第38話 親友
通された部屋には、腕の中で感じた楓の匂いと、生活の痕跡が溢れていた。
本棚に並ぶ古びた小説、窓辺に飾られた小さな観葉植物、猫のためであろう小さなクッション。
そこには、確かにここで楓が生活しているんだという、奇妙な感動があった。
「おいしい……」
一人掛けのソファに深く沈み込み、出されたハーブティーを啜る。
爽やかな香りと温かさが、冷え切った内臓に染み渡っていく。
いつもは楓もこうして、ここに座り過ごしているのだろうか。
そう考えると、なんだかむず痒いような、安心するような、不思議な気分になる。
そうして部屋を眺めていると、軽い衝撃と共に、膝の上に黒い影が飛び乗ってくる。
サイドテーブルにカップを置き、その艶やかな毛並みを撫でれば、ゴロゴロと喉を鳴らす振動が、掌を通して伝わってきた。
しばらくそうして、その温もりに目を細めていると、キッチンから水音が止み、エプロンを畳みながら楓が戻ってきた。
「あの、ごちそうさま」
「はい、お粗末さま。すっかり懐いたわね」
先ほどご馳走になったリゾットの味を反芻する。
店で出るような洗練された味ではない。
けれど、絶妙な塩加減と、野菜の甘みが溶け込んだ優しい味。
毎日食べても飽きないような、飾らない楓らしい温かさが詰まっていた。
「あ、ごめん、座る?」
部屋に一つしかないソファを占領していたことに気づき、慌てて腰を浮かせようとする。
楓はソファと涼花を交互に見比べ、悪戯っぽく笑った
「座るけど、あんたもおいで」
「わっ……」
抵抗する間もなく、楓に軽々と腰を持ち上げられ、そのまま彼女の膝の上へと下ろされる。
流石に恥ずかしくて身を捩るが、タイミングを見計らったように、スズが涼花の膝の上で丸くなり、重石となって動きを封じた。
側から見たら、何とも間抜けな光景だろう。
「ちょっと……」
「いいから。このぐらいは許しなさい」
背中越しに伝わる久しぶりの人肌と、膝に丸まった小さな重み。逃げ場はなかった。
諦めて黒猫を撫でながら、再びハーブティーを口に運ぶ。
優しい風味が全身を内側から温め、それだけで不安や緊張が随分と和らいでいく。
諦めて背中に体重を預ければ、楓がしっかりと支えてくれているのを感じた。
人肌一つでこんなにも心が安らぐなんて、我ながら単純な生き物だと思うが、本能ばかりはどうにもならなかった。
「それで、何があったの。大体分かるけれど、話してみなさい」
耳元で囁かれる声の、なんと優しくて甘やかなことか。
何も話していないのに、それだけで鼻の奥がつんと熱くなった。
涼花はやがて、ぽつりぽつりと、堰を切ったように話し始める。
エレナに頼まれた塔の攻略。不調に悩まされ、焦燥感に駆られた日々のこと。
そしてついに重傷を負い、死の淵で“死にたくない“と願ってしまったこと。
陽菜に嘘をつかせ、あんなことを言わせてしまった後悔。
楓は口を挟まず、時折相槌を打ちながら、最後まで静かに。
全てを語り終えれば、楓は深く息を吐き出し、そう、と呟いた。
「あんたも、大切なものを見つけたのね」
「そう、なのかな」
「そうなの。そしてそれは、とっても大事なこと」
楓の手が涼花の脇をすり抜け、膝の上のスズを撫でた。
スズは安心しきったように、全身を楓に委ねている。
「あんたは少し違ったけれど、大抵の凡人は、それのために戦って、それのために、死ぬのが怖くなる。誰もが、それに振り回されて生きてる」
「それ……」
首を傾げようとすると、スズを撫でいた手が、涼花の頬をむにっと摘んだ。
「ありきたりだけれど……そうね、言葉にするなら──愛、かしら」
愛。気恥ずかしい言葉なのに、不思議とすんなりと胸に落ちた。
好き、というのはまだ良く分からない。でも、愛なら。
「愛……」
「あんたはようやく、その憂鬱より大切な愛を見つけたの」
楓は涼花の頬を弄んだまま続ける。
「全力で前だけを見て走り続けてきたあんたに、立ち止まってそれを大切にするのは、他の人よりも難しいのかも。それでも、自分の心に正直に。見ないふりをしてはいけないわ」
その言葉には、確かな実感が籠もっていた。
楓も、こんな風に悩んだことがあったのだろうか。
「そのためには、しっかり自分の頭で考えて、向き合わなきゃだめよ」
「それは、うん。私も、エレナと話さなきゃって、分かってるけど……」
分かってはいる。
それでも、姉の元に足を運べずにいた。
それは、陽菜のせいだけではない。
ただ、姉に愛想を尽かされるのが怖かった。
戦うことを放棄した自分に、姉がどんな目を向けるのか、想像しただけで身が震えた。
それに──
「もし、私が戦わないせいで、酷いことになったらって思うと、逃げるわけにはいかないもん……」
子供じみた弱音。
楓はふっと息を吐き出し、摘んでいた涼花の頬を優しく撫でた。
「大丈夫よ、涼花」
「大丈夫って……」
そんなはずはない。
脳裏にエステアの姿がよぎる。
山頂で対峙した、憎しみに満ちた彼女の瞳と、全てを焼き尽くす圧倒的な力。
音沙汰はないが、諦めたとは思えない。
──今の自分で、彼女に勝つことができるだろうか。
「私が逃げたせいで、いつか魔物が攻めてきたら、どうするの」
「そうね……そしたら──」
不安に駆られ、問いかける。
帰ってきたのは、なんでもないような、そんな一言だった。
「そしたら、私とここで死になよ」
思考が停止する。
予想外の言葉に固まる涼花に、楓は構わず言葉を重ねた。
「あんたと、私と……あとは仕方ないから、エレナと、陽菜ちゃんも一緒にさ。テレビ、はもうないけど、こたつはあるから。みんなで、暖まりながら、お雑煮でも食べるの。それで、最後の瞬間まで、みんな一緒に綺麗にさ。そしたらきっと私たち、天国に行けるわ」
楓の言葉からは、悲壮感など微塵も感じられない。
まるで明日の予定でも話すような、穏やかで楽しげな響き。
強かで、自分よりもずっと器用に生きている、彼女らしくない言葉に驚く──最近、こんなことばかりだった。
「冗談、だよね……?」
「そうね、冗談。スズもいるし、ギルドの皆もいる。そう簡単に諦めるつもりはないわ」
楓はふっ、と笑い、抱きしめる腕に力を込め、でもね、と続けた。
「もし本当に、あんたが諦めたくなったら……その時は、私がここで待っててあげる。他の誰があんたを責めても、私は一緒に死んであげる。だからあんたは、望みのままに、やりたいようにやりなさい。元々、あんた一人が背負うなんて、おかしいもの」
それは諦観に満ちていて、それでもどうしようもなく温かかった。
逃げてもいい。諦めてもいい。それでも、彼女は自分を諦めないで待っていてくれる。
たったそれだけのことが、涼花にはどんな武器よりも心強く感じられた。
「だからまずは、エレナと話して、自分がどうしたいのか伝えてきなさい。あの人も頑固だけど、あんたの話ならちゃんと聞いてくれるわ」
「そう、かな」
姉と自分が真剣な話をしている様子なんて想像もできない。
そう悩む涼花に、楓は呆れたようにため息をつく。
「そうよ。あんたと組むのをやめてからも、何度あの人にあんたのことを相談されたか、分かったもんじゃないもの」
考えたこともなかった。
姉が、自分のいないところで、そんなふうに自分を案じていたなんて。
驚きに目を見開いていると、膝の上のスズが小さく鳴いて、涼花の腹に頭を擦り付けてきた。
その甘えるような仕草に、ふと、幼い頃の自分が重なる。
──思えば自分も、昔はこうして何も気にせずに姉に甘えていた。
いつからだろう。周りの視線ばかり気にして、素直な態度を取れなくなったのは。
一度だって姉は、自分を拒絶したことなどなかったのに。
勝手に壁を作って、勝手に孤独になっていたのは、自分の方だった。
やっぱり、いつだって楓は正しい。
昔から、迷う自分の背中を押して、正しい場所へと導いてくれる。
失敗したって、間違えたって、いつだって後ろには楓がいた。
安心すると同時に、疑問を覚える。
これはとうに失われた関係のはずで、今でもこうして自分を支えてくれることが、不思議で仕方なかった。
彼女が愛想を尽かして去っていったあの日から、こんな日が来るなんて。
叶わない、ただの夢でしかなかったはずなのに。
「どうして、そこまで」
「当たり前でしょ、ばか」
背中から聞こえた声が、微かに震えていた。
思わず身を捻って振り返る。
そこには、目元を赤く染め、涙を浮かべた楓の顔があった。
「私はあんたの、親友だもの」
楓の顔が近づき、涼花の頬に柔らかい感触が触れる。
ちゅ、と。子供をあやすような、優しい口付け。
触れた場所から熱が広がり、それが目頭を熱くさせる。
視界が水の中にいるように揺らぎ、呼吸が引き攣る音だけが耳に届いた。
ああ、泣いているんだな、と。
崩れ落ちていく自分を、どこか遠くから眺めているような感覚。
一度決壊してしまえば、もう止まらなかった。
堰を切ったように溢れ出す感情は、言葉にならず、ただ情けない嗚咽となって部屋に響く。
胸に縋り付く涼花を、楓はただ強く抱きしめ続けた。
その体温と、規則正しい心音、そして膝の上の黒猫の重み。
何年も待ち続けたような抱擁の中、深く優しい微睡が、涼花を包み込んだ。




