第29話 今はただ、こうしていたい
山頂は深々とした冷気の靄に閉ざされていた。
静寂の中、ゆっくりと人影が身を起こす。
「どうして、お前が……」
胸を貫かれながらも、エステアはまだ生きていた。
しかしその目は虚で、威容を誇っていた大翼も、今や凍りつきひび割れている。
「アリシア……本当に、お前がフレミアを殺してしまったのか」
酷く錯乱した表情で、縋るような目を向けるエステア。
やはり、彼女の悲痛な表情を見ていると、酷く落ち着かない。
それに、“アリシア“とは、自分に言っているのだろうか。
「エステア……私は、涼花だよ」
「そうか……」
悲しげに目を伏せるエステア。
何か取り返しのつかない事をしてしまったような、そんな焦燥感に襲われる。
それでも──私は涼花だ。そこだけは譲れない。
姉に貰った、大切な名前。
「大丈夫ですか!涼花さん!」
「お前……」
爆発でできたクレーターを軽々と飛び越え、陽菜がこちらに駆け寄ってくる。
エステアは、呆然といった表情で陽菜を眺め、目を見開いた。
「そういうことか……母様が何をしようとしているか、大体分かったぞ」
“アリシア”の次は“母様”ときた。
エステアは変わらず虚な目をしており、その発言の真意は読み取れない。
「いつだって母様は、お前に甘すぎる」
「よく分からないけど、まだやる気?」
懐かしむようにエステアは言う。その口ぶりでは、まるで──
いや、彼女の言葉を真に受けるべきではないだろう。
火球を構えるエステアに対して、渦巻く冷気を構え、慎重に対峙する。
「いや、やっぱり、お前を殺すのは、私には無理だ」
「そう、なら大人しくして。終わらせてあげる」
「いや、それも無理だな。確かにお前は殺せないが──」
そう言葉を切り、彼女は嗤った。
やはり彼女は魔物なんだと、そう理解させられる、悪意に満ちた笑み。
「母様が事を為す前に、人類を皆殺しにすれば、私の勝ちだ」
エステアが火球を足元に叩きつけ、途端に眩い閃光が弾けた。
自爆か──いや、彼女の目は死んでいなかった。
轟音の後、凄まじい熱波が吹き荒れた。
水球で陽菜と自身の身を包み、爆風をやり過ごす。
「っ……!」
土煙が晴れれば、そこにはもう誰もいなかった。
逃げられた──いや、どのみち、彼女を殺すことができたかは分からない。
体力的にも、精神的にも、もう限界だった。
血を流しすぎたせいか、酷い立ち眩みがする。
「涼花さん!」
座り込み、倒れそうになった所を、陽菜に抱き止められる。
体重を預ければ、胸を満たすのは甘い香りと、彼女の温もり。
抱きしめられただけで、全身の痛みも和らいでいくようだった。
「大丈夫ですか?」
「うん、へいき」
「さっきの人って……それに、あの塔は……」
あたりの霧はすっかり晴れて、塔の全容は顕になっていた。
改めて分かる、雲まで突き抜けるほどの異様な高さ。
穢れなき純白の外壁に、神秘的で荘厳な装飾。
誰が、何のために、こんなものを建てたのか、見当もつかなかった。
ここ最近、訳の分からないことばかりだ。
意思を持つ魔物に、フレミアやエステアの存在。
彼女達の持つ魔法のような力に、天まで届く塔。
あの塔には何があるのか。エレナは自分に何をさせようとしているのか。
考えなくてはいけないこと、やらなくてはいけないことは、沢山あった。
「さあ、なんだろうね」
でも、そうした色々も、今だけは考える気にならない。
陽菜を強く抱きしめ、彼女の首筋に顔を埋める。
心地のいい安堵が胸を満たすのに、心臓は煩いほどに跳ねている。
全身がふわふわとして、不思議な感覚だった。
──今はただ、こうしていたい。
「今日も、シチューが食べたいな」
「っ……!はいっ……!」
季節外れの雪が降り積もる静寂の世界で、互いの息遣いと心臓の音だけが聞こえてくる。
二人の鼓動が合わさって、ひとつになっていく心地のいい感触。
──陽菜が居てくれれば、きっと、何とかなる。
やっぱり、こんな楽観的な考え、性に合っていないだろうか。
でも、訳もなく、そんな事を思った。




