第3話:宿屋『アルミラージの集会所』
「ふあぁ……。もう寝ようかと思ってたんだけど」
宿屋の中に入るとカウンターには粗雑な身なりをした茶色い巻き毛の男が立っていた。眠そうに目を細めながら欠伸をしている。
「二名と一匹で宿泊したいんですが、空いてますか?」
肩に乗っているアルミラージの頭を優しく撫でながら絵理華が問い掛ける。
「あぁ、問題ねぇぜ。何せ、今日はお前たちしか客が来てないからな!」
「ひゃっほう!貸し切りですか?!」
金色の髪を靡かせて嬉しそうに跳ねるセレン。
「あと、軽く食事もしたいんですが、何かありますか?」
「ウチのメニューは山菜のソテーと鳥の香草焼き、後はスープくらいしかねぇな。今すぐ作ってやるけど、どれがいい?」
二人は顔を見合わせると、
「「鳥の香草焼き!!」」
声を合わせて同じメニューを注文した。疲れているから肉を食べて英気を養いたい。たったそれだけのことなのだが。
「意外ですね。動物好きな絵理華さんが肉料理を頼むなんて。てっきり、「動物がかわいそう!」とか何とか言って食べないかと思いました」
宿を経営している男(ガルシャという名前なのだそうだ)が料理を作っている間、左肩の上で寝息を立てるルミ子を見ながらセレンが口を開く。
「確かにかわいそうではあるけどさ、何の変哲もないキノコにだって、電気信号を使って50個程度の合図を共有しているらしいじゃん?だったら、態度で表すことができないだけで、野菜やキノコにも『痛い!』とか『仲間が殺された!』みたいな感情があるんじゃないかなって」
「うわぁ。そんな話聞いたらキノコが食べられなくなりそうじゃないですか……」
「でしょ?「もしかしたら野菜にも喜怒哀楽恐の感情があるかも」とか思い始めたら、もはや何も食べられなくなっちゃうんだよ。だから、そこはちゃんと区別してるってわけ」
野菜もダメ、肉もダメとなると、それこそ乳製品くらいしか食べるものがなくなってしまう気がする。
「随分と博識なんだな。嬢ちゃんたち」
ガルシャがテーブルクロスの敷かれた机の上に料理とフィンガーボウルを持ってくると、二人の目の前に置く。
「あの……、パンは頼んでないんですけど?」
「あぁ、これですか」
よく焼かれた鳥肉の下に敷かれているパンを見ながら、セレンは言葉を並べる。
「これはトレンショワールと言ってですね、お皿の変わりに用いられている硬いパンですよ!上から垂れた肉汁が染み込んで美味しくなるので、食べるなら別々、しかも肉を食べた後に食べるのがおすすめです!!」
「へぇ、この世界ではお皿は使っていないんだ?」
中世ヨーロッパと言えば、お皿の上に乗った料理をナイフやフォークを使って優雅に食べる光景を想像する者が多いかもしれないが、ナイフ・フォーク・皿を使うようになったのは近世に入ってからであり、パンや肉を切る際には普段使い用のショートソードなどを用いていた。
ゼロストが管理する異世界は中世ヨーロッパ並みの生活水準ということで、ナイフ・フォーク・お皿などというものは存在しないようで、スープなどの汁物を供する時に限り木製のお椀を使うのだという。
ちなみに、スプーンは古代ギリシャ・ローマなどで動物の骨・銀製・青銅製などの素材を用いて使われていたようだが文化としてあまり根付かず、再び歴史の舞台に姿を現すのは11世紀頃のイタリア。この頃、上流階級では動物の角などを加工したスプーン・一般庶民は木製のスプーンを使っていたようだが、ヨーロッパ全域にスプーンが普及するのが近世に突入した17世紀頃であることを考えると、千切ったパンをスープで浸して食べるのが一般的だったようだ。
「じゃあ、この香草焼きも手掴みで食べろってこと……?」
改めて目の前にある鳥の香草焼きに目線を落とす。
香草の芳香と共に白い湯気がもくもくと上がり、絵理華の鼻孔と満腹中枢を刺激してくるが、焼きあがったばかりの肉料理が熱くないはずがない。
「大丈夫!絵理華さんはLSランクの冒険者なので、これくらいの熱さは全然平気だと思います。それに、手の汚れが心配なのであれば、フィンガーボウルで指先を洗ってからテーブルクロスで遠慮なく拭っちゃってください!!」
ひらひらとテーブルクロスを揺らす。
テーブルクロスは中世初期(8世紀頃)から使われていたとされていて、その本来の目的は食事で汚れた手や口を拭き取ることである。
「何だか悪いことをしている気分だね」
「郷に入りては郷に従え、ですよ絵理華さん!慣れないうちは大変かもしれませんが、遠慮なく使ってくださいませ!!」
早速言われた通りにやってみる。
まずはトレンショワールの上に乗せられた肉を片手で抓むと、口の中へと運ぶ。
「どうですか……?」
咀嚼するたびに口のに肉汁が零れ出し、味蕾を刺激していく。
この快感をたっぷりと堪能してから嚥下して一言。
「お、美味しい……っ!!」
実は中世のヨーロッパでは水辺に棲息する生き物であれば、海豚でも鯨でもビーバーでも水鳥でも一緒芥に『魚』と呼ばれていた。
同じような原理で、『鳥』と言われれば鴨やガチョウ・鶏などの家禽類以外にも、鶴・白鳥・鶉・コウノトリまで『鳥』だったりするのだが、どうやら、この香草焼きは鶏肉を使っているらしい。現世でも馴染んだ味に舌鼓を打つ。
「おっ!嬢ちゃんの口に合ったか!そんなに嬉しそうな顔をされると、オレも作った甲斐があったってもんだぜ!」
カウンターからこちらの様子を見守っていたガルシャも嬉しそうに微笑む。
「そんなに美味しいんですか?!ならばわたしも一口」
ここまで幸せそうな顔をされると、ますます腹が減ってしまうではないか。火傷をしないようにだけ注意しながら肉汁で指が汚れるのも構うことなく、口の中へと肉を運ぶ。
「美味しい……。鄙びた場所にある癖に料理は一級品ですねっ!」
「……余計なことを言いやがったな嬢ちゃん」
ガルシャが不貞腐れた顔になる。
「自分で言うのもアレだが、料理のウデには自信があるんだがな、如何せん立地が悪くて人が全然来ねぇんだよ」
「メインストリートから思いっ切り外れていますし、ここまで来るついでがありませんもんね。そりゃあ誰も来ませんよ」
「そうか。今なら満点の星空が観られる追い出し野宿コースっていう、とってもお得な料金プランがあるんだが、そっちに変更してやろうか?」
「ごめんなさいごめんなさい野宿は勘弁してくださいいっ!!」
セレンとガルシャが歓談している間に完食。フィンガーボウルで指先を洗った後に申し訳なく思いつつ指と口元の汚れをテーブルクロスで拭う。
「そもそもの話、どうしてこんな立地の悪い場所にお店が建っているんですか?」
メインストリートから外れた道にあり、辺り一面は背の低い平原と未開拓しかない場所。
お世辞にも好立地とは言えない場所だ。
「ちょっとした理由があってな。オレはここから離れられねぇんだよ。……そんなことより嬢ちゃん。時間も遅いことだし、そろそろ寝ようぜい。続きはまた明日話してやんよ」
周りに遮るものがないため、遠くからでも時間を告げる鐘の音がしっかりと聞こえる。空の暗さと鳴らされる鐘の数から判断すると、21時を告げる終課の鐘か。
「ありがとうございました。とても美味しかったです」
「ん。じゃあ、飯代と宿代を合わせて40ルーロな」
後で知ったが、1ルーロがだいたい25円くらいなので、40ルーロとなると1,000円くらいである。これだけの質の料理が食べられて、しかも一泊できるというのであれば、日本人の絵理華の感覚からすれば破格値だ。
「だってさセレン」
「だそうですよ絵理華さん」
「「…………」」
顔を白くしながら互いに顔を見合わせる。
「い、異世界でも何不自由なく暮らせるようにするって、ゼロスト様は言っていたよね……?そこに金銭的事情は含まれないの…………?」
「やだなあ絵理華さん。わたしは天界の住民ですよ?人間界のお金なんて持っているわけないじゃないですか?」
「つまり、てめぇらは無銭飲食無賃宿泊する気満々だったと……」
びくり、と肩を跳ね上げさせながら男の方を恐る恐る見る。
「これは、野宿よりも挽肉になってくれた方がありがたいかもしれねぇなあ」
と、調理道具と一緒に壁に吊るされていた戦棍を握りながら肩を怒らせていた。
「ご、ごごごごごごごめんなさいいいっ!!!二人ともこちらの世界に来たばかりで、お金を全く持ってなかったんですう!!」
「何ぃ?」
ことん。
ことん。
戦棍のグリップをしっかりと握り、木でできた板を張ったエントランスを靴音を鳴らしながら歩くと、
「ということは、お前たちは冒険者なのか?!お代はいらないから、明日になったら旅の話を聞かせてくれよっ!!」
瞳をキラキラ輝かせながら明るい声を発した。
「「…………えっ?」」
挽肉にされると思っていたので呆気にとられる絵理華とセレン。
自身が住んでいるコミュニティとは別の情報を持って来訪する旅人は、特に中世初期頃においては非常に歓迎され、三日の間は客人として丁重にもてなす文化があったという。
この場所で一人で生活しているガルシャにとって、他人から知らない情報を受け取ることは、お金よりも価値のあるものなのだ。