第39話 日記
間違えて昨日のお話を再投稿しちゃってました。
最新話を上げ直します!すみません!!!
何かが頬を撫でる感触に、意識が浮上する。
澄んだ空気と、窓から差し込む朝日の暖かさが心地いい。
少しの眩しさに目を細めると、ベッドの縁に腰掛け、こちらを覗き込む楓の顔があった。
「おはよ、ねぼすけ」
「なに、してんの」
「何よ。泊めてあげたんだから、寝顔ぐらい見せなさいよ」
悪戯っぽく笑う楓に、昨晩の記憶が蘇る。
布団で眠った記憶はなかった。
きっと彼女の腕の中、泣き疲れて眠ってしまった自分を運んでくれたのだろう。
改めて思い返すと、なんとも面映ゆい。
涼花は気恥ずかしさを誤魔化すように、寝返りを打って顔を隠した。
少しの沈黙の後、掛け布団が持ち上がり、背中には暖かい体温。
するりと潜り込んできた楓に、後ろから抱きしめられてしまった。
「私も今日は、1日中寝ちゃおうかしら」
「……だめ。エレナのとこ、行かないと」
耳元で囁かれる甘い誘惑。
このまま楓と何もしない一日を過ごすのも悪くない、一瞬そう考えてしまった。
けれど、ここで甘えてしまえば、昨日の決意が嘘になる。
姉の元に行って、伝えなくてはならない。
もう戦うのが怖くなってしまったと。
自分は姉のようには、なれなかったと。
──出来るだろうか、自分に。
思えば姉の言葉に逆らったことなどなかった。
大きくなってからも軽口ばかりで、いつだって真剣に向き合うことから逃げ続けてきた。
ただ、頭を空にして姉の言うことを聞き続ければ、少なくとも見限られることはないと、そう自分に言い聞かせて。
けれど、もう終わりにしなくてはいけない。
自分の弱さを認め、傷つけてしまった陽菜と向き合うために。
今も心配しているであろう彼女を、早く安心させてあげるためにも。
「付き添いは、必要かしら」
見透かしたように、楓が問う。
その優しさに甘えたくなる衝動を抑えて、涼花は首を横に振った。
「……ううん。一人で、大丈夫」
これは、逃げ続けた自分への試練だ。
最初で、そして最後になるかもしれない、姉への反抗。
きっと、自分一人で為すべきことだった。
それに、彼女には別に頼みたいことがあった。
「楓、あのさ……」
「大丈夫。陽菜ちゃんの様子は、私が見に行ってあげる」
言い当てられ、思わず寝返りを打って楓の方に向き直る。
楓は枕に頬を埋めたまま、どこか遠くを見るように目を細めていた。
「いいの?」
「私も、ちょっとは責任感じてるの。私の分までって、あの子に背負わせすぎたかなって……」
楓の言葉の意味は、涼花にはよく分からなかった。
けれど、彼女に任せれば、きっと大丈夫だ。
昔から彼女は器用で、人の痛みに気づくことができる優しい人だったから。
そんな彼女に、昨日から助けられてばかりだった。
「ほんと、ありがとね」
「代わりと言ってはなんだけれど、たまには遊びにきなさい。スズも、あんたに懐いたみたいだしね」
楓の手が伸びてきて、涼花の頬を優しく撫でる。
その肩越し、部屋の隅にあるクッションの上で、黒猫が丸まっているのが見えた。
遊びに来る。たったそれだけのことが、恩返しになるのだろうか。
そんな些細なことでいいのなら、何度だって。
「うん、絶対、また来る。だって私たち──親友、でしょ?」
「そ。……ほら、準備するよ」
楓は照れくさそうに視線を逸らし、勢いよく寝返りを打ってベッドから降りた。
差し込む朝陽の中、伸びをする彼女の背中を見つめながら、涼花もゆっくりと身を起こす。
あれだけ重苦しかった身体も心も、すっかりと軽やかになっている。
思えばここ最近、起きているのか眠っているのかも分からない日々の連続で、朝陽に包まれて目覚める、そんな当たり前の生活とは程遠かった。
いつぶりかも分からない、清々しい目覚め。
思わず自然と笑みが溢れ、目が合った楓も小さく噴き出す。
そうしてそのまま、二人でしばらく笑い合う、懐かしく、愛しい時間を過ごした。
§
楓と別れ、一人歩く大通り。
朝の活気に満ちた街並みとは裏腹に、ギルドに近づくにつれ、涼花の足取りは重くなっていった。
一歩進むごとに、見えない鎖が足に絡みつくようだ。
覚悟を決めたとはいえ、10年以上かけて染み付いた逃げ癖は、そう簡単には解けないらしい。
すれ違う人々の笑顔が、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。
自分が逃げて、この人たちの平和が脅かされるとして。
それなら、所詮その程度の脆いものだったのではないか。
そんなことを、平気で考えてしまう。
きっとここにいるのが姉なら、逃げ出したりしないはずだった。
こういう時、決まって顔を出す自分の湿っぽい性格が、心底嫌になる。
また、陰鬱としてきた思考を振り払うように首を振る。
振り返ればいつだって、誰かに寄りかかり甘えてきた人生だった。
幼い時は姉で、楓で、今は陽菜。
一人でいるとどうしても思考を支配するのは暗い感情で、死にたいと思わなくなった今ですら、染みついた思考の癖というのは中々取れないものだった。
それでも、こんな自分を愛してくれる陽菜と、親友と言ってくれた楓。
彼女達の言葉が、背中を押してくれていた。
思考の泥沼に足を取られていても、時間は無慈悲に過ぎていく。
気づけば、目の前にはギルドの屋敷が聳えていた。
顔なじみの職員に軽く会釈をし、古びた階段を一歩ずつ踏みしめて最上階へと向かう。
一歩、また一歩と登るたびに、心臓の鼓動が早鐘を打つ。
まるで処刑台へ向かう罪人のような気分だった。
代表室の前で立ち止まる。
見慣れたはずの重厚な木の扉が、今は巨大な壁のように立ちはだかっていた。
深呼吸を繰り返し、震える手を抑え込む。
大丈夫。楓も言っていた。姉ならきっと、話を聞いてくれるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、ノックをする。
しばらく待つが、中からの返答はない。
留守だろうか。いや、この時間なら執務中のはずだ。
あるいは、居留守を使われるほど嫌われているのだろうか。
いや、姉が自分が訪ねてくることを知るはずがない。
陰鬱な思考が頭をもたげるのを振り払い、もう一度、少し強めにノックする。
やはり、返事はない。
胸騒ぎを覚え、ドアノブに手をかける。
鍵はかかっておらず、扉は音もなく開いた。
「エレナ……?」
恐る恐る中へ足を踏み入れる。
部屋の中は静まり返っていた。
窓から差し込む冬の朝陽が、空気中の塵を白く照らし出している。
そして、部屋の奥。
書類が堆く積まれた執務机に、突っ伏すようにして眠る人影があった。
安堵と同時に、拍子抜けしたような脱力感が襲う。
あれほど覚悟を決めてきたというのに、当の本人がこれでは肩透かしもいいところだった。
涼花は音を立てないようにゆっくりと机へ近づいた。
久しぶりに見る、姉の寝顔。
整った顔立ちには深い疲労の色が刻まれ、目の下には濃い隈が浮いている
かつて太陽のように輝いていた金髪も、今や艶を失い、そこら中が跳ねていた。
無造作に投げ出された手には、見慣れた無数の傷跡と、見慣れぬペンだこ。
それでも、姉は美しかった。
昔から誰に寄りかかることもなく、一人で走り続けてきた英雄の姿がそこにはあった。
たとえ剣をおいても、笑顔を見せなくなっても、その美しい魂が、いつだって姉を輝かせていた。
幼い頃からずっと、ずっと追いかけてきた眩しい背中。
それでも、今の涼花にはどこか寂しい生き方に感じられた。
「……いつも、お疲れ様」
普段なら喉に突っかかって出てこない言葉も、今ならすんなりと口にすることができた。
結局、自分の罪悪感や、照れ臭さが壁を作っていただけなのだろう。
本当に今更。それでも、自分ぐらいは姉を労ってもいいだろうと思い、姉に触れようと近づく。
机の上には、各地からの報告書と思われる紙束など、涼花には理解もできない書類が散乱していた。
魔物の出現情報、ギルドの人員計画に、防壁の修繕予算。
その膨大な文字の羅列を見るだけで目眩がしそうだ。
そしてふと、姉の手元にある一冊の分厚い手帳が目についた。
公的な書類とは違う、使い古された革張りの手帳。
開かれたままの日記帳には、見覚えのある姉の筆跡で、何かが走り書きされている。
見てはいけない。頭ではそう分かっていた。
それでも、そこに書かれた、涼花にとっては馴染みのある、けれど姉には似つかわしくない言葉を見て、手に取らずにはいられなかった。
そこには──“死にたい“と、そう書かれていた。
頭が真っ白になり、しばらくの間動けなかった。
それでも、少しずつその意味を、姉の慟哭のような殴り書きを噛み締める。
そして、姉の初めて見る一面を前にして、浮かぶのは驚きよりも罪悪感だった。
──どうして、ずっと気づいてあげられなかったのだろう。
姉も同じだったのだ。
自分と違うのは、誰かに寄りかかりたい心を我慢して、人類のために身を捧ぐ道を選んだというだけ。
姉は確かに英雄で、それでも一人の人間。それだけの話だった。
ずっと傍にいたはずの自分は結局、姉の弱音一つも引き出してやることができなかった。
悔しさと後悔で溢れそうになる涙を、唇を噛んで堪える。
ここで自分が涙を流すなんて、許されるはずがなかった。
起こさないように日記帳を抜き取り、近くのソファに腰掛ける。
ページを捲る手が止まらない。
日記は毎日書かれているわけではなく、数週間、あるいは数ヶ月も日付が飛ぶこともあって、それが少し姉らしい。
そして、どのページにも必ず記されている名前があった。
涼花──姉に貰った大切な名前。
ある日は冗談めかして呆れたような、ある日は真剣に思い悩むような姉の心情と一緒に、全てのページに自分の名前が記されていた。
ページを捲るたびに時間は遡るように。
やがて最初の一ページ目、全ての始まりへとたどり着く。
そうして涼花は、ようやく姉の想いを知る。




