第2話 憂鬱
肌に張り付く布団に不快感を覚え、涼花は目を覚ました。
肩口で切り揃えた黒髪に包まれた不健康なほど白い肌。
藍色の瞳は虚ろに彷徨っており、その顔は今にも死にそうであった。
──最低な気分だった。
昨日から続いていた雨で空気は湿っていて、錆びた鉄のような、独特な雨上がりの匂いが鼻を刺す。
浅い眠りと覚醒を繰り返したせいで、思考には靄がかかるよう。
頭の芯が熱を帯び、脈打つように痛みを訴えてくるのが、ひどく不快だった。
体は泥のように重たく、昨日動きすぎたせいか、体の節々が軋んで悲鳴を上げている。
こんな日は何をするのも億劫で、全てがどうでもよく思えてくる。
やるべきことは山ほどあったけれど、布団を被ってしまえば、ただ時間だけが過ぎていった。
時計は見ていないが、少し前に夕刻を告げる鐘が鳴っていた気がする。
こうして一日を無為に消費していると、全てを投げ出してしまいたい衝動に駆られる。
薬は残っていたはずだが、飲む気にもなれなかった。
薬でどうにかなるのなら、自分の意思なんて存在しないようで、馬鹿らしかった。
そうして、この世の不条理だとか、不平不満、そういう物に思いを馳せて、布団の中から世界を呪って時間を浪費していると、思考を遮ったのは呼び鈴の音だった。
起き上がる気力は湧いてこないが、問題はない。
数少ない親しい相手には合鍵を渡していた。
案の定、階下からは玄関の開く音。
階段を上がる可愛らしい足音が聞こえ、部屋の前で止まった。
ノックの音がして、涼花の返事を待たずに扉が開いた。
「涼花さん、起きてるんでしょう」
「……涼花さんなら、寝てるよ」
鈴の音のような、少し幼さを孕んだ少女の声。
布団越しに体を揺すられ、小さく呻く。
「もう、今日こそギルドに行かないと、エレナさんに怒られますよ」
「大丈夫。最近のエレナは、もう怒らないんだ」
「それは呆れてるんですよ……ほら、起きてください!」
蹲るように布団を被るが、涼花を守る最後の殻は、無慈悲にも奪い去られてしまった。
数時間ぶりに晒された肌が、ひんやりとした外気に思わず身震いする。
こういうのを、花冷えというのだったか。
「なっ……」
涼花の布団を剥がした犯人が、頭上で硬直する気配がした。
「なんで何も着てないんですか……!」
§
手渡された服に着替え、訪ねてきた少女と改めて向き合う。
着替え終える頃には、痛みと憂鬱に支配されていた頭も、少しはマシになっていた。
今の格好は、所々にフリルのあしらわれた、薄青のワンピース。
こういう可愛らしい格好は少し気恥ずかしかったが、目の前の少女は何故か、こういう服を涼花に着せたがった。
「おはよう、陽菜」
「おはようございます、といっても、もう夕方ですよ」
ベッドに腰掛ける涼花の前に立つのは、よく見知った少女。
白を織り交ぜた金糸── 亜麻色に透き通った髪は腰ほどまであり、大きな翡翠の瞳は宝石のよう。
緩やかに下がった目尻が、優しげな印象を与えていた。
10人に聞けば11人が美少女と言うような、現実離れした容姿。
しかし今、その愛らしい眉間には皺が寄っていた。
「陽菜、怒ってる?」
「……別に約束をしていた訳ではないですし、怒ってはいません。心配は、しましたけど」
涼花が"仕事"の日は陽菜が夕飯を作ってくれることが習慣になっていた。
しかし昨日帰宅したのは日付が回る頃であり、当然陽菜も既に帰った後。
確かに約束をしているわけではないが、心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。
「ごめんね。昨日助けた子が、どうしてもお礼に奢らせてくれって言うからさ……」
言い訳じみた言葉に、陽菜が深いため息を吐く。
「そんな事だと思ってましたよ……まあ、無事ならそれでいいんです」
なんとかお許しを得たようだ。
ベッドを叩いて促すと、陽菜がちょこんと隣に座った。
ためらうことなく横になり、その太ももに頭を預ける。
「はぁ……頭も痛いし体もバキバキだし……」
「もう……」
陽菜は呆れたように苦笑しながらも、涼花の頭を優しくさすった。
触れあった場所からじんわりと体温が伝わる。
酷い頭痛も、それだけで和らいでいく気がした。
年下の女の子にこうして甘えている状況に、恥ずかしさがないわけではないが、もう今更だった。
「もう、仕事の後は本当に駄目ですね、涼花さんは」
「……昔は、もうちょっとマシだったんだけどな」
仕事の後の頭痛と、それに伴う憂鬱は、年々酷くなっていた。
最近では目覚めるのも億劫で、翌日は大半を寝て過ごすことが殆どだった。
そのうち、本当にそのまま目覚めない日が、来るんじゃないだろうか。
「はい、終わりです。楽になりましたか?」
「……ありがと、陽菜」
陽菜が手を止め、涼花の肩を揺する。
このまま膝の上で眠りたかったが、そうもいかない。
気持ちを切り替えて、重い体を引きずるようにして身を起こした。
「ギルド、いくかぁ。陽菜はどうする?」
「買い物があるので途中までご一緒します。今日こそは、一緒に食べましょう?」
そう言って立ち上がり、こちらに手を差し伸べる陽菜。
窓から差し込む夕陽が、彼女の亜麻色に反射する。
──まるで、絵画に描かれる天使のよう。
差し出された手を取って立ち上がり、2人で部屋を後にした。
「ありがと。いつも悪いね」
「エレナさんにも頼まれてますし、気にしないでください」
エレナは涼花の姉、兼保護者のような存在。
元々はエレナが、涼花の生活力を案じ、陽菜に世話を頼んだのが始まりだった。
以来、陽菜は食事を作り、部屋を整え、何かと気を配ってくれている。
年下に面倒を見られる現状に思うところがないでもないが、陽菜も嫌がってはいないようで──そうしてあっという間に5年が過ぎてしまった。
「きっと、陽菜は良いお嫁さんになるよ」
「もう、調子のいいことばっかり。ほら、行きますよ」
陽菜が玄関を開ける。
差し込む夕焼けが、少し眩しかった。




