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第42話 焦心

辺り一面を純白に覆われた空間を、黒い影が疾走する。

空中に次々と生成される氷の柱を足場に、女は重力を無視して宙を駆けていた。

対するは、広々とした空間を埋め尽くさんばかりの、無数の目玉達。

女は放たれる熱線を紙一重で躱し、宙に漂うそれらをすれ違いざまに氷刃で両断した。


──全身が羽根のように軽い。

久しく感じていなかった高揚感と、飛ぶように流れる景色。

世界の全てを置き去りにするようだった。


着地と同時、酷使した筋肉が悲鳴を上げる。

衰えていた身体が、急激な負荷に悲鳴を上げていた。

自身を縛りつける肉体という枷を煩わしく思うが、久しぶりの痛みを心地よく感じる自分がいるのも確かだった。


──別に自棄になったわけではない。

死にたくない。そう思う気持ちは、今でも変わっていない。

それでも、あんな姉の姿を見てしまったら、恐怖など吹き飛んでしまった。


戦ってくれと、懇願する姉。

なんでもないように取り繕いながら、それでもあの美しい顔には、隠しきれない悲痛があった。

あんなの、殆ど答え合わせだった。

日記を読んだだけでは半信半疑だった、姉の本心。

ずっと自分に注いでくれていた、海よりも深く、静かな愛情がそこにはあった。


そして──思い出の中で輝いていた太陽よりも、何倍も尊い、不器用な笑顔。

涙でぐしゃぐしゃで、頬は引き攣っていたし、隈も酷かったけれど、それが何より愛おしい。


あんな綺麗な物を貰ってしまったら、あとは自分が姉の期待に応えるだけ。

その上、こんな自分の身一つで、大切な人達を守れると言うのなら、怖いものなどなかった。

とうに捨て値で売り払うつもりだった命に、思わぬ価値がついた。

ならば、使い潰すまでだった。


「あれ……」


肩に走る鈍い痛みで、現実に引き戻される。

少し、感傷に浸りすぎただろうか。

被弾していたことすら気づいていなかった。

かつてと同じか、或いはそれ以上に軽い身体と、鈍りきった感覚の差。

これを埋めるのには時間がかかりそうだと、独り嘆息する。

焦げ臭い匂いに顔を顰めながら、傷口に短く息を吹きかける。

傷を塞ぐように霜が降り、すぐに氷の膜が形成される。

応急処置ならこれで十分だった。


顔を上げれば、既に無数の目玉達が周囲を取り囲んでいた。

赤く血走った眼球が、一斉にこちらを向き、膨大な熱量を蓄え始める。

逃げ場のない、全方位からの集中砲火。


嘆息して、指を鳴らす。

すぐに半透明の氷のドームが、周囲に形成された。

直後、無数の熱線が放たれ、激しい蒸発音と共に視界が白く染まった。

それでも、ドームには罅一つ入ることはない。

数だけは凄まじいが、あの全てを貫く理不尽な熱線に比べれば、大したことはなかった。


氷の幕の中で、深く息を吸い込み、思考を研ぎ澄ます。

イメージするのは──天から降り注ぐ、裁きの光。

この世の不条理を全て消し去る、無慈悲で美しい力。


そうして現れたのは、天井を埋め尽くすほどの、星のように煌めく無数の氷柱。

女が腕を振り下ろし──それらが流星のように地上に降り注いだ。


§


終わりのない螺旋階段を、ただひたすらに登り続ける。

陽の射さない塔内では、時間の感覚などとうに失われていた。

今は朝なのか、夜なのか、それすら曖昧だった。

白一色の閉鎖空間が、精神を少しずつ摩耗させていく。


ようやく見えた階段の終わり。

踊り場に鎮座するのは、見覚えのある重厚な石扉。

その根本には、赤黒く変色した染みがこびりついている。

──あの日、自分が流した血の跡だ。

それはここが紛れもなく死地であることを告げる、無言の警告だった。


少し上がった息を整える。

指先で小さな水球を生み出し、乾いた喉を潤した。

前回は、この一つ下の階層で休息を取り、万全を期して挑んだ。

今回もそうすべきか一瞬迷うが、すぐに首を振る。

あの時の恐怖が蘇る前に、勢いのまま踏み越えてしまいたかった。


迷いを断つように、扉に手をかけ、一気に押し開く。

冷たい空気が吹き荒れ、広大なドーム状の空間が露わになる。

巨大な大理石の彫像は、前回と変わらぬ姿で部屋の中央に鎮座していた。

台座に縫い付けられた巨体。

その首にある猛禽類を思わせる鳥の顔が、虚ろな眼窩で涼花を見据えていた。


「リベンジ、させてもらうよ」


挨拶代わりの一撃。

涼花は走りながら、鋭利な氷の槍を生成し、投擲した。

一直線に鳥の頭部へ迫る氷槍。

だが、鳥の眼窩が妖しく光った瞬間、短く風切り音が鳴る。

槍は何かに切り刻まれたように空中で霧散してしまった。

そのまま鳥の視線が、涼花へと向けられる。


即座に真横へ飛び退く。

直前まで立っていた空間を、鋭い風が薙いだ。

頬に風圧を感じさせる程の僅差。やはり油断できる相手ではなかった。

彫像と睨み合い、一瞬の静寂。

涼花は体勢を低く沈め、床を蹴った。爆発的な加速。

放たれる不可視の刃を、視線と直感だけを頼りに、紙一重で回避していく。

右へ、左へ。変則的な軌道で、一気に距離を詰める。

──いける。刃が届くまで、後少し。


その時、彫像の首が回転した。

鳥の頭に代わり、現れたのは太い角を生やした牛の顔。

そして、見えない巨人の掌が振り下ろされるような、凄まじい圧迫感。

空気まで歪むような圧力が、涼花を地面へと叩きつけようとする。


「っ……!やっぱそれ、ずるいでしょ……!」


だが、悪態をつきながらも、この手は読んでいた。

完全に囚われる直前、涼花は足元の床に向けて、腕を振り下ろす。

地面から太い氷柱が爆発的な勢いで隆起した。

その氷柱に弾き飛ばされるようにして、涼花の体は重力の檻から強制的に射出される。

計算通りの軌道。

宙に放り出された涼花は、その勢いのまま体を回転させ、眼前に迫る牛の額へと氷の刀を突き立てた。


想像していたよりも柔らかい手応えと共に、刃が深々と彫像の皮膚を貫く。

石のような見た目に反して、柔肌のような、なんとも悍ましい感触だった。

直後、牛が耳をつんざくような悲鳴をあげ、巨体を激しく震わせた。

そのまま反動を利用して後方へ跳ぶ。

受け身を取り、数回地面を撥ねて勢いを殺して着地するが、着地の衝撃で治りたての左足が痛んだ。

顔を顰め、痛みを堪える。


手応えはあった。相当いい一撃が入ったはずだ。

それでも、追撃したい衝動を理性で抑え込む。

焦りは禁物。この先もまだ戦いは続くのだ。

ここで取り返しのつかない傷を負うことの方が、よほど致命的だった。


呼吸を落ち着けて、彫像と睨み合う。

牛の額からは、血の代わりに灰色の砂が滝のように零れ落ち、彫像が苦悶するように身を捩っている。

いい気味だが、前回受けた苦痛を思えば、まだまだ足りないぐらいだった。


「出し惜しみしてたら、死んじゃうよ」


挑発が届いたのか。

あるいは、損傷した顔を隠すためか。

彫像の首が再び回転し、憤怒の形相を浮かべた獅子の顔が現れる。

口が大きく開かれ、喉の奥で紅蓮の炎が渦を巻き始めた。


あの日の記憶。

身体の内側から焼かれる痛みと、命がこぼれ落ちていく喪失感が蘇る。

それでも、引くわけにはいかなかった。

恐怖ですくみそうになる足を、笑い飛ばして誤魔化す。

──大丈夫。これを待っていた。


獅子の口に膨大な熱量が収束し、直視できないほど眩い白光に変わる。

張り詰めた空気が、甲高い悲鳴を上げ、それが放たれる直前。

涼花は逃げることなく、正面から腕を振り上げた。

展開するのは盾ではない。

イメージするのは、全ての理不尽を跳ね返す、曇りなき銀鏡。


極限まで密度を高め、磨き上げられた氷の鏡が、宙に顕現する。

直後、眩いほどの熱線が放たれた。

全てを焼き尽くすはずの熱量は、吸い込まれるように銀鏡にあたり──そして、光の束となって反射された。


己の放った熱線を浴びた獅子の顔が、内側から破裂する。

凄まじい衝撃波と爆風が吹き荒れ、彫像の上半身が砕け散った。

涼花は即座に水球を展開し、爆風と飛来する瓦礫をやり過ごす。


砂煙が晴れると、そこには無惨に破壊された台座と、地面に転がる巨大な頭部だけが残されていた。

終わった。

涼花は警戒を解かずに、転がる彫像の首へと近づく。

まだ小さく呻いている頭部に終止符を打つため、氷の刀を握り直した、その時だった。


動かないと思っていた彫像の首が、鈍い音を立てて回転した。

四つ目の、顔。それは無機質な仮面のような──人の顔をしていた。

その虚ろな瞳が、至近距離で涼花を見据えた。


「──っ」


視線が合った瞬間、世界が歪む。

強烈な目眩と頭痛が脳髄を駆け巡り、立っていられなくなる。

視界が暗転し、意識は泥の中へと沈んでいった。


§


ふと、温かい日差しを感じて目を開ける。

そこは、見慣れた自分の部屋だった。

塔の冷たい空気も、体の痛みもない。

柔らかいベッドの感触と、窓から差し込む穏やかな陽射し。

そして、目の前には──


「おはよ、涼花」


太陽のように微笑む、美しい女がいた。

艶やかな金髪が、流れるように風に靡く。


「姉、さん……?」


慈愛に満ちた眼差しでこちらを眺める女は、淡い緑の瞳をしていた。

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