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第35話 天秤

重い瞼を持ち上げると、見慣れた自室の天井が視界に映る。

揺れるカーテンの隙間から差し込む光は、既に朱く染まり始めていた。

気だるい体を引きずるように身を起こして、あたりを見渡す。

世界は酷く静かで、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえた。


喉が張り付くように乾いている。

指先を僅かに動かし、空中に小さな水球を生み出すと、それを口に含んで喉を潤した。

冷たい水が喉を通り、乾いた内臓に染み渡っていく感覚が、妙に新鮮に感じた。


「……っ」


ベッドから這い出ようとした途端、左足に鋭い痛みが走り、思考が一気に覚醒する。

塔での戦い。不気味な彫像。そして──

慌てて布団を跳ね除け、自身の服を捲り上げる。

そこには、いつも通りの、色気のない平坦な腹部があるだけだった。


──確かに、腹部を貫かれたはずだった。

努めて見ないようにしていたので定かではない。

それでも、内側から焼かれ熱で生命が溶け落ちていく感覚。

あれが夢だとは思えなかった。

それに、意識が途切れる寸前に見た、あの眩い翡翠色の光は、今でも網膜に焼き付いている。


突如、陶器が砕ける硬質な音が静寂を切り裂いた。

不意の音に肩を跳ねさせ、部屋の入り口を見る。

そこには、床に散らばった破片と、呆然とこちらを見つめる少女の姿があった。


「陽菜……」


陽菜は無言のまま、弾かれたように駆け出し、ベッドに飛び込んでくる。

勢いのまま抱きつかれ、左足の傷に衝撃が走るが、涼花は声を上げなかった。

そのまま何も言わず、自身の懐に顔を擦り付ける少女の背中を撫で続けた。


§


「えっと、それで、どうなったんだっけ……?」


しばらくして、陽菜の震えが収まったのを見計らい、問いかける。

陽菜は涙で濡れた顔を上げ、充血した瞳で涼花を見つめた。


「涼花さん、66層で負傷して、丸3日も、目覚めなかったんですよ」

「3日……」


陽菜が声を震わせ、涙を拭いながら答える。

その言葉は、涼花の記憶とも合致していた。

ただ、勘違いでなければ、3日で治るような傷ではなかったはずだ。

あの時の意識が途切れる暗く冷たい闇と、今の体の状態の乖離に頭が追いつかない。


「負傷って、どんな怪我したんだっけ」

「私も混乱してて、少し記憶が曖昧なんです。でも、大きな傷は……その左足だけでしたよ」


目を伏せながら、陽菜はそう答えた。

涼花は思わず、自身の腹部を服の上から撫でる。

あの喪失感も、この少女の泣き顔も、錯覚だとでも言うのだろうか。

しかし、陽菜がそう言うなら、本当なのだろう。

少なくとも、彼女が自分に嘘を付く理由は見当たらなかった。


「そっか……それで、背負って帰ってきてくれたの?」

「はい。なので、しばらくは外出禁止です。絶対安静ですよ」


強い口調で釘を刺される。

視線を落とせば、左足には包帯が幾重にも巻かれ、添え木で固定されていた。

これでは、当分動けそうにない。


「何か食べるものを作ってきます。……いいですか、大人しくしていてくださいね」


陽菜は念を押すように言い残し、散らばったコップの破片を片付けると、部屋を出て行く。

静かに扉が閉まり、後には幾つもの疑問と静寂だけが残った。


することもないので、再びベッドに身を投げ出し、ぼんやりと、茜色に染まる天井の木目を数える。

こうして静寂の世界に一人残されると、時間を持て余してしまう。


以前はこういう時、一人で思い悩んで、この世の不条理だとか、不平不満──あとは、自分を殺す方法とか、そんなことばかり考えていたように思う。


「死にたい……」


口に出した嘆きの、なんとも軽いことか。

こんなんじゃ、魔素に愛想を尽かされるのも当たり前だ。

結局、姉のように誰かの役に、なんて始めた魔物退治も、姉が心から喜ぶことはないと気づいてからは、鬱屈とした破滅願望の向かう先でしかなかったということだ。

どこまで行っても自分は性根の歪んだ憂鬱な女で、あの綺麗な人達のようにはなれない。

そんな自分から憂鬱すら無くなった今、もはや自分は何者でもなかった。


ただの、空っぽな、性根の悪い女。

それでも──こんな自分でも、あの子が愛してくれるというのなら。

それも、悪くないだろうか。


§


少しの間眠っていたようで、鼻を擽る優しい香りに意識が戻る。

階下からは鍋の蓋が踊る音と共に、出汁の匂いが漂ってきていた。

こんな時でもしっかりと腹は減るようで、空っぽの胃袋が情けなく泣く。

やがて扉が静かに開き、盆を片手に持った陽菜が、部屋へと戻ってきた。


「おかえり」

「ちゃんと、安静にしていましたか?」

「うん。この足じゃ、どこもいけないよ」


その答えに満足そうに頷いた陽菜は、椅子を引っ張り出してきて、ベッドの傍に座り込んだ。

湯気を立てる粥を匙で掬い、小さく息を吹きかけて冷ます陽菜。

その甲斐甲斐しい姿は、まるで幼子をあやす母親のようだ。


「はい、あーん」

「……自分で食べれるよ」

「駄目です。安静ですから」


有無を言わせぬ圧力に負け、涼花は口を開く。

口内に広がる優しい出汁の味と、程よい温かさ。

弱った体に染み渡るような美味は流石だったが、この状況はどうにも気恥ずかしい。

そもそも、足を怪我しているだけで、食事の世話は必要ないような──と言いたかったが、面倒を見て貰っている手前、どうにも言い出し辛い。

されるがまま、口を開け、咀嚼し、嚥下する。

自分にできることは、恥ずかしさに目を瞑って口を動かすことだけだった。


食事を終えると、今度は洗面器とタオルが運ばれてくる。

湯気が立つ熱いタオルを絞り、陽菜がこちらに向き直った。


「失礼しますね」

「え、何を!?」


陽菜の手が迫る。涼花は慌ててその手を握って押さえた。


「いや、風呂なら、ほら、水浴びで。自分で出来るって」

「駄目ですよ。絶対安静ですから」

「ちょ、さっきからそればっかり──」


陽菜の手が上着にかけられ、するりと脱がされる。

あっという間に肌着も剥ぎ取られ、無防備な上半身に、ひんやりとした外気が触れる。

あまりの状況に、顔から火が出るほどに熱くなる。

しかし、こうなってしまえば涼花にできることなどなかった。

陽菜の悪戯心に火がつかないことを祈るだけだ。


「えと、お手やわらかに……」


しかし、それは杞憂だったようだ。

温かいタオルが、首筋から鎖骨、そして胸元へと滑る。

想像よりも、丁寧に、割れ物を扱うようにゆっくりと、肌を拭われていく。

その手つきは、汚れを落とすというよりは、何かを確認しているかのようだった。

なぜか、傷ひとつない腹部を拭う時、陽菜の手が微かに震えた気がした。


それが少し擽ったくて、背筋が跳ねる。

陽菜が驚いたように手を止め、少しして何事もなかったように再び手を動かし始めた。

不思議に思い様子を伺い──その瞳の奥に、暗い炎を見た気がして、涼花はただ目を逸らすことしができなかった。


全てを拭き終え、新しい服を着せられる頃には、心身ともに消耗しきっていた。

洗面器を持った陽菜が出ていって、涼花はベッドに倒れ込んだ。

自分で水浴びするよりも、余計に体力を使ったような気がしてならなかった。


§


夜が更け、家の明かりが全て落ちる。

静寂に満ちた暗闇に、衣擦れの音だけが響いた。

ベッドが沈み込む感覚。陽菜が何も言わずに布団へと潜り込んでくる。


「……陽菜?」


問いかけに答えはない。

代わりに、背後から回された腕が、涼花を強く、痛いほどに締め付けた。

いつもなら遠慮がちに、あるいは甘えるように触れてくる手が、今夜は違っていた。

背中に押し付けられた彼女の額からは、微かな震えが伝わってくる。

しがみつくような、捕まえて決して離さないような、必死な抱擁。

背中越しに伝わる荒い息と、火照ったような高い体温。

その全てが、彼女の抱える不安の形をしていた。


「いつも、ごめんね」

「謝らないで、ください」


震える声に、再び胸中で、ごめんね、と告げる。

あんなにも気丈に振る舞っていたこの子を、ここまで怯えさせてしまったのは、他ならぬ自分だった。

そして、ずっと見まいとしていた、自身の葛藤にようやく向き合う。

それは、このまま戦う道を選んでいいのかという、今更すぎるほどの躊躇い。

陽菜を悲しませ、あまつさえ危険に晒してまで、あの場所に挑む意味が本当にあるのだろうか。


姉との約束。世界の平和。

それらと、今ここにある温もりを天秤にかける。

答えは出ない。

ただ、頭を空にして死地へ向かう、そんな自分のままでいることは出来ないと、それだけは痛いほどに分かるのだった。

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