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第36話 慈愛

陽菜に生活のすべてを委ねるような日々が続き、気付けば二週間近くが経とうとしていた。

至れり尽くせりの介護のおかげか、あんなにも身体を苛んでいた足の痛みは、今では嘘のように引いている。

それでも、主治医である陽菜から、外出の許可は降りていなかった。

“絶対安静”という鉄の掟のもと、トイレに行くのさえ付き添われそうな勢いだ。


いくらなんでも、過保護ではないだろうか。

こうして一日中ベッドの上で無為に過ごしていると、ただでさえ鈍っている身体が、しまいには錆びついて動かなくなりそうで、それだけが怖かった。


そんな生活の中、陽菜が買い物に出ている今は、唯一の自由時間と言っていい。

少しぐらい、そう一人ごちて、こっそりベッドを抜け出して階段を降りる。

念のため壁を伝って歩くが、やはり足の痛みを感じることはなかった。

久しぶりに踏みしめる一階の床は冷たく、不思議と新鮮に感じる。


特にあてもなくリビングへ向かうと、卓袱台の上に、やりかけの裁縫道具が置かれているのが目に入った。

その横に丁寧に畳まれているのは、あの日、涼花が着ていたセーラー服だ。

何気なく手に取り、広げてみる。

丁寧に洗濯され、血糊は綺麗に落ちていた。

だが、その損傷までは誤魔化せなかったらしい。


「あ……」


背中の生地が裂け、そして腹部にあたる部分には、拳大の穴がぽっかりと空いていた。

穴の縁の繊維は飴細工のように溶け、冷え固まって硬く引き攣っている。

刃物による裂傷ではない。極高熱のエネルギーによって、瞬時に溶解させられた痕跡だ。

それは涼花の記憶の通り、自分が腹部に致命傷を負ったことの、動かぬ証拠だった。


思わず腹部を撫でる。

そこにはやはり、傷ひとつない素肌があるだけだった。

あの日、自分の体から全てが零れ落ちるような喪失感。

あれは夢や幻覚などではなかったのだ。

だとすれば、一体どうやって──


ガチャリ、と玄関の鍵が開く音が、静寂を切り裂いた。心臓が跳ねる。

慌てて服を戻そうとするが、手遅れだった。

買い物袋を提げた陽菜が、リビングの入り口に立ち尽くしている。

俯きがちで表情は窺えない。

けれど、その視線が、涼花の手元にあるセーラー服に注がれていることだけは分かった。


「どこへ、行こうとしてるんですか?」

「えと、ちょっと、喉が渇いて……」


言い訳がましい自分の声が、やけに上擦って聞こえる。

陽菜はゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。

──その瞳に揺らめく暗く重い色。


「お願いですから、部屋に戻ってください」

「……うん」


有無を言わせない迫力。

これ以上踏み込めば、何かが壊れてしまいそうな危うさ。

それに呑まれた涼花は、逃げるように頷くことしかできなかった。


§


部屋に戻された涼花は、ベッドの上で膝を抱えていた。

先ほど目にした、溶けたセーラー服。

やはり、自分の記憶は正しかった。

でもそれはそれで、益々不可解なことばかりだ。

明らかに助からない状態だったはずだ。

それに、なぜ陽菜は嘘をついたのか。

思考は堂々巡りを繰り返し、答えは見つからない。


階下から陽菜が戻ってくる足音が聞こえ、思考を中断する。

運ばれてきた夕食は、好物のシチューだった。

けれど、舌の上で転がしても、砂を噛んでいるように味を感じない。

陽菜はいつも通りに振る舞っているが、その笑顔の裏に張り詰めたものを感じて、核心を問う言葉は喉元で止まってしまった。


それでも、いつも通りに夜は訪れ、また明かりが落ちる。

背中越しに伝わる体温は心地よいはずなのに、今夜はそれが鉛のように重かった。


──分からないことばかりだけれど、このままではいけない、ということははっきりと分かって。

陽菜が何を隠しているにせよ、自分がこのまま戦い続けるのか、それとも別の道を探すのか。

いずれにせよ、一度姉と話す必要があった。


「私、明日さ──」


意を決して口を開く。

姉の元へ行きたいと、そう告げようとした。


「涼花さん」


しかし、その言葉は陽菜によって遮られた。

その声は震えているようでいて、芯の通った冷たさを孕んでいた。

振り返ろうとするが、後ろから抱きしめられ、動きを封じられる。


「もう、私と逃げちゃいませんか」


耳元で囁かれる、予想だにしない言葉に、一瞬理解が遅れる。


「色々、考えたんです。私たちを取り巻く社会だとか、常識だとか、そういう邪魔な、色々。きっと、私達の力があれば、コロニーの外でも上手くやれます」


陽菜は夢を語るように言葉を紡ぐ。


「どこかの山奥にでも、二人で小屋を建てて。それか、二人で旅に出るのもいいかもしれません。滅んでしまったという外の世界を、二人で見て回るんです。きっと、忘れられない旅になります」


楽しげな口調。けれど、それは現実から目を背けた、破滅的な逃避の提案だ。

まさか陽菜がこんな事を言うだなんて予想もできなくて、あまりの衝撃に返す言葉が見つからなかった。

同時に、胸が押し潰されそうなほどの罪悪感を覚える。

心優しかった少女に、こんなことを言わせてしまったのは、他でもない自分だった。


「陽菜……それは、出来ないよ」


思わず身を起こし、諭すように、静かに告げる。


「この街にはエレナだっているし、楓もいる。陽菜だって、大切な──」

「言ったでしょう」


陽菜もそう言い、隣で身を起こす。


「私は、何もいらないんです。涼花さんの他には、何も」


直後、肩を押され、仰向けに倒れ込む。

衣擦れの音と共に、陽菜が涼花の腹の上に跨った。

逃げられないように、肩を抑えられ、枕元に縫い付けられる。


「ひ、な……?」


暗闇の中、こちらを見下ろす陽菜の瞳が、妖しく光った気がした。

闇夜に鮮明に浮かび上がる、翡翠色。

これまで何度も救われてきた、美しい宝石の光。

けれど──その輝きはあまりに澄んでいて、こちらの姿以外、何も映していないようで。

初めてその色を、怖いと思った。


陽菜の顔がゆっくりと近づいてくる。

抵抗できない涼花の唇へ、その唇が重なる──その寸前。


柔らかい唇が、涼花の掌に触れる。


──別に、この子とキスをするのが嫌だった訳では無い。

今更、そんな訳がない。でも、これは違う。

この綺麗な子との初めては、きっと、こんな状況でしていいものではない。


掌越しに、陽菜の唇が震えるのが分かった。

彼女は泣きそうな顔で身を離し、逃げるように涼花の上から退く。


「……陽菜」

「ごめんなさい。今日は、一人で寝ます」


引き止める間もなく、陽菜は部屋を出て行った。

残されたのは、乱れた布団と、掌に残る湿った感触。

涼花は天井を見上げ、深く、深く息を吐き出した。


§


結局、まともに眠りに落ちたのは空が白み始めた頃だった。

重い頭を振って身を起こす。

窓の外はすでに昼の明るさに満ちている。


昨晩の出来事が脳裏をよぎり、胸がざわつく。

陽菜の提案、拒絶、そして置いてきたままの会話。

どうすれば正解なのか、答えはまだ出ない。

けれど、このまま出来の悪い自分の頭を悩ませても解決しないだろうということは、よく分かった。


「……行かなきゃ」


意を決して、ベッドから降りる。

──まずは、姉に会いに行こう。全てを話して、相談するんだ。

そう心に決め、ドアノブに手をかける。


「……あれ?」


回らない。

ノブは硬く固定されたように動かなかった。

建て付けが悪くなったのだろうか。

何度か力を込めて回そうと試みるが、びくともしない。


仕方ない、蹴破ろう、そう思ったその時、外から金属音がして、ノブが回った。

ゆっくりと扉が開く。

そこには、同じく眠れなかったであろう、憔悴しきった陽菜が立っていた。

目の下には隈があり、いつも手入れされている髪も少し乱れている。


昨晩の気まずさが蘇り、言葉に詰まる。

怒っているだろうか。それとも、泣かれてしまうだろうか。


「安静にしないと駄目ですよ、涼花さん」


身構える涼花だったが、陽菜の声色は驚くほど平坦で、普段と変わりなかった。

そのことに、涼花は拍子抜けすると同時に、安堵の息を漏らす。

引きずっている様子はなさそうだ。これなら、普通に話せるかもしれない。


「えっと、そう、ちょっと買い物に行こうかなって。足もだいぶ治ってきたし……」

「いいんですよ、そんなの。私が買ってきますから」


陽菜は涼花の言葉を遮り、有無を言わせぬ圧力で涼花を部屋の中へと押し戻した。

抵抗しようとするが、今の足では踏ん張りが効かない。

あっさりとベッドの縁まで後退させられる。


「必要なものがあるなら言ってください。涼花さんは、ここで休んでいてくれればいいんです」

「いや、でも──」

「じゃあ、行ってきますね」


こちらの反論を聞く気はないらしい。

陽菜はくるりと背を向け、部屋を出ようとする。

その時、彼女の手の中で、重たい金属音が鳴った。


「それ、なに」


思わず呼び止める。

陽菜は立ち止まり、隠そうともせずにその手を掲げて見せた。

彼女の指にぶら下がっていたのは、無骨な鉄の塊──南京錠と、チェーンだった。


「これですか?祭りも近くなってきて、あまり治安がよくないと聞いたので、不審者対策です」


陽菜は悪びれもせず、指でそれを弄ぶ。

そして、慈愛に満ちた、けれど底冷えするような笑顔を涼花に向けた。


「涼花さんも、大人しく待っててくださいね」

「ちょ──」


返答を待たず、陽菜は廊下へと出て行く。

無慈悲にも扉が閉まる音。

直後、ノブに鎖が巻き付けられる荒々しい音と、南京錠が噛み合う硬質な音が続き、最後にカチリと硬質な音が響いて、静寂が訪れた。


「それ、外鍵じゃん……」


不審者対策と言いながら、閉じ込められているのは自分の方だ。

一人残された部屋に、涼花の情けない嘆きだけが木霊した。

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