遠のいた二人
第一王子エトムントとシュワルツ公爵家長女イルマとの婚約が解消され、第三王子ヴィルヘルムと新たに婚約が決定して早一週間。お互いの予定を調整し、この度調印式当日となった。
「とは言え、兄様の婚約者だった頃に何度か顔を合わせているから互いに知った顔ではあるんだけど…」
偶然城内で会った時に多少言葉を交わす程度の間柄だが。それでも互いの趣味嗜好は知っている。改めて会った所で新鮮さがあるかと聞かれれば、彼は否と答えるだろう。しかし緊張していない訳ではない。なんせ、これまでヴィルヘルムにとってイルマは未来の王妃、そして義姉だった。当然自身のパートナーとして考えたことは無い。果たして仲良く出来るだろうか。侍女達にああでも無いこうでも無いとめかし込まれながら、ヴィルヘルムは緊張と憂いを晴らすようにそっと息を吐き出した。
調印式自体は簡単だった。厳かな雰囲気の中、国王と宰相、シュワルツ公爵を始めとした有力貴族達に見守られながら婚約を結ぶ両名が羊皮紙にサインすればいい。何事も無く調印式を終えて婚約者となったヴィルヘルムとイルマは、現在お互い無言で王城の庭を散策していた。
「………」
「………」
横目で隣を歩くイルマをそっと盗み見る。ヴィルヘルムとあまり変わらない身長にアッシュグレーの巻き毛を丁寧に結い上げ、白皙の肌に青いドレスを着こなした美しい令嬢は、僅かに俯いていてその明るい緑の双眸を見る事は出来ない。彼女の心情を慮ればこそ、その様子も然もありなんと思い直す。
イルマ・フュルスト・フォン・シュワルツ。生まれた時からエトムントの婚約者として育てられた完璧な淑女。そんな彼女は今、エトムントの失態に巻き込まれて周囲の下世話な視線に晒され、最近は特に塞ぎ込みがちらしい。一度手紙を書いたが、聡明な彼女らしくない後ろ向きな返事がきた。手紙ではヴィルへムルとの婚約を嫌がっている様子は無かったが、本心は果たして。とは言えこの婚約は取り消せないし、このまま二人して押し黙ったままでいる事も出来ない。胸中に渦巻く憂いをイルマに気付かれない様に吐き出すと、気を取り直してイルマに声を掛けた。できうる限りの優しい笑顔を心がけながら。
「イルマ義姉様、お疲れでは無いですか?少し先にガゼボがありますから、そこで…」
「イルマですわ。殿下」
「──え?」
久しぶりに聞いたイルマの、記憶しているものより固い声が遮る。驚いて彼女を見やると、先程はちっとも見えなかった緑の目を緊張と不安で揺らしながら、イルマが此方を見上げていた。桃色の唇がそっと開かれる。
「…もう貴方の姉ではありません。イルマと、そうお呼びくださいまし」
「……、………っ」
ひゅっと喉の奥で引き攣った音が鳴る。その言葉は未だに事態を受けとめ切れていなかったヴィルヘルムの頭に、殴られたかの様な衝撃を与えた。愕然としたまま凍り付いてイルマを凝視するヴィルヘルムだったが、彼女は視線を合わせたままで何も言わなかった。当人から関係の変化を告げられて動揺したまま、ヴィルヘルムは震える声を絞り出す。
「貴方は、それでいいのですか。此度の件について、本当に納得されているのですか。イルマ、貴方は…王子妃にも、王妃にもなりたい訳では無いのでしょう…?」
何時かの日に彼女が吐露した小さな本音。それを覚えていたからこそ、それから解放されたイルマがヴィルヘルムと婚約したことにひどく驚愕したのだ。第一王子との婚約が無くなった事に関しては、全面的にエトムントが悪い。公爵や王に王族との婚約は嫌だと訴えれば、経緯を知る二人は強く言えなかっただろうに。そんな思いを込めて問いかければ、眼前の少女はこの日初めてヴィルヘルムの目を真っ直ぐ見つめて見惚れる程柔らかく美しい表情で笑んだ。
「私は、私に求められた役目を理解しておりますわ」
『役目』、と口の中で言葉を転がす。以前の彼女も良く口にしてはため息を吐いていた。そうして諦めきった境地で、イルマはエトムントの時と同じ様に微笑みながら、自分の隣に立つのだろうか。ヴィルヘルムには理解できない。彼は母に倣い貴族社会とは程よく距離を置いていて、他者の都合に振り回されて自身の心を殺した事が無かったから。イルマがどれ程の思いでその言葉を紡いだのか、想像すら出来ない。
思考とは裏腹にじわじわと広がる寒気を押し隠して、ヴィルヘルムは無理矢理明るい笑顔を見せた。自分の胸中に勘づかせない様に。
「…そうですか。遅くなりましたが今度は婚約者としてよろしくお願いします。もうそろそろ帰る時間ですよね。馬車まで送ります」
「あ…は、はい。お願い致しますわ」
ヴィルヘルムの笑顔を見て固まっていたイルマだったが、差し出された手にはっとして自身の手を載せる。その手がほんの微かに震えていることには気付かない振りをして、彼は再び歩き出した。無理に話を切り上げた事に気付かれたが、それに構う余裕は無い。早く彼女との会話を終わらせたかった。
兄の婚約者であった時はなんの気負いも無く笑って言葉を交わせていたのに。彼女の気持ちを考えて気遣おうとか、仲良くなろうなんて次元では無い。何かが徹底的にすれ違っている。
何故だろう。久しく会っていない長兄の顔が脳裏に浮かんだ。