第31話 渇愛
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久しぶりに訪れた寺院は、相変わらず線香の燻る匂いと、冷たい静寂に満ちていた。
かつては、この静けさこそが世界の全てであり、安らぎだった。
けれど、今の陽菜の肌には少しだけ物足りなく、寂しく感じられた。
気の遠くなるほど長い渡り廊下を、雑巾を手に何度も往復する。
初冬の寒さが濡れた手に刺さるが、頭を冷やすには丁度いいと、ひとり思案する。
「……不純、でしょうか」
雑巾をバケツに放り込み、独りごちる。
──涼花を独占したい。誰にも渡したくない。あわよくば、その身に自分だけの証を刻みつけたい。
そんな衝動が、日を追うごとに強くなっている自覚があった。
身を焦がすような熱い欲望が胸の奥で渦巻いていて、ふとした瞬間に溢れ出していきそうになる。
抑えようとすればするほど、その熱は逃げ場を求めて暴れ出す。
陽菜は慌てて首を振った。
──いや、違う。これは決して悪いことではないはずだ。
神様だって、隣人を愛するように言っている。
事実、彼女を心から思う気持ちは嘘ではない。
彼女が笑顔であってくれればいい、進む道に何の苦難もなければいい、そう思う気持ちは変わっていない。
その上で、その愛ゆえに、ついつい触れたくなってしまったり、愛らしい表情を自分だけのものにしたいと願ってしまうのは、自然な反応ではないのか。
そう、これは正当な、熱心なまでの愛の実践なのだ。
「……よし」
そう自分の中で論理をくみ上げ、顔を上げる。
ちょうど廊下の向こうから、老僧が歩いてくるところだった。
「精が出るな、陽菜」
「お久しぶりです、先生」
柔和な笑みを浮かべる老人に、陽菜は膝をついて一礼する。
そして、先ほどの自問自答の答え合わせをするように、努めて平静な声で問いかけた。
「先生。少し、教えを請いたいのですが」
「ほう? ハンターになって忙しいお前が、殊勝なことだ」
「うっ……」
早速、出鼻を挫かれてしまった。
孤児である自分を育ててくれた、大恩ある先生。
それだけでなく、後継者として目をかけてもらっていたのに、恩を仇で返すように寺院を飛び出してしまった。
その負い目もあり、先生には頭が上がらなかった。
「冗談だ……そうだな、少しついてきなさい」
大きな、それでもあの頃よりは小さく見えるその後ろ姿を追って、本堂の裏手にある小さな和室へと向かう。
簡素な畳敷きの部屋。中央には古びた香炉が一つ置かれているだけの、飾り気のない空間。
昔はよく、悪戯をした幼馴染たちの巻き添えで、三人揃ってここに正座させられていた。
懐かしい畳の匂いに、当時の足の痺れまで蘇ってくるようで、陽菜は思わず苦笑した。
「それで、何かな」
「お聞きしたいのは、愛についてです」
「また、難しいことを」
先生が眉を顰める。
自分でも漠然とした問いであるとは分かっている。
それでも、誰かに肯定してほしかった。
この溢れ出しそうな感情に、許しが欲しかった。
「誰かを心から大切に思い、その人のためなら何でもできる……そう願う心は、人として尊いものですよね?」
そう問いかければ、先生は考え込むように瞼を閉じた。
しばしの沈黙の後、先生がゆっくりと瞼を開く。
その静かな瞳に見つめられると、心の奥底まで見透かされるような錯覚を覚えた。
「……陽菜。お前の悩むそれは、お前のいうところの”愛”ではないな」
「え……?」
「言うなればそれは”渇愛”──喉が渇いた者が泥水を貪り飲むような、激しい執着だ」
思いがけない言葉に、陽菜は言葉を失う。
先生は穏やかな口調のまま、諭すように続ける。
「真の愛とは、見返りを求めぬものだ。相手が自分を愛さなくとも、ただ相手の幸福を願う。太陽が万物を照らすような、無償の心だ」
「私の気持ちも、そうです。 何に代えても、あの人が笑顔であればいいと、そう思っています」
「だが、お前はそれ以上に”自分のものにしたい”と願っているのではないか?」
陽菜は息を呑む。
そんなことない──と胸を張ることはできなかった。
確かに彼女の幸せをただ願うことから始まったはずの想いには、日々を過ごすうちに色々なものが混ざり合っていった。
かつてのように、純粋な想いだけでは、なくなってしまった。
今ではそれと同じくらい、彼女の隣にありたいと、そう想う自分がいる。
「渇愛は、苦しみを生む。諸行無常のこの世において、変わらぬ関係などない。執着すればするほど、失う時の苦しみは深くなるのだよ」
先生の言葉は、宗教家として、そして長く生きた先達としての、紛れもない正論だった。
執着は苦しみを生む。心を乱し、平穏を遠ざける。だから、そんなものは捨てなさいと。それは理解できる。
確かにあの人と共にあることは、平穏とは程遠い道を歩むことだ。
身の危険は言わずもがな、心配事は尽きず、毎夜のように感情は乱される。
あの人が自分を粗末に扱うたびに、心臓が殆どふたつに割かれたような痛みを覚えて、あの人が遠い目で過去や死に縋る度、自分の不甲斐なさを呪いたくなる。
──でも。
「執着は、いけませんか?」
何もできずに彼女の帰りを待つ、幼い子供のままいればよかったのか。
それとも、もっと前。彼女と出会う以前の、死人のような日々に戻ればよかったのか。
「触れたいと思うこと、ずっと傍にいたいと願うこと。それが執着だとして、泥水のような欲望だとして、それはいけないことですか……?」
かつての陽菜は、確かに平穏だった。
何も望まず、何にも執着せず、ただ流されるままに生きていた。
自分が生きているのか、それすら分からないまま日々を揺蕩っていた。
「先生、やっぱり私、聖人君子にはなれません。悟りなんて開けなくていいと、そう思ってしまうんです」
「……」
「あの日、あの人を初めて目にして、ようやく私の人生が始まったと思いました。あの人の隣に立ちたいとそう願って、ここまで歩いてこれたんです」
これが喉の渇きだとして、それであの人の隣にいられるなら、それで構わなかった。
執着だとして、あの人を守るための衝動になるなら、この身が焦げようと手放す訳にはいかなかった。
それを否定されるなら、神様の教えなんて必要ない。
──だって、そうだろう。神様が守ってくれないなら、自分が隣で守るしかないではないか。
「……僧侶としては、落第点もいいところだな。悟りへの道は、遥か遠い」
「そう、ですか」
「だが、そうだな──」
先生はふっと息を吐き出し、張り詰めていた空気を緩めた。
不思議に思い顔を上げる。
「お前の先生としては、それでいいと思うよ」
その口元には、かつて幼い自分たちを見守っていた時と同じ、呆れているようでいて、どこまでも慈愛に満ちた苦笑が浮かんでいた。
「空っぽだったお前が、今ではそんなに熱く、誰かを想って泣きそうになっている。その渇きこそが、誰かを守り、お前を生かしているのなら……私はそれを、何よりも尊いと思うよ」
「先生……」
先生は大きな掌を、陽菜の頭にぽんと乗せた。
どうしてか視界が滲んで、喉が引き攣るのを感じた。
「だがそれはやはり、修羅の道だ。きっとこの先も、苦しみ悩む日が続くだろう」
「はい、覚悟の上です」
「それに何より、欲望のままに相手を傷つけてはいけない。分かるな」
「……はい。頑張ります」
「なら、いい。励みなさい」
深く一礼し、陽菜は顔を上げる。
迷いは消えていた。この欲望も、執着も、全て飲み込んで力に変える。
それが、自分の愛し方で、戦い方だ。
「先生、また来てもいいですか?」
「ああ。お前の想い人も、きっと何かと思い悩む質だろう。次来るときは一緒に連れてくるといい」
「はい……はい?」
一言も、相手については話していないはずだった。
見定めるように向けられる静かな瞳に、何もかも見透かされているようで、顔が熱くなるのを感じる。
思えば昔からそうであった。
全てを理解した上で、それでいて静かに見守ってくれるこの人だからこそ、今日ここに来ようと思ったのだ。
寺院の門をくぐり抜け、冬の空の下へと飛び出す。
頬を撫でる風は冷たいはずなのに、胸の奥は熱いままだ。
──修羅の道だって、彼女と私の花道にしてみせる。
そう心に誓い、陽菜は弾むような足取りで家路を急いだ。




