閑話 すき、きらい、すき 上
心の底から受け入れられない理不尽を目の当たりにした時、案外人の心は動かないということを初めて知ったのは、私がまだ八つの時だった。
当時の私は、馬鹿で、無力で、何も知らない子供だった。
学校はそんなに好きじゃなかったけれど、家に帰れば父がいて、母がいて、妹がいる。
ニュースは世界各地での治安の悪化とか、野生動物の凶暴化だとかを、しきりに報じていたが、そんなのは全て、画面の中の遠い世界の話。
日常に些細な不満はあれど、不安などない日々が続くと思い込んでいた。
その日は、家族みんなでこたつで暖を取り、母が作った白味噌のお雑煮を食べながら、これぞ新年の早朝といったような、当たり障りのない番組を眺めていた。
最初に聞こえたのは、車の警報音だったと思う。
次に何か大きな破砕音が聞こえて、パトカーのサイレンと発砲音が鳴り響いた。
普段はのんびりとした父と母が、深刻な表情で何かを相談していたのを、今でも覚えている。
外の騒ぎが落ち着いた頃、私の通っていた小学校に避難するという話になった。
父が妹を抱えて、母は私の手を引く。
私は、状況を飲み込めないまま着いていくのが精一杯だった。
家を出てしばらくして、足早に歩く母に着いていくのにも疲れ果てた頃、少し先を歩いていた父の上半身が吹き飛んだ。
今思えば、脳が理解を拒んで、声をあげることもできなかったのは、幸運だった。
私が悲鳴を上げる前に、母が私を地面に押し倒した。
そのまま母は私をコートで包み込んで、絶対に動かず声も上げないようにと、小声でいい聞かせた。
母の突然の行動を理解できなかったけれど、言われるがまま、母の腕の中で息を潜めて地面に伏せる。
耳を澄ませば、獣の荒い息遣いが近づいてきて、それは私の頭上で止まった。
──そして聞こえたきたのは、母の食いしばるような悲鳴と、何かを咀嚼する音。
その頃にはうっすらと何が起きているか理解していたけれど、脳内はそれをまるで他人事のように捉えていて、私の感情が動くことはなかった。
獣の荒い息が遠ざかって、ぐったりとした母の体重が私にのしかかっても、アスファルトの痛みを堪えながらじっと時が流れるのを待つ。
結局、日が暮れて、また昇って、母の体が冷たくなったころ、ようやく生存者を探す大人の声がして、私は動くことを許された。
それから何日か、避難所となった小学校の体育館でぼんやりする日々が続いた。
何か、とても良くないことが起きたのは理解していたけれど、それが本当に私の身に起こったことなのか、よく分からなかった。
吐き気がするほど味の濃い缶詰を日に2回食べて、硬い体育館の床で横になり、飛び交う怒号を無視して、眠れないのに目を瞑る。
そんな事を繰り返していたある日の晩、燃え盛る炎を見て、私は吸い寄せられるように校庭に向かった。
──眠い眼を擦りながらそれを眺めて、何が燃えているのか理解した。
大好きだった父と母と妹。何も悪いことなんてしていない彼らの行き着く先は、急拵えで作られた粗末な木箱だった。
乱雑に積み上げられた無数の棺桶が、ぱちぱちと音を立てて燃える。
火が小さくなって最後には消えるまで、その様子をぼんやりと眺めていた。
ふと、炭化した棺桶が自重に負けて、崩れる様子が目に入った。
それが、私の家族のものだという訳ではなかったけれど、その時初めて、家族が戻ってこないということを本当の意味で理解して、ようやく私の瞳から涙が流れた。
しばらくして母の姉を名乗る人物が現れて、連れていかれた家を、その人は私の新しい居場所だと言ったけれど、そんな馬鹿な話はないと思った。
そこには誰一人欠ける事の無かった幸運な家庭があった。
私は、そこに寄生する異物でしかなかった。
それに、後にも先にも私の帰る場所は一つでけで、それはもうあの夜に燃えて、灰になり空に消えた。
そんなこと、とっくに分かっていた。
治安は最悪で、街には人の皮を被ったケダモノ達が溢れている。
小汚い格好をした大人が、幼子から配給の缶詰を奪い取る光景は、人は余裕が無くなればこうも醜くなれるのかと、私によく思い知らせてくれた。
ふと、周りを見渡たせば、似たような悲劇なんて腐るほどあって、私はその中の可哀想な女の子の一人でしかなかった。
私が失った物を、ありふれた事、仕方がなかった事のように扱われるのが酷く癪に触って、傷を舐め合う哀れな被害者たちにも吐き気を覚えた。
それでも、時間は流れる。
日を追うごとに私の不眠は悪化して、性根も歪んでいったけれど、それに反するように、倒壊していた建物は元通りになっていった。
母の姉は、母の面影を残した顔で、割れ物を扱うように私に接した。
彼女が私を気遣ってくれていることは理解していたし、家に置いてくれている恩は感じていたけれど、毎晩のように何かやりたいことはないのかと聞いてくるのが、酷く煩わしい。
やりたいことなんて、ある筈がなかった。
何に対しても心は動かず、もう自分でも、家族を失う前の自分がどんな人間だったのか、忘れてしまった。
この人は家族を失わず、余裕があるから、いい顔をしているだけ。
そんな最低な八つ当たりだけが浮かんでは消えて、自分がますます嫌いになった。
結局、大好きだった家族が消えて残ったのは、冷めた目で世の中を嘲笑う、最低な私だけだった。




