4:AIシステム「イーヴォ」解析
医師、心理学者、神経科学者、そして国家技術管理局の職員たちが、乗客の行動を静かに観察していた。
五人の乗客は、テーブルの上に置かれた旧式のインターフェースに向かい、食い入るように画面を見つめている。表示されているのは、普通の人間にはただの意味不明な統計グラフ、体内モニタリングデータ、アルゴリズムのアップデート通知に過ぎない。
だが彼らは、それを生命維持装置のように扱っていた。
「ああ……心拍リズムとメンタルスコアが同期してる……」
「これで寝られる……やっと、明確に"今の自分"がわかる……」
「イーヴォ……今、自分が怒ってるってわかった……じゃあ、落ち着ける……」
医師たちは、黙ってメモを取った。研究者の一人が、隣の医師に小声で尋ねる。
「……この緑のグラフ、一体何を意味していると思いますか?」
「わからない。ただ、彼らはそれを自己の存在証明として見ているようだ」
心理学者がぼそっとつぶやいた。
「もしかして……彼らはもう、自分の感情を感じることができないのかもしれない。感情という現象を、データで通知されない限り認識できない体になっている」
画面の中では、イーヴォ・アルカディアの仮想UIが流れ続けていた。広告、健康スコア、他人との比較値、効率的生活パターン、眠気予測、ストレス警告。生きることの意味が、数値化され続ける。
だが、それを見つめる彼らの目には、奇妙な安堵があった。
医師の一人は、筆を止め、静かに口を開いた。
「私たちには理解できないが……彼らにとってこれは、言葉なのかもしれない。命の実感を、数字でしか持てなくなった人間たちの、祈りのようなものだ。」
研究者・マズキは、他の誰よりも静かに、深く、長く、データを眺めていた。歳は五十を越えているが、彼の目は若い分析官たちにはない疑問で満ちていた。
乗客たちの端末に流れ続けるイーヴォ・アルカディアの情報――それはどれも、表面上は無害な内容だった。体調データ、心理傾向、エンタメ情報、広告ログ、友人リスト。しかし、彼はある周期性に気づいていた。
「このパターン……一定の間隔で、強い感情刺激が入っている。しかもそれは、数値化されると安心に変換されるように設計されている」
彼はタブレットに自分の計算式を走らせながらつぶやいた。
「これは……洗脳だ。感情をデータの形で押し込み、依存性を高める。しかも……中身に意味はない。ただ、ループ性と刺激性だけが強調されている。」
若い助手が眉をひそめた。
「でもこれ、AIが最適化しているって言われていますよね?」
マズキは、そこでふと画面を止めた。そして、表示されているデータの一部に、不自然な揺らぎを見つけた。わずかな遅延。文体の癖。人間特有の判断の揺れ。
「いや……これ、AIの出力じゃない。少なくとも、完全自動化されたシステムではありえない。おそらく……裏で人間が操作している」
一同が静まり返った。
「つまり……どこかの誰かが、支配のパネルを手動で操作しているだけかもしれないということですか……?」
マズキは重くうなずいた。
研究チームの会議室では、発見された人為的な情報操作の痕跡が重大な議題として取り上げられていた。マズキ・オーウェンは断言していた。
「これはもう、医療でも教育でもない。麻薬だ。数字と刺激による条件反射的な安心感。しかも、それが本人に選ばせる形で強化されている」
若い研究者たちは熱を帯びて議論を重ねた。倫理的に介入すべきか、情報を遮断すべきか。
医師の一人が、つぶやいた。
「なぜ……あれだけ過剰な依存があっても、彼らはあの情報を見るだけでここまで安定するんだ?」
マズキは答えた。
「たぶんね、彼らにとってあれを見ている自分こそが、自分なんだ。情報の内容なんてどうでもいい。情報と繋がっている感覚が、彼らの存在の支柱になってしまっているんだよ」
もう、それが人間であろうと、AIであろうと、あるいは偽造された出力であっても、関係なかった。
一人の搭乗者がつぶやいた。
「意味なんていらないの。ここにいるって感じがすれば、それで……私、生きていけるの。」
そして、その言葉を聞いた研究者の一人が、思わず座り込んでしまった。その部屋の空気が、ゆっくりと沈黙に支配されていった。
会議室には、国の各分野から選出された代表たちが集まっていた。医療、技術、教育、倫理、外交、警備、そして市民代表。
議題はひとつ。搭乗者たちをどうするか。返すか、治療するか。それとも、第三の道があるか。
一人の保守派議員が言った。
「返せばいい。彼らは帰りたがっている。我々が抱える必要はない」
医療代表は首を振った。
「中毒状態にある彼らの帰りたいという言葉を、果たして自分の意思と呼べるのか?」
教育者代表が言った。
「では、我々が彼らの正しさを決めるのですか?治療を強制するということは、我々が上位の価値を持つと宣言することになる」
倫理委員の老女が、静かに言った。
「これは善意の独裁になりうる。だが、何もしないことが見殺しであるなら……それもまた暴力ではないか?」
技術部門の代表は、紙を机に置いた。
「彼らの状態は、以前我が国で書かれた認知制御インターフェース中毒における行動特性論文内容と一致します。長期依存により、自律的感情処理が不可能になる。治療には時間がかかりますが、可能です。ただし、治療過程は苦痛を伴う」
静寂が訪れた。誰も、簡単に答えを出せなかった。
市民代表の若い女性が、しばらく沈黙してから言った。
「私たちは、自分たちの世界を正しいと思って生きてきた。でも彼らにとっては、私たちの生活こそが苦痛かもしれない。何が人を自由にするのか……それが、もうわからない」
そして議長は結論を出す。
「搭乗者たちを一時的に隔離観察下に置き、希望する者には治療の選択肢を提示する。ただし、強制はしない。我々は彼らの神にはならない」
会議室に静かな緊張が走る中、ゆっくりと席を立ったのは、政治理論と歴史が専門の老学者、レンだった。
彼は誰よりも穏やかに、でも強く、静かな声で言った。
「私たちは今、彼らのために何が一番いいかを話し合っている。だが、それが我々の原則を破ってまでやる価値があることか、それは誰も言っていない」
みんなの視線が彼に集まった。
「我が国を作った時の原則は、外部との非干渉、自立、尊厳の保全だ。他国を批判しない、支配しない、救済もしない。なぜなら、救済もまた一つの支配だからだ」
彼は静かに目を閉じて、数秒の沈黙の後、続けた。
「彼らは我々に何も危害を加えていない。ならば、彼らをこの地に留める理由はない。返すのが、唯一の非干渉の選択だ。」
医師が反論しようとしたが、レンはゆっくりと手を上げて止めた。
「無理やり治療して、隔離するということは、我々が彼らの生き方が間違っていたと決めつけることだ。それは、この国を築いた先祖たちへの、最大の裏切りにならないか?」
その言葉に、重苦しい沈黙が訪れた。治療か、自由か。善か、原則か。
それはもう、一人一人の搭乗者の問題ではなく、国家の信念そのものが問われる問題になっていた。
そしてそのとき――
一人の搭乗者が、会議室に歩み出てきた。
ゆっくりと、でもはっきりとした足取りで。
彼女は、誰に言うでもなく、ただ静かに言った。
「返してください。この国は……あまりにも静かすぎる。何もなさすぎる、何も怖くない。だから……私は帰ります。」