第34話 翡翠
終わりのない螺旋階段を登り切った先には、重厚な石造りの扉が待ち構えていた。
見上げるほどの高さを誇る扉の表面には、幾何学的な模様が刻まれているが、涼花にはさっぱり理解できなかった。
扉に風化している様子はなく、まるで昨日作られたように滑らかだったが、同時に悠久の時を感じさせるような威圧感も持ち合わせている。
この先に碌でもない者が待ち構えている、ということだけは理解できて、涼花は嘆息した。
「じゃ、行こっか」
陽菜が力強く頷き、扉の表面に手を添えた。
二人で息を合わせて、冷やりとした石の感触を掌に感じながら力を込める。
腹の底に響くような低い音が鳴り、扉がゆっくりと内側へと開き始めた。
隙間から、凍りついたような冷気が流れ込んでくる。
それは単なる気温の低さではない。死の気配を孕んだ、澱んだ空気。
肌が粟立つのを感じながら、二人はその暗がりへと足を踏み入れた。
扉の向こうに広がっていたのは、下の階層とは比較にならないほど広大な、純白の空間だった。
天井は見えないほど高く、壁面にはぼんやりと発光する苔のようなものが張り付いている。
その薄暗い空間の中央に、それは鎮座していた。
「また、不細工な……」
巨大な、大理石の彫像。
いや、彫像と呼ぶにはあまりに生々しく、生物と呼ぶにはあまりに無機質だった。
台座の上に縫い付けられた、上半身だけの巨人。
白磁のような滑らかな肌は、一切の汚れを知らないかのように白く、それが却って冒涜的な不気味さを醸し出している。
何よりも異質なのは、その“顔”だった。
巨人の首には、猛禽類を思わせる鋭い嘴を持った、鳥の頭がついていた。
眼窩は深く窪み、瞳があるべき場所は暗い空洞になっている。
感情の一切読み取れないその虚ろな顔が、侵入者である二人を静かに見下ろしていた。
「……動かない、ですね」
「いや、こういうのは、来るよ」
陽菜を制すと同時、鳥顔の、虚ろだったはずの眼窩が瞬いた。
暗闇の中に、不気味な赤い光が灯る。
その視線が、鋭く陽菜を射抜いた。
殺意の籠もった眼差し。
涼花の脳裏に、かつて地下鉄で対峙した鬼の、あの悍ましい視線が重なる。
咄嗟に分厚い氷の盾を展開する。
鉄を引っ掻いたような甲高い音がなって、盾の表面が削られるのが見えた。
「陽菜、視線を躱して。私も防ぐ」
「はい……!行きます!」
陽菜は恐れる様子もなく前に出る。
放たれる無数の視線と斬撃を、予測して避け、大剣を構えて肉薄する。
本体に移動する様子はない。懐に入り込めば、勝機はあった。
涼花は、その後ろから、陽菜が躱しきれない斬撃を的確に防いでいく。
鳥の眼光が強まるたびに、不可視の刃が空気を切り裂き、耳障りな音で氷の盾を削っていく。
だが、動かない相手が直線上に放つ攻撃なら、いくら衰えた動体視力といえど、防ぐのは容易だった。
陽菜が斬撃の嵐の中を順調に肉薄し、鳥頭に向けて跳躍した──その瞬間だった。
彫像の首が、石の擦れ合う不気味な音を立てて回転する。
陽菜の正面に現れたのは、太い角を生やした、牛のような顔。
「え……?」
陽菜が大剣を振りかぶった、その瞬間。
腹の底に響くような重い衝撃音と共に、陽菜の体が地面に叩きつけられた。
「陽菜!」
攻撃を受けたようには見えなかった。
それでも、陽菜は地面に縫い付けられ、指一本動かせない様子で呻いている。
まるで、見えない巨人の手によって、無理やり押し潰されたかのように。
涼花がその現象の正体を掴もうとするよりも早く、首が再び回転する。
次に現れたのは、憤怒の形相を浮かべた、獅子のような顔。
その口が大きく開かれ、喉の奥で真紅の光が渦を巻き収束を始める。
周囲の空気が歪むほどの熱量。
当然その狙いは、動けない陽菜。
「──っ!」
思考する時間などなかった。
陽菜が死ぬ。その事実だけが、冷え切っていた涼花の心臓を動かす。
全身を暗い熱が駆け巡り、加速する鼓動が時間を置き去りにする懐かしい感覚。
そのまま陽菜の前に滑り込み、腕を掲げる。
展開するのは、何層にも折り重ねた重厚な氷の盾。
直後、獅子の口から眩いほどに輝く熱線が放たれた。
氷と熱線が接触し爆ぜる音と共に、膨大な水蒸気が視界を白く染める。
一枚、二枚、三枚──分厚い氷の壁が、飴細工のように容易く溶かされていく。
──防げない。直感した時には、もう遅かった。
咄嗟に陽菜を突き飛ばす。
直後、背中に感じる熱と、腹の中から焼けるような不思議な感覚。
悲鳴すら出せずに、意識を持っていかれそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、それでも、負った傷は見ないようにして陽菜を抱える。
よほどの衝撃だったのか、腕の中の陽菜は意識がまだ朦朧としているようだった。
「涼、花さん……?」
「大丈夫、大丈夫だから」
水蒸気の目眩しの中、腹の底から込み上げてきた血の香りを我慢して、必死に足を動かす。
幸い、入り口の扉はそう遠くない。
あそこまで逃げれば、彫像からの視線は切れる。
そうして、扉にたどり着く直前。唐突に、強烈な圧力が左足を襲う。
骨の砕ける感触と共に、無様な悲鳴が喉の奥から漏れた。
それでも、倒れるわけにはいかない。
折れた足を引きずり、半ば転がり込むようにして扉の向こう側へとなだれ込んだ。
念のため、扉を氷漬けにして封鎖する。
直後、扉の向こうで凄まじい衝撃音が響いたが、こちらに届くことはなかった。
「はぁ……」
壁に背を預け、ずるずると座り込む。
自身の身体から、何かが零れ落ちていくような感覚。
視界が霞み、寒気が押し寄せてくる。
──これは、もしかすると、もしかするかもしれない。
長年追い求めたような、ずっと側にあったような、あっけない結末。
それに手が届きかけているのは間違いなくて、それなのに、案外こんなものか、と思う自分が不思議だった。
結局、何もかも中途半端な自分は、焦がれ求めた終わりすら中途半端らしい。
ふと、視界の端で陽菜が身を起こすのが見えた。
混乱した様子で身を起こす陽菜に大きな傷は見当たらない。
どうやら、最後に頑張った甲斐はあったらしい。
少し安心して、一瞬、意識が飛ぶ。
ほとんど眠るような感覚だった。
陽菜が何かを叫びながら駆け寄ってきて、どうやら腹部の傷を抑えてくれているらしい。
その手は真っ赤に染まり、顔も涙と血でぐちゃぐちゃだった。
酷い顔。せっかくの可愛い顔が台無し。
そんな気の利いたセリフを言おうとしたけれど、やっぱり、陽菜は泣き顔も綺麗だった。
本当、こういうところはずるいと思う。
未練なんてないと思っていたけれど、この可愛い顔ももう見納めかと思うと、少し惜しい。
──そうか。死んだら、この子とはもう会えないのか。
そんな当たり前のこと、絵本には書いていなかった。
死んだら、天国に行って、悩みも苦しみもない安寧があって。
でも、この子はいないのだ。
この世は、自分が生きるには少し難しくて、悩み事は尽きないけれど、隣にはいつもこの子がいた。
そうだ。死にたくないなんて、とっくに気づいていた。
それは皮肉なことに、命が尽きようとする今になって、ようやく認めることができた衝動だった。
もう少し早く気づいて、もっと色々な物に、真剣に向き合っていれば。
けれど、そんなの今更だった。
後悔を置き去りにして、視界は闇に沈んでいく。
最後に陽菜の顔が近づいてくる。
宝石から溢れ落ちた雫が、頬に落ちて。
一度だってキスもしたことなかったなんて、場違いな感想が脳裏によぎり──翡翠色の輝きだけを網膜に焼き付けて、世界は闇に閉ざされた。




