第41話 慟哭
夢を、見ていた。
まだ学生だった頃、いつも利用していた地下鉄のホーム。
携帯の着信音。耳障りな換気扇の音。機械じみたアナウンス。
人々の喧騒と自然に混じり合う、今や聴くことのできないそれらが、これが夢だということをすぐに教えてくれた。
湿った風が吹き抜け、トンネルの奥から轟音と共に、二つのヘッドライトが迫ってくる。
耳障りな警笛が響き、初めて自分がホームの縁いっぱいに立っていたことに気がついた。
──分かっている。黄色い線の内側に、だ。
生まれはこの国ではなかったが、流石に何年も過ごしていれば、最低限のマナーぐらいは身に付いていた。
嘆息して、大人しく一歩下がろうとした瞬間──背中に、小さな掌の感触があった。
「──ばいばい」
聞き慣れた、愛おしい声。
振り返る間もなかった。
その小さい手からは想像もできないような強い力で突き飛ばされ、体が宙を舞う。
視界の端に映ったのは、ホームに立ち尽くす、無表情な黒髪の少女の姿。
迫りくる鉄の塊。けたたましい警笛と砕ける骨の幻聴を聞いた。
死が、目前まで迫り──
§
底のない奈落へ突き落とされる浮遊感で、エレナの意識は急速に覚醒した。
荒い息を繰り返すたび、ゆっくりと現実の世界が色づいていく。
どうやら、いつの間にか意識を手放してしまっていたらしい。
強張った体を起こし、凝り固まった首をゆっくりと回すと、体の内側が削られるような鈍い音が響く。
背中には、冷たい汗がびっしりと張り付いていた。
「……はぁ」
窓の外は、冬の朝特有の寒々しい白光に満ちている。
机上に目をやれば、終わりの見えない報告書の山。
起きたらそれらが消えているなんて都合のいい話はなく、意識を失う前と同じ光景がそこにはあった。
ここ10年近く、生活の大半は書類との睨めっこに費やしていたが、近頃の余裕の無さはいつにも増して拍車がかかっていた。
それもこれも、全て治安の悪化が原因だった。
南西の街道に出現したオークの群れ、北西の農耕区画を襲う新種の魔物、そして──日に日にその濃度を増す、北東の山間部を覆う赤黒い魔素の雲。
加えて、外部の不安は内部へと伝播し、コロニー内の治安悪化も懸念されていた。
幸いにも今は黎明祭を控えたお祭りムードということもあり、人々の気は紛れているようだが、それもいつまで保つか。
残された時間が少ないことだけは確かだった。
それでも、逃げ出すわけにはいかない。
目の前のことを一つ一つ、処理するしかないのだ。
重い吐息をこぼし、冷めたコーヒーに手を伸ばそうとした、その時だった。
「おはよ、エレナ」
聞こえるはずのない声。弾かれたように顔を上げる。
そこには、いるはずのない妹がソファに腰掛けていた。
「……っ、おはよう。どうした、忘れ物でもしたか?」
震える声を抑えて言葉を返す。
完全に油断した。妹にこんな無様な姿を晒すつもりはなかった。
でも、何故。前回コロニーを出発してから、まだ二週間も経っていないはずだった。
「いや、ちょっと怪我しちゃってさ。休養のために帰ってきただけ」
なんでもないことのように妹が告げる。
寝ぼけた頭に冷や水を浴びせられたようだった。
何を偉そうに、呑気に寝ていたのか。
妹は文字通り命懸けで、自分のせいで戦っていたというのに。
今度こそホームに飛び降りてしまいたいような後悔と、鋭い痛みが襲う。
口内に広がる鉄の味が、エレナを無理やり正気へと引き戻した。
「傷は、もういいのか」
「それは……うん。もう、大丈夫」
平気そうに言うが、そんなはずはない。
ここしばらく、妹は前のように戦うことができなくなっている。
それはつまり、全身を突き動かしていた衝動の火が消えてしまったということに他ならない。
そんな状態の妹を死地に送る自分は、最低な姉に違いなかった。
それでも、もう時間は残されていない。
妹の持つ魔法のような力── 人知の及ばない奇跡に甘えるしか道はなかった。
「……まだ、戦えるか」
「それなんだけどね。私が今日ここに来たのは、もう戦うのも嫌になったって伝えにきたから──って言ったら、どうする?」
「っ……」
思わず息を呑む。
──ついに、この日が来てしまった。
あれだけ魔物を殺すことに執着していた妹が、剣を置く日が。
それは、戦いよりも大切なものを見つけたということ。
きっと、変えたのはあの少女だ。
そのことが姉としては何よりも嬉しい。
そして、その気持ちは他ならぬ自分が痛いほどよくわかった。
それでも、ギルドの代表──英雄としては、許容するわけにはいかない。
──大丈夫。地獄に落ちる覚悟なら、とうに出来ている。
こんな時になんと言うか。何年も前から決めていた。
何度も頭の中で繰り返した通りに、淡々と妹を操れば良い。
自分にはそれができるはずだった。
そうだ。昔から、大抵のことは思い通りになった。
若い頃は、この世の攻略法を見つけたように、殆どゲームでもするように、人を操った。
愛しい妹に出会って、生き方を見つめ直しても、それは取り繕っているだけだった。
結局、化けの皮はすぐに剥がれ、性根の歪んだ自分が顔を出した。
そんなどこまでも腐った自分なら、愛情に飢えた小娘一人を操るなど、造作もない。
そう自分に言い聞かせて、思考を冷たい英雄のそれに切り替える。
神咲エレナというのは、こういう人間だった。
「涼花。お前がずっと知りたがっていたことを、教えてやる。だから……頼む。許さなくてもいい。全てが終わったら、私を殺してもいい。それでも──お前にしか、頼れないんだ」
造作もない。その筈なのに、口を開きながら、殆ど自殺したような気分だった。
罪悪感で妹の顔が見れない。
どんな目で、愚かな姉を見ているだろうか。
「ずっと、黙っていて悪かった。昔のお前は、私が姉と呼ばせることに、疑問を持っていたな。それは……お前の母親を、私は知っているからだ」
淡々と、頭を空にして、言葉を紡ぐ。
これを話してしまえば、もう後戻りできない。
もう、この子の姉を名乗る資格なんて無くなってしまうだろう。
視界が滲むのを天を仰いで誤魔化し、口を開く。
「お前の母親は──」
「大丈夫。大丈夫だよ、エレナ」
穏やかな声に制された。
そのあまりに優しい響きに、思わず視線を向けてしまう。
そして、妹の顔を見てしまった。
そこには、見慣れていたはずの、ずっと前に失ってしまったはずの表情があった。
幼い頃、無邪気に自分を慕ってくれていた頃のような。
一点の曇りもない、澄んだ海のような瞳で微笑む妹が、そこにはいた。
「大丈夫。全部分かってるから」
幼子のように、純粋に。妹が微笑む。
何よりも取り戻したいと願い、守りたかったはずのその笑顔。
けれど、それを前にして、エレナの背筋に冷たいものが走る。
不吉な予感。何か、致命的なズレが生じている。
「エレナ、そんな悲しい顔しないで」
妹が視線を落とす。
釣られて、その視線の先を見る。
どうして、今の今まで気づかなかったのか。
ソファに座る妹の膝元には、見覚えのある革張りの手帳があった。
「あ……」
思考が白く染まる。
腰から力が抜け、気づけば身体は椅子に崩れ落ちていた。
妹が立ち上がり、ゆっくりと目の前まで歩いてくる。
「大丈夫。全部、私がなんとかするから。だから──」
細い指先が伸び、エレナの顎を持ち上げた。
視線が合う。
吸い込まれそうな美しい海が、己の煤けた瞳を見透かしている。
只人には抗うことが許されない、絶対的な神秘の色。
「だから、笑って?」
逆らうことなど、できなかった。
引き攣る頬を無理やり持ち上げ、せめてもの精一杯の笑顔を作る。
それを見た妹は、ふっ、と吹き出し、可笑しそうに目を細めた。
「下手くそ」
妹は悪戯っぽく笑い──そのまま身を乗り出し、エレナの頬に、唇を落とした。
「……っ」
触れた場所から広がる熱に、視界がぼやける。
幼い頃、毎日のようにしていた、おやすみの口付け。
ずっと素直じゃなかった妹が、今になってこんな事をした、その意味。
それが分からないほど、耄碌してはいなかった。
「……待て。やめろ、待ってくれ……」
伸ばした手は、空を掴むだけだった。
身を離し、背を向け、妹は部屋の出口へと歩き出す。
「じゃあね、エレナ。上手に笑えるようになるまで、死んじゃだめだよ」
呪いのような言葉を残して、愛しい妹は去っていく。
エレナには、その小さな背中を見送ることしかできなかった。
悲鳴のような、懺悔のような慟哭が、部屋に響き渡った。




