過ぎ去りし日とよすがの太陽
今になって思い返せば、いつも努力しているつもり、周囲から求められる振る舞いをしているつもりになっていた。けれど蓋を開けてしまえば中身は空っぽで薄っぺらい。だからだろう。そんな中身を彼に見透かされて、あろうことか彼の未来を奪ってしまった。
第一王子エトムントとの婚約が正式に結ばれたのは二人がまだ五歳だった頃。二人が生まれた時から内定していたらしく、話はとんとん拍子に進み、気付けば彼女達は婚約していた。最初は良かった。お互い幼く世間知らずで、狭い世界に居たから。けれどそれぞれ交流の幅が広がり始めた時から、それは起きていた。最初の違和感は手紙だった。エトムントの筆跡と酷似していたが、微妙に癖が違う。内容も定型文を写したような温度の無いものだった。次は贈り物。装飾品もドレスもイルマの好む色やデザインとは正反対で、貴族令嬢が好みやすい流行の物ばかりになった。イルマは流行りの物より自分に似合う物を身につけたいのに。
ある日、定期的に行われるお茶会でエトムントに問われた事がある。それにどう返したのか覚えていないが、彼の気に入る答えでない事は、次の瞬間のエトムントの表情と言葉でひしひしと伝わった。『君は、役目を熟すだけなんだな』。それきり、その日のお茶会でエトムントがイルマに話を振ることは無かった。十歳の秋、二人は完全にすれ違ったのだった。以来彼の対応は素っ気なく、人前では婚約者を愛する王子を装ってくれるが、二人だけの時はとても冷淡でイルマは困惑しきってどの様に振る舞えば良いのか分からなかった。何がこんなにも彼を怒らせ不快にさせたのか、皆目見当もつかなかったから。
「私は、殿下の婚約者として正しい振る舞いをしていますわ」
「…。ああ、そうだね。君は『完璧』だよ。でもそれだけだ」
父親譲りの碧眼を忌々しそうに眇めて冷たく吐き捨てられる。冷え切った関係のまま十六歳になった頃、イルマはエトムントのちょっとした振る舞いから、彼に浮気相手がいる事を知った。が、彼から向けられる無機質な目を思い出してはそれを咎める事すら出来ない。そうしているうちに、相手の令嬢が嫉妬を募らせてとある伯爵家のお茶会で彼女のドレスに紅茶を勢い良くかける蛮行に出た事で、エトムントの不誠実と二人の不和は王家と両親の知るところとなってしまった。婚約が白紙となった日の夜、父から言われた言葉がある。
『言われたことを言われた通りにやるだけなら子供にも出来るのだ、イルマ。お前はいずれ王子妃となるはずの身。求められている以上の振る舞いをしなければいけなかった』
その言葉の意味と自身の何処に非があったのか、イルマはもうずっと考え続けている。
イルマにとってヴィルヘルムは太陽の様な存在だった。明るく溌剌とした笑顔を見るだけで、重く澱んだ心が軽くなる。そうしてつい秘めておかなければいけない胸の内を零した事もある。未来の姉と弟として数は多くないものの交流を重ねた彼との婚約が整うと、イルマとヴィルヘルムは大人達に交流を深めろと言わんばかりに中庭に放り出された。
帝国と王国、二カ国の高貴な血を引く彼の立場があまり盤石でない事に気付いたのはいつからだったか。彼に流れる帝国の血が、王国に波乱を呼ぶのではと遠巻きにされているのだ。父親も、侯爵として第三王子との関わりには気を遣っていた様に思う。
(だからドロテア様はあまり公に姿を現さないのね。貴族達を無闇に刺激しても、良い事は無いから…)
『母様は面倒臭がりなんだ』と過去にヴィルヘルムが笑いながら話してくれたが、あまり目立つと自身だけで無く我が子の立場まで悪くすると危惧しての事だろう。黙したまま並んで歩くヴィルヘルムに視線を向ける。こうしてきちんと着飾った彼は、容姿の美しさも相まって芸術品の様だった。イルマの視線に気付かずに前を向いて歩く彼の横顔は強張り、唇はぎゅっと引き結ばれている。心なしか顔色も良くない。イルマはそっと視線を外して僅かに俯く。
ヴィルヘルムには悪い事をしたと思っている。彼を取り巻く環境をものともせず無邪気さと純粋さを失わずにいたのは、側妃ドロテアの努力と亡き第二王子の存在が大きいのだろう。彼が望まぬ地位に引っ張り上げられ重責を背負わされているのは、イルマの所為でもあるのだから。きっと『イルマ義姉様の所為じゃ無いです』と言って笑うのだろう。けれど、そう言われた所でイルマの気が晴れる事は無い。
途中ヴィルヘルムに現状に納得しているのか尋ねられたが、イルマにとって王子妃は幼い頃から課せられた『役目』だ。役目は果たさなくてはいけない。
「…そうですか。遅くなりましたが今度は婚約者としてよろしくお願いします。もうそろそろ帰る時間ですよね。馬車まで送ります」
「あ…は、はい。お願い致しますわ」
ヘーゼルの瞳を苦し気に揺らしてイルマを見つめていたヴィルヘルムが、一瞬だけ苦い顔をして──貼り付けた笑みを浮かべた。
その笑みが人前で自身に向けられていたエトムントの笑顔と重なって、心臓が嫌な音を立てる。侯爵家の馬車まで辿り着く間にもぽつりぽつりと言葉を交わしたが、彼女が『太陽の様な』と称した笑顔は最後まで見る事は叶わなかった。