タロとジロの夏休み
『タロとジロと自転車』
タロは小学四年生、ジロは小学三年生。兄弟だ。年子というやつだな。お母様、大変お疲れ様でした。
七月下旬というのは大抵の場合において夏休みで、タロとジロの小学校も同様だった。田舎と言っちゃ田舎、都会と言っちゃ都会、3:2で田舎風味なこの町生まれ、この町育ちな二人。人通りの少ない広めの遊歩道に、今、自転車を走らせていた。
「おーい、ジロ。遅えぞ」
「ごめんよ兄ちゃん」
弟を急かす兄。自転車を漕ぐスピードが、前者のほうが遅い。すでにぐっしょりの汗で、ゼエゼエ、ハアハアと息を切らしている。
「プールまで、あとちょっとだろ。俺、先行ってっからな」
「ちょっと待ってよぉ。僕も一緒に行くってば」
ギラギラと照りつける太陽とおびただしい蝉の声は、少年をさっさと市民プールに浸かりたくさせる。前カゴの水泳バッグを揺らしながら、タロの自転車はタイヤで地面にぐるりと円を描いた。
「ったく、お前はノロノロしてんな。チャリンコぐらい余裕だろ?」
「兄ちゃんはすごいよ」
何度もくるくるとUターンして大きな円を作り上げる兄に、他意もなく素直な笑みで返した弟。
兄の口角は上がりつつ、隠すようにそっぽを向いて鼻をこすると、再びプールへと自転車を走らせた。
一週間ほど経った日のこと。ゲーム中にタロは同級の友人との約束を「あっ!」と思い出した。
冷蔵庫に掛けてある自転車の鍵を掴み取ると、急ぎ玄関のドアを開ける。自分の自転車に鍵を挿そうとしたところ、
「やべ、これジロの鍵だ」
持ってきたのが弟の自転車の鍵であることに気がついた。
ま、いっか。靴も履いちゃったし、今さら戻っても時間がもったいない。公園までの距離、サドルの調整をするほどでもないだろう。
ジロの自転車にまたがったタロは、そのまま目的地へと向かった。
「なんか、ペダルが重いな……?」
ちょっとの坂でも息が切れ、常にペダルを回転させないと前に進まない。汗がいつも以上にダラダラ噴いてくる。違和感にふと、道端へと自転車を止めた。
「あっ」
思わず叫んだタロは、その後輪に目を奪われた。
ジロの自転車は、パンクしていた。
『タロとジロと宿題』
夏休みの宿題は七月中に終わらせて後顧の憂いなく遊び倒すとは、どこぞのツンデレJKのセリフだったか。
さすがに七月中とは言わないまでも、八月初旬にはほとんどの宿題を終わらせていたタロ。今解いている算数のワークさえ終わらせれば、あとは一行日記を残すばかりとなっていた。
「兄ちゃん、もう宿題全部やったの?」
「ああ。あとこの三十ページだけ」
ジロは、得意げに突き出された冊子をまじまじと見て感嘆の声を上げた。
「すごいや。僕、作文もまだで……」
「とっととやっちゃったほうがいいぞ。ところで」
と、ちゃぶ台にワークを置いた兄は弟を見上げる。
「その格好はどうした?」
エプロン、ゴム手袋をつけていたジロ。
「僕も宿題だよ」
「宿題?」
「うん。一行日記に『今日は家の大掃除をしました』って書くんだ」
「一行日記……」
一行日記はその日の夜、あるいは何日か経ってから「えーっと、何があったんだっけ?」と思い出して書くものである。日記を書くために行動するなんて、兄の頭にはない発想だった。
「馬鹿だな、ジロ。あんなん成績に入んねえぞ。たった一行書くだけだ、テキトーにでっちあげてもバレないぜ」
「でも、それじゃ、なんかやだよ」
「あっそ。好きにしろ」
兄は弟に言い放つと、さっさと算数のワークに向き直った。
タロが少数の割り算をしたり、直方体の体積を求めている間、ジロは網戸を洗ったり、壁のカビを落としたりしていた。
昼過ぎ、母が仕事から帰ってくると、目に入ったのはジロの掃除風景。部屋で勉強するタロの耳にも、彼女の歓喜や感謝の声が聞こえてきた。
そろそろ昼ご飯が作られるだろう。なのに、お腹がそんなに空いていない。ワークはあと三ページで終わる。
「……やめだ、やめ!」
ワークをちゃぶ台に叩きつけたタロは、ドアを開けて居間に駆けた。
8月4日(月)晴れ
今日は、にいちゃんと、家の大そうじをしました。
『タロとジロと風呂のアリ』
風呂に入るのは場合によっては面倒くさいが、いざ入ってしまえば今度は出るのが面倒くさくなる──というのは、現状維持バイアスの類型なのだろうか。
テレビ視聴もほどほどに、母から入浴を命じられたタロとジロ。風呂場にも釣りのオモチャや夏祭りで買ったラムネの空き瓶があり、遊び道具に困ることはなかった。
「兄ちゃん、これ」
「うん?」
弟が指したのは、一匹の蟻。
「へえ、こいつ風呂場にも入ってくるんだ」
「きっと窓の隙間から入ってきたんだよ」
夏場にはありがちな光景だ。近くに巣でもできたのだろう。チョウバエよりは見た目も行動範囲もうざったくないので、兄弟はその来訪者を好奇心とともに出迎えた。
手に乗っけてみたり、目の前に水滴を置いてみたり。小さな生物は子どもたちのよきオモチャであった。
「えい」
やがて飽きが来ると、タロは蟻をラムネの瓶の底に閉じ込めた。ただ瓶を置いただけ。それだけでも、底の凹んだ部分は一匹の蟻を囲う優秀な檻となる。
右往左往する、瓶の底の蟻。キョロキョロと焦って打破を試みようが、世界は絶対なのに。兄弟は互いを見合わせ、クフフと笑った。
「えい」
その隙に、組んだ手で水鉄砲を食らわせた弟。「やったな?」と反撃を開始する兄。
二人の長風呂に心配した母がドアを開けたのは、子どもらが風呂場に行ってから四十分後のことだった。
翌朝の予定はBBQだった。河原に充満する焼肉の匂いと、家族の賑やかな声。デザートの焼きマシュマロまで平らげれば、あとは消火するばかりの炭。兄弟は落ち葉や割りばし、使い終わった紙皿、蝉の抜け殻や蜂の死骸をどんどん焚べていった。
最後の紙皿を手に取ったとき、焼肉のタレに群がる蟻を見つけた。と、
「兄ちゃん! 蟻!」
蟻が皿の上にいる──捻りもない当たり前の事実を大仰に叫んだジロに母も父も笑ったが、兄にはくっきりと通じた。
蟻。風呂場の蟻。
瓶の底に、置いてきている。
すっかり忘れていた記憶のスイッチ。すぐに家に帰りたい、と兄弟が叫んだのには、両親も目を丸くして首を傾げるしかない。
楽しいBBQは子どもたちの切羽詰まった表情に、不可解なまま閉会した。
家に着くなり、真っ先に風呂場へ向かった兄弟。廊下をドタドタと冷や汗とともに駆け抜け、たどり着いた問題の瓶をどかすと、くしゅくしゅと丸まって横たわる一匹の蟻が。
二人は絶句し、顔を見合わせることもなく、しばらく立ち尽くした。
何分、あるいは何十分そうしていたか、兄は蟻をそっと手のひらに乗っけた。廊下を歩く、その後ろに弟も付いていく。庭に出ると、隅っこの土を指で掘り始めた。弟も手伝う。
小さい穴の底に蟻を置いて土を被せた。目印がなければ場所がわからなくなる。弟はすぐに台所からかまぼこの板を持ってきて、地面に差した。
夜、ジロは眠れなかった。ブランケットの下で、ガタガタと震える首が自分のものではない気がした。
物音に気づく。タロが部屋から出た。こんな夜中に? トイレか? 時間を空けて、ジロもひっそりと部屋を抜ける。
兄は庭にいた。居間から覗けるカーテンの隙間の向こう側。
兄は、水鉄砲のような祈りのような手の形を組み、小さな墓標の前でうずくまっていた。