2話 彼は私のミューズです。
なんなの、この顔。
恐ろしく理想的な顔だわ。
ソフィーは遅れて現れたライアンの顔から目が離せなかった。
さっさと帰ろうとしていたことなど、もう頭の片隅にも残ってはいない。
彼の整った顔を見ていると、作りたい服のアイデアがどんどん浮かんでくるのは何故かしら。
体型も素晴らしいし、上背もあるからか、彼に着せたい斬新な服のインスピレーションが次から次へと湧き出てくるのよ。
……はっ!
もしかして、これが世に言う「ミューズ」というものなのでは!?
そうよ、ミューズ!
彼はドストライクな顔を持つ、私のミューズなのだわ!!
ミューズーーそれは芸術家の想像力をかきたてる人や物を指すと言われているが、もちろん簡単に出会えるものではない。
元は女神の名前であることから、普通は女性に対して使われることの多い言葉だが、男性同様に働きたいと願っているソフィーにとって、創作意欲をバンバン刺激してくるライアンは紛れもなくミューズそのものだった。
頬を紅潮させ、目を見開きながら立ち尽くすソフィーの腕を、父が軽く叩いた。
「ソフィー? 突っ立ったままでどうしたんだ? ライアン殿に挨拶するんじゃないのか?」
そうでした。
あまりの衝撃に我を忘れてしまったじゃないの。
まずはにこやかに挨拶、挨拶っと。
「大変失礼致しました。はじめまして、ソフィーと申します。ライアン様ですね?」
「ああ、そうだ」
面倒臭いと思われていることは表情からもはっきり読み取れるが、ソフィーはそんな態度で心が折れたりはしない。
なにしろ彼は貴重なミューズなのだ。
お近付きになれるチャンスを易々と見逃すはずがなかった。
むしろそんな不機嫌な顔すら好みだと思いつつ、ソフィーは先手必勝とばかりに威勢よく言い放った。
「私と結婚して下さい!!」
「「は?」」
「おおっ!!」と喜びの声をあげたのは伯爵だけで、ライアンと共に間抜けな声を漏らした後、父が慌ててソフィーを止めに入った。
「待て待て待て、ソフィー。話が違うだろう。やんわり断るっていう約束はどうした? 誰がガツンとプロポーズしろと言った?」
父は明らかに動揺しているが、まあ当然だろう。
ライアンは怪訝そうな顔を通り越して、もはや全身から嫌そうなオーラを発している。
さすが冷徹な男、取り繕おうともしていない。
でもそこがいい。
「お父様、状況が変わったのです。私はミューズを失う訳には参りません」
「え? ミューズ? ……お前は何を言っているんだ?」
ソフィーをたしなめ、破談にさせようとする父を邪魔だと感じたのか、伯爵が援護射撃に出た。
「ライアン、ソフィー嬢に庭を案内してあげなさい」
「え? いや……」
「まぁ、それは素敵! ライアン様、それでは参りましょうか。お父様はしばらく伯爵様とお話ししてらして」
食い気味に賛成したソフィーは、露骨にかったるそうな表情を浮かべるライアンの背を押しながら、強引にその場を離れた。
「まったく、こんなところまで連れてきて。私は結婚する気などないのだが」
庭園の奥まで連れ出すと、ライアンがソフィーを見下ろしながらキッパリと言った。
並んでみると、やはり彼は背が高い。
ソフィーの頭一つ分は優に大きい。
ですよねぇ。
知っていますとも。
気持ちもよくわかるわ。
思わずうんうんと頷きたくなってしまう。
「私もさっきまでは絶対結婚したくないと思っていました。ガツンとお断りをするつもりで来ましたし、ライアン様が帰っていらっしゃった時は、正直『帰ってきちゃったか』って思いましたもの」
ソフィーの赤裸々な告白に、ライアンは呆気に取られているようだ。
片方の眉だけが器用に上がっている。
「あ、『この女は一体何を言ってるんだ?』って思っていますよね。でもライアン様の顔を見た瞬間、結婚したいと思ったのです」
「ハッ。なんだ、この顔か。悪いがそんなくだらない理由で結婚などしない」
ライアンはその整った顔目当ての女性に言い寄られることが多いのかもしれない。
まるで軽蔑するような言い方だった。
「それは困ります。私の夢と人生がかかっておりますので」
「なんだ、今度は私の地位と財産目当てか。そんなに裕福な暮らしがしたいか? 呆れるな」
ソフィーと話すことすら苦痛になったのか、ライアンは顔を背けてしまった。
綺麗な横顔だ。
「そんなもの要りませんわ。私は自分で稼ぎたいのですもの。その為にあなたが必要なのです」
「何だと?」
ソフィーの話に興味が出たのか、ライアンは再びソフィーに視線を戻した。
このタイミングを逃してはならないと直感で感じたソフィーは、早口で捲し立てた。
「私は服をデザインしたり、作るのが趣味なのです。店を持ち、結婚はせず、自立して生きていこうと考えていました。しかし、ライアン様を一目見た途端、作るべき服や進むべき方向性が嵐のように私を襲って来たのです。 ライアン様は私のミューズなのです! 手放すわけにはいきません!!」
ソフィーの熱い語りを冷静な表情で黙って聞いていたライアンだったが、一旦ソフィーが口を噤むと、質問をしてきた。
「私が仮に君のミューズだとして、何故結婚しないといけない?」
確かに最もな意見である。
瞳に映すだけで創作意欲が湧くのなら、何も結婚までする必要はない。
「単純に、旦那様なら顔を合わせる機会が多いかと。採寸や着付けを手伝ったり、手直しの際に脱いでもらったりというのも、妻の立場でないとやりにくいと思ったので……」
顔が好みという事実は今は置いておくことにした。
ライアンにはビジネスライクの方が話が上手くいく気がする。
結婚の必要性に関しては、咄嗟に思い付いた割には概ね真実だった。
仮にも令嬢が、身内でもない男性に頻繁に会いに行ったり、触ったり、衣服の着脱を手伝うなんてありえないことなのだ。
依頼されて制作するならまだしも、こちらが一方的に押しかけるというのは無理がある。
変な噂が立ちかねない。
ーーソフィー的には問題ないが。
ここは大人しく結婚してもらい、好みの顔でこれでもかと目の前をうろつき、インスピレーションの泉となって欲しいところだ。
「言い分はわかった。では君には私との結婚のメリットがあるとして、私には何かメリットになることがあるか?」
ライアンはソフィーと結婚しても、自分に利が無いと言っているのだ。
利が無いのなら結婚などしないと言うつもりに違いない。
ソフィーはなんとかして、ライアンにとっての「結婚のメリット」を捻り出さねばならなくなってしまった。