──呼び止められた。
「涼花さん」
本当に、嫌になるほど的確に、こちらの弱点を突いてくる。
ずっと聞きたくて、今は聞きたくなかった声。
思わず振り返れば、そこには彼女がいた。
それほど時間は経っていない筈なのに、やけに久しぶりに会ったような不思議な感慨。
改めて、本当に綺麗になったなと、場違いな感想を抱いた。
昔から美しい少女だった。けれど今の彼女が纏うのは、かつてのような儚い美しさだけではない。
その身に秘めた強い意志が、彼女をより鮮烈に輝かせている。
それは、その瞳に見据えられただけで、思わず心臓が跳ねてしまうほどに、
それにしても、姉はまだしも、陽菜の幻想まで使ってくるとは。
どうして、陽菜なのだろうか──そんな愚かな思考が過り、考えるまでもないかと腑に落ちる。
──まあ、つまり、そういうことだった。
「お願いですから、帰ってきてください。涼花さんにもしものことがあったら、私は……」
そう言って涙を流す陽菜。我ながら、たちの悪い妄想だった。
外見は今の彼女のまま、昔のように泣きじゃくっている。
酷い考えだけれど、成長した陽菜の泣き顔も美しいなんて思ってしまった。
そして、つい、魔が刺した。
「なんで、そんな心配してくれるの」
涙を拭いながら、陽菜が柔らかく微笑む。
「涼花さんを、愛してますから」
──ああ、馬鹿みたいだ。
現実で埋められない寂しさを、幻想に縋って埋めようとしている。
偽りの愛の言葉だと分かっているのに、嬉しくて仕方がない自分がいて、もうどうしようもなかった。
そして、幻想だからこそ、なんの罪悪感も抱かなくて済む──そんな最低なことを考えてしまう。
それでも、もう限界だった。
今から伝えることも、することも、現実の彼女にはとても出来ない。
きっと、罪悪感と羞恥心が邪魔をしてしまうから。
陽菜に近づいて、肩に手をおく。
真っ直ぐ視線を合わせて、伝えなくてはいけなかったことを、吐き出す。
「私も、愛してる。でも──ごめんね。全部、勘違いだから」
そう、全部。勘違いだったのだ。
ずっと、疑問に思っていた。
何故こんなに美しい少女が、自分のような人間を愛してくれるのか。
昔助けたとはいえ、いくらなんでも話が美味すぎるし、都合が良すぎる。
ただ、姉の日記を読んで、ようやく謎が解けた。
──全て、運命によって仕組まれたことだった。
運命的な出会いも、胸が溢れるような愛情も。
全部が全部、お膳立てされたものでしかなくて、陽菜はそれに巻き込まれた被害者だった。
なんて残酷で、傲慢な所業。
許せない。そう思うべきなのに。
どうしても、運命を恨むことはできなかった。
不器用で、陰鬱で、失敗だらけの自分の人生。
それなのに、振り返ってみれば沢山の愛情に囲まれていた。
何もないなんて嘆いていた日々が、今や程遠い。
もう十分、満たされた日々を送らせてもらった。
もし、全てを自分の意思で選べたとして。
これ以上の人生なんて、望めるはずもなかった。
だから自分に出来ることは、運命に感謝することだけ。
愛しい出会いに、ただ感謝を。
「全部忘れて、幸せになってね」
震える指先で、濡れた頬をそっと包み込む。
陽菜は拒絶することなく、静かに瞼を閉じ、まるでそれを待っていたかのように顎を上げた。
互いの吐息がかかる距離。世界から音が消える。
祈りを捧げるように、その柔らかな唇へと自らのそれを重ねた。
待ち焦がれた、初めての口づけは──なんの感触も残さなかった。
味も、温度も、柔らかさもない、砂のような感触。
少し残念に思うが、分かっていたことだ。
これは自分の記憶を元に作り出された、都合のいい幻想。
経験したことのない記憶は再現できないというのは、当然の話だった。
名残惜しさを振り切って、ゆっくりと唇を離す。
最後に、その涙に濡れた頬に唇を落とし、身を離した。
「ばいばい、陽菜」
別れを告げ、己の肩に氷柱を突き刺す。
鋭い痛みとともに、景色が揺らいでいく。
気がつけば、またあの純白の空間に立ち尽くしていた。
後に残るのは、虚しい余韻だけ。
「最後にキスぐらい、したかったなぁ……」
そう嘆息して、そのまま地面に転がる残骸──彫像の頭部に近づく。
「言い残すことは──なんて、喋れやしないか」
額に刀を突き刺せば、今度こそ彫像は砂のように崩れ去った。
待ち望んだ勝利。今の自分なら多少は心が動くかと思ったが、こんなものか、という乾いた感想しか湧いてこなかった。
「勝ったよ、陽菜」
呼びかけるが、当然返事はない。
胸に広がる寂しさを誤魔化すように、強く頭を振った。
まだまだ先は長いのだ。こんな所で立ち止まっている時間なんてない。
そう無理矢理、自分に言い聞かせる。
しかし、一歩踏み出そうとして、足がもつれて盛大にふらついた。
思わず膝をつく。頭の奥が熱を帯びて、酷く疼いていた。
立ち上がろうとするが全身に力が入らず、地面に倒れ伏す。
そういえば、最後に眠ったのはいつだったか。
それどころか、食事をした記憶すらなかった。
時間の感覚が曖昧だったせいで、少々無茶をしてしまったかもしれない。
緊張が途切れた反動か、急激な眠気が襲いかかり、思考が泥のように重かった。
──まあいい、少し休むだけだ。
起きたら、また歩みを再開しよう。
すぐに頂上まで辿り着いて、目的を果たそう。
そして、その後は。
……その後は、恐らくない。
ああ、怖くなんてない。それでも。
それでも今は少し、君が恋しい。
「会いたいよ……陽菜」
そう呟いて手を伸ばすが、当然その先には何もない。
視界が狭まり、意識が深い闇に沈んでいく。
最後に見たのは、指先から白く凍りついていく、自身の身体だった。
§
静まり返った塔の内部。
先程までの激闘が嘘のように、そこは静寂に満ちていた。
冷気が漂う空間の中、一人の女が倒れている。
まるで冬眠するかのように、その身体は厚い氷に閉ざされ、女は長い眠りにつく──そのはずだった。
動くもののいないはずの空間に、硬質な足音が響いた。
いつも読んでいただき、誠にありがとうございます。
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これにて3章は完結で、3日後に間話(あの日のエレナさん編)を投稿し、その後4章を開始します。
お待たせしてしまい申し訳ございませんが、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。




