変わる環境、追いつけない心
それから程なくして、ヴィルヘルムの住まう王子宮は慌ただしくなった。立太子はまだ先だが、元王太子の婚約者との婚約と王位継承権第一位という肩書きは、彼の予想以上に彼の王城内での立場をあげたらしい。護衛する騎士の増員に、使用人達の見直しと配置換え。勉強も今まで以上に帝王学を学ぶ時間が増えた。
勉強の合間に王城の庭に息抜きに来たヴィルヘルムは、思わずため息をついた。じっと座って受ける勉強は苦手だ。剣術も最低限身を守れる位でしかない。社交は好きだけど、その裏を探るのはまだ難しい。魔術だって亡くなった次兄には遠く及ばない。ヴィルヘルムはそっと左耳についた飾りに触れる。繊細な装飾の台座に嵌められたピンクダイヤモンドは、結晶化した次兄の魔力だ。かつて、兄からお守りとして渡されたそれを、耳飾りに加工したもの。いつも穏やかな笑みを絶やさなかった、病弱だった桃色の髪の次兄に、幼いヴィルヘルムはよく懐いていた。
「──ヨハン兄様…僕、本当にちゃんとやっていけるのでしょうか………?」
呟くと不意に泣きそうになって、慌てて唇を噛み締めて目をきつく閉じる。環境や周囲の態度ばかりがどんどん変わっていて、渦中に居るはずの自分はその変化に全く追いつけていない。それに対する焦りで、ヴィルヘルムは知らず知らずのうちに精神を疲弊させていた。
そんな彼の後ろ姿を、物陰から睥睨している人物がいるとも知らずに。
夕刻になって漸く勉強から解放されたヴィルヘルムは、メイドに紅茶を入れてもらうとぐったりとソファーに倒れ込んだ。
「ぅう…知恵熱出そう…」
晩餐の後は今日習った事の復習をして、分らなかった所は調べて…ああ、イルマ義姉様に手紙も書かないと…。目を閉じたままこの後のタスクを頭に浮かべていると、扉の向こうから少年の声で呼び掛けられた。
「ヴィルヘルム兄上。いますか?いますよね?ダミアンです」
「ダミアン?」
のろのろと上体を起こして扉を見やる。連絡も無しにやって来た弟に疑問を抱くも、取りあえず彼を招くことにした。本当は家族と言えどマナーがなってないと眉を顰められる行為だが、ダミアンが非常識なのを分って敢えてそうしている事を知っている。言うだけ無駄というやつだ。入室を許可してやると、言葉を終える前にダミアンが入ってきた。
「お久しぶりです兄上。ふふ、前お会いした時より顔色悪いですね。もしかして、もう根を上げているんですか?」
「…そんな事は無いよ」
よく手入れされたプラチナブロンドに愉悦に歪む赤い瞳。ヴィルヘルムの一つ下の弟王子は、許可無く対面のソファーに座ると何処か此方を見下した様な目線でからかってきた。
現国王には五人の美しい妃がいる。筆頭公爵家の娘で第一王子エトムントと第五王子ハンネスの母、正妃ローザリンデ。世界征服を目論む大国リウィナ帝国の元皇女、第三王子ヴィルへムルと第二王女エーファの母、側妃ドロテア。西にある小国ポトビア公国の末姫で第二王子ヨハン、第三王女ヒルデガルトの母、側妃マルティナ。リーグル辺境伯家一の野心家で第一王女エルナの母、側妃ゾフィ。そして、財力だけなら下手な公爵家より豊かなバルテル伯爵家の贅沢を愛する第四王子ダミアンの母、側妃ヴィクトリア。五人とも政略的な理由による婚姻だが、父は正妃とドロテア、マルティナとは上手くやれているらしい。子供の数からも分るだろう。
紅茶を飲みながら目の前の弟に視線をやる。『成金伯爵家』と揶揄されるだけあって、帝国の後ろ盾があるヴィルヘルム親子よりも彼等親子の装いは華美だ。贅沢すぎる、ともいう。王家と言えど予算に限度はある。全ての妃と子供達を国家予算で養える訳ではない。妃達が主催して開くお茶会も、彼女等が身につける服飾も、大体は実家から金を出す。こうして見ると、伯爵家は相当な金額を二人に使っているらしい。
(まぁ、それほど必死なんだろうな。ヴィクトリア様はその浪費癖もあって、父様と折り合いが悪いし。王城内で派閥を広げたい伯爵家が金をばらまいてるんだろう)
「今日もいきなりだね。用件は?」
部屋の隅で気配を消していたメイドが、素早くダミアンに紅茶(ヴィルヘルムの誕生日に叔父から贈られた帝国産の茶葉使用)を出す。王国の紅茶には無い独特の香りが広がる。
「いいですよねぇ兄上は。俺より帝王学の進みが遅いくせに、帝国の後ろ盾があるってだけで王になれて。今頃皇帝もドロテア様も大喜びなんじゃ無いですか?」
「っ──!!」
弟の言い草に、ヴィルヘルムは音を立ててソーサーにティーカップを置いた。
「僕の帝王学の進みが君より遅いのは事実だ。でも、母様は僕が皇帝になるのも、王になるのも望んでいない。滅多なことを言わないでくれ」
「それって皇帝は違うって事ですよね。…あーあ。十四歳も十三歳も大して違わないのに。皇帝様々ですね兄上?」
兄を煽ってやったことがそんなに嬉しいのか、下卑た笑みを浮かべるダミアン。ヴィルヘルムはぐっと押し黙る。だが、彼の言うとおりなのだ。頭の出来で言えば、悔しいがダミアンの方が上。年も近い二人だが、ヴィルヘルムが王位継承者に選ばれたのは、生まれた順と血筋、王宮内での派閥の力に他ならない。そこまで考えて、ふとある考えに思い至る。
「ダミアン、もしかして…王になりたいの?」
「はぁあ?」
晴天の霹靂だと想いながら問いかければ、ダミアンがしかめっ面で顔を歪める。だって国王だ。贅沢は出来るが、それは重い責任を果たすからであって、王個人の自由は無い。仕事も婚姻も国内外のバランスを考えて采配しなくてはならないのだ。
(そんな面倒臭いものに僕はなりたくなかった。だって僕は、本当は……)
「呆れた。今気付いたんですか?そうですよ。俺は貴方が邪魔なんです。だって、俺が王になれないじゃん」
さっと立ち上がって踵を返し、呆然と自分を見上げる兄を肩越しに嘲笑うダミアン。
「それじゃあね。精々お勉強頑張ってよ。じゃないと、血筋だけの兄上なんて、俺が蹴落としちゃうんだからさ」
ダミアンが出て行った扉をぼんやりと見つめる。
変わってしまった。自分を取り巻く環境も、周囲の目も。弟妹との関係も。