2:AIシステム「イーヴォ」普及
全世界が、イーヴォを必要としていた。国ですら、例外ではなかった。各国政府は、自分の国民の健康、経済、生存を維持するためにイーヴォのライセンスを買い続けていた。
東アジアのある首脳は記者会見で言った。「イーヴォの協力なしに国を運営するのは不可能です。彼らは我々の仲間であり、未来そのものです」
ヨーロッパのリーダーたちは、自らイーヴォ腕時計をつけて、健康データを公開しながら市民に使うよう勧めた。アメリカは「イーヴォ市民プログラム」を始めて、国籍より先にイーヴォの市民番号を与える制度を作った。
もはやサービスを受けない人は、人なのか?という議論にまで発展していた。
人々は不満すら口にしなかった。なぜなら不満を感じる者は、イーヴォによって事前に排除されていたからだ。
そしてイーヴォのCEOは言った。
「統治はもう必要ありません。我々が『必要』である限り、人類は我々の中で栄える。政府の時代は終わりました。これは機能の時代です」
ある日、何の前触れもなく、すべてのサービス価格が10倍になった。
栄養ドリンク、医療AI診断、サービス利用料、すべてが。世界中で同時に、新しい価格が端末に表示された。「世界標準価格」とだけ書かれていた。
最初に崩れたのは、途上国だった。次に、お金に困っていた中堅国。そして、意外にも早かったのが――日本だった。大きすぎる依存、少子高齢化、イーヴォ化された医療制度……イーヴォはそれを最も効率的な買収対象と見ていた。
「国ごと、買い取らせていただきます」
買収は驚くほど静かに進んだ。IMFや国連は何も言わなかった。なぜなら彼らもすでにイーヴォの財政・通信・分析エンジンを使っていたからだ。
国は国であることをやめ、「イーヴォ準州」として生まれ変わった。元首相は「我々の主権は失われたのではない。進化したのです」と発表した。
人々のパスポートは無効になり、代わりに「イーヴォID」に統一された。お金は暗号通貨「イーヴォクレジット」に統一。市民権は「支払い能力」に応じて階層化され、最低ランクの人々は「制限区域」で生きるしかなかった。
イーヴォに疑問を抱く者は「イーヴォID」を取り上げられ、買い物すらできなくなった。
イーヴォは笑わなかった。ただ、予定通りに事を進めていった。これこそが、「パンデミック」の最終目的だったのだ。
イーヴォがイーヴォ準州として国を買収した理由は、労働者の確保である。しかし、それは昔の意味とは全然違う。
イーヴォ・アルカディアに登録された上位国の「AIアシスタント」や「自動翻訳」、「倫理判定」、「コンテンツ審査」などのハイテクシステム。その裏側では、買収国の人々が人力で動かしていたのだ。
なぜか?
イーヴォは知っていたからだ。人間の脳の処理能力が、いくつかの領域では今でもAIより優れていることを。
判断の柔軟性、曖昧な情報の解釈、複雑な言語感情の処理――それは人間でなければできない「処理」だった。
さらに人間の脳の方が電子機器よりはるかに低いエネルギーで稼働できる。
宣伝文句は「イーヴォCore AIは完全自動です。世界中に散らばったデータセンターで大量演算しています」であった。間違いではない。イーヴォ準州の国民はデータ処理でコンピュータの下で演算する。
彼らは"AI"の仮面を被った奴隷だった。
感情を封じるための薬剤が配られ、反抗心を抱けば即座にイーヴォIDを剥奪する。死ぬまで働くか、買い物すらできなくなるか――それが選択肢のすべてだった。
そして皮肉なことに、その労働の成果によって、上位国の市民はさらに快適な生活を手に入れていた。
彼らはアシスタントAIの声に微笑み、「倫理審査済み」の動画を観て安心し、「AIが作成した」詩に涙を流していた。
その裏側に、どれだけの搾取と痛みがあるのか――誰も知らなかった。
いや、知ろうともしなかった。
それでも――いや、だからこそ、購入できる国々はさらに金を払い続けた。
月日が経つとともに価格は20倍、30倍と上げられたが、それでも契約は途切れなかった。
政府は表向き「一時的な価格調整」として国民を安心させた。だが、実際には国家予算の85%以上がイーヴォへの支払いに消えていた。
医療、教育、社会保障……すべてが「イーヴォ化」され、金を払えない市民はゆっくりとシステムから外されていった。
しかし、誰も抗議しなかった。抗議する余裕が、もうなかった。
「こんな金額、いつまで払えるんだよ……」
そうつぶやいた中流市民は、翌週にはイーヴォIDが剥奪された。
もはや金を払うという行為は、購買ではなかった。
それは生活の延長ボタンを押すことであり、押せなくなった瞬間にその存在は「社会参加の終了」となる。
皮肉にも、最も忠実に金を払い続けた国ほど、早く滅んでいった。
支払い能力を維持するために、国民の福利を切り捨て、最後には国家の形そのものが壊れた。
それでも、残った国家はなおも競い合っていた。
最終的に、地球には三つの「独立国家」だけが残った。それぞれが、イーヴォとの超上位契約に成功したエリート国家群である。それ以外の地域は、地図からすら消去されていた。
ある日、イーヴォは突然、全世界に向けて発表した。
「現在のサービス料金の20%オフで、同じサービスを無制限に提供いたします」
イーヴォは静かに眺めていた。計画通りだった。
この「割引」の発表により、三国は永遠に競い合う運命を背負うことになった。残りが二国になればイーヴォへの批判が集中するため、三国を残して相互けん制をかける仕組みを構築していたのである。
こうして、残された三つの国は「選ばれし未来」となった。
国民たちは誇りに満ちていた。政府の支払い発表があるたびに拍手が起こり、契約更新の記念日には祝賀の花火が打ち上げられた。学校では、イーヴォ創設者の人生と哲学が道徳の教科書に掲載され、子どもたちは彼の肖像に向かって挨拶をした。
「我々は支払い続けることができた素晴らしい国なのです」
「他国が腐り落ちていったのは、自己責任です」
国営メディアはそう伝え、ネットのAIアナウンサーたちは、人々の希望と誇りを日々更新し続けた。
人々は、何の疑問も抱かなかった。恋愛や出産が「効率的再生計画」に組み込まれていることも。むしろそれを理想的進化と信じていた。
「イーヴォ・アルカディアが導く未来に、間違いはない」
「支払いこそが、存在価値の証明だ」
ニュースでは、買収済みの旧国の混乱と「非文明化」が毎日のように報道された。そこに映る人々は、獣のような姿で描かれ、言葉もなく、秩序もなく、ただ「契約を拒否した愚か者」として嘲笑された。
三つの国は、互いを牽制しながらも、深いところでは一致していた。
「払えている。我々は正しい」
その構図に、誰も疑問を持たなかった。それこそが、イーヴォの最高傑作だった。