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第37話 黒猫

意識が泥から浮上するように、ゆっくりと世界が色づく。

重い瞼を開けると、部屋は既に夜の帷に包まれていた。

窓枠に切り取られた夜空には、欠けた月が白く浮かんでいる。


あの日から、時間の感覚は曖昧なままだ。

食べて、寝て、また眠る。

その繰り返しが、思考を鈍らせていくような実感があった。

あれから、陽菜とは寝ていない。

彼女が部屋に来るのは、食事と着替え、そして体を拭く時だけ。

それも以前のようにゆったりとした時間が流れることはなく、張り詰めたような空気が漂っていた。

その度に、考え直すように陽菜に提案し交渉を試みるが、彼女はそれをのらりくらりと躱し、取り合うことは無かった。


「はぁ……」


ベットから起き上がり、窓に手を触れる。

ひんやりとした感触が、指先から伝わってくる。

──こんな窓硝子、少し力を込めれば容易く粉砕できた。

扉の鍵だって、氷漬けにして破壊することは造作もない。


けれど、それができない。

それをしてしまえば、陽菜の心まで壊してしまう気がして。

彼女があんな強硬手段に出た理由、その想いを考えると、どうしても力が振るえなかった。

硝子一枚。たったそれだけの隔たりが、外の世界への道を閉ざしていた。


憂鬱な思考が再び頭をもたげ、ベッドに戻ろうとしたその時──

背後から、コン、コン、と。

窓硝子を叩く音がした。


「……え?」


風の音ではない。明らかに意志を持ったノックの音。

ここは二階だ。ベランダもない。

恐る恐る、振り返る。

硝子の向こう側に、逆さまにぶら下がった人影があった。

欠けた月を背景に、猫のように細められた瞳が、にっと笑う。


「ねぼすけ。いつまでそうしてんの」

「楓、 なにして……ここ、2階だよ」


驚きで声が裏返る。

かつての相棒は、窓枠に器用に足をかけ、重力を無視したような体勢でこちらを覗き込んでいた。

幻覚かとも思ったが、硝子越しに聞こえる呆れたような声は、紛れもなく彼女のものだった。

涼花は慌てて窓の鍵に手を伸ばす。

こんな所を陽菜に見られるわけにはいかない。

──だが、指先が錠に触れた瞬間、手が止まった。


開けられない。

この窓を開けることは、陽菜の想いを拒絶することだ。

彼女の願いをを裏切り、この鳥籠から飛び立つことだ。

その罪悪感が、呪いのように指を縛り付ける。


動かない涼花を見て、楓が怪訝そうに眉を寄せる。

そして、目を細め、ふっと短く息を吐いた。


「……本当、面倒くさい奴」


楓はそう言って、指を弾くような構えをとった。


「ちょっと──」


涼花の制止は間に合わない。

楓がガラスの一点を指で弾く。

それだけで、涼花を守る優しい檻はあっさりと砕け散った。


「よっ、と」


冬の夜風と共に、楓がするりと部屋の中へ滑り込んできた。

音もなく着地する猫のような身のこなし。


「攫いにきたよ、ばか涼花」


開け放たれた窓からは、冷たい夜風と月光が流れ込み、楓の背中を青白く照らし出していた。

逆光の中で不敵に笑うその姿は、かつてと変わらない、頼もしく、そして少しだけ意地悪な、涼花の相棒だった。


§


冬の夜空に、一つの影が躍る。

屋根から屋根を伝って、猫のような身のこなしで軽やかに。

楓の腕に抱かれる涼花には、矢のような速さで流れる夜の街を見送ることしかできなかった。

かつての自分なら、この程度は造作もなかっただろう。

けれど今となっては、足下の暗闇が奈落への入り口に見える。

もし落とされたら、受け身すら取れずにひとたまりもない。


「ちょっと……絶対、落とさないでよね」

「なに、あんた。そんな可愛いこと言って」


楓が可笑しそうに鼻を鳴らす。

涼花は唇を噛んで押し黙った。

すっかり弱くなってしまった自分を、かつての相棒にだけは知られたくなかった。

けれど、細められた瞳には、全てが見透かされているようで。

その視線から逃れるように顔を埋め、情けなくも楓の首に腕を回し、しがみつくことしかできなかった。


やがて少しの衝撃と共に、楓が足を止める。

たどり着いたのは、コロニーの居住区にある古い集合住宅の一角だった。

楓の腕から下ろされ、地面の感触に安堵の息を吐く。

ふと、記憶の中にある彼女の境遇と、目の前の住まいが一致しないことに気づく。

確か以前の彼女は、折り合いの悪い叔母と暮らしていたはずだ。


「やっぱり叔母さんと、まだよくないの?」


尋ねれば、楓は一瞬、何を言われたのか理解できないという顔をした。

直後、堪えきれないように吹き出す。


「あんた、いつの話してんの」


くつくつと、楓が腹を抱えて笑う。

そこには、かつてのような刺々しい空気は微塵もない。

どこか憑き物が落ちたような、吹っ切れた様子だった。


「そりゃ、仲良いとまではいかないけど。ふつうだよ、ふつう」


鍵を取り出しながら、楓は肩をすくめる。

そこに至るまでどれだけの葛藤があったのか定かではないが、それでも、それなりの年月が経っているのも事実だった。

再開してからとうに分かっていたことだが、彼女もまた、前に進み、成長していたのだ。

足を止めていたのは、自分だけ。

その事実に、置いていかれたような、少しの寂しさを覚える。


「ほら、上がって。狭いけど文句はなしね」

「おじゃま、します」


玄関をくぐれば、優しい木の匂いがした。

それなりに物が多いが、小綺麗に整頓されている、器用な彼女らしい空間。

靴を脱いでいると、居間へと続く扉の隙間から、するりと黒い影が滑り出てきた。

楓が相好を崩し、その場にしゃがみ込んで両手を広げる。


「わ〜、よしよし!ちゅっ、ん〜、ただいま〜。いい子で待てて偉いね〜」

「え! だれ……!?」


裏声に近い、甘ったるい猫撫で声。

流石に成長したといえど、これは変わりすぎて、もはや別人だった。

思わず上げた声。楓にじろりと睨みつけられる。


「なに、その目は」

「いや、何でも、ないです」


気まずさに視線を泳がせる。

楓は構わず黒い影──黒猫を抱き上げると、愛おしそうに頬ずりをしてから、涼花に向き直った。


「ほら〜、スズちゃん。この間抜け面のお姉ちゃんに挨拶しようね〜」

「ちょっと」


あまりの言い草に楓を睨みつけるが、彼女は涼しい顔で猫をあやしている。

夜の闇を切り取ったような、艶やかな毛並み。

楓の腕の中から、金色の瞳がじっと涼花を見つめていた。


「はい。抱っこ、してあげて」

「え、うん……」


楓から慎重に猫を受け取る。

温かくて、柔らかい。

小さな心臓の鼓動が、掌を通して伝わってくる。

あざとく、小さく鳴いて、黒猫──スズは、涼花の腕に頭を擦り付けた。


「……可愛い」


まるで、この世に悩みなんて一つもないと言わんばかりの、澄んだ瞳。

そこには、ただ純粋に、今を生きる命の輝きだけがある。

その無垢な瞳に見つめられていると、張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むような気がした。


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