第六話
「例えば、この病室に重い病を抱えた子が入院していたとしましょう」
例え? と聞き返しそうになったけど、真剣な輝子の様子に俺は言葉を呑み込む。
「その子は病気のせいで、甘いお菓子も炭酸の飲み物も生まれてこの方、食べたことも、飲んだこともありません。だからずっとそんなお菓子や飲み物に憧れていました。そんな時、偶然、手にした雑誌に今はやりのスイーツ『サマーアップルパイ』が載っているのを見たのです。
直感でその子は「あ、これだ!」と思いました。そう、自分が最後に食べる、いわゆる『最後の晩餐』です」
ぽかんとしている俺を一瞥してから、輝子は話を続ける。
「もう自分は長くないと気が付いていたのです。だから」
「え! 長くないって……!」
「話、聞く気ないならやめるけど」
「あ、すみません」
俺は感情を抑えて、渋々口を閉じた。それを確認すると、輝子は何もなかったように言葉を続けた。
「だから、その子は、病院を抜けだせない自分の代わりに、担当の新人看護師に頼んだのです。『サマーアップルパイとサイダーを買ってきて。一緒に『最後の晩餐』を食べて欲しい』と」
彼女はすっと俺の目の前に立った。少し泣きそうな顔をして。
「その新人看護師はアホなので、いいよ、と言ってしまいました。明日非番だから、内緒で買ってきてあげる、『最後の晩餐』も付き合うよ、一緒に食べよう、と。
でもその子に『明日』は訪れなかったのです。
約束した日の夜、病状が急変して亡くなってしまったのです。
だけど、その新人看護師はアホなので、その子との約束を守りたくて、サマーアップルパイとサイダーを買いに行きました。だけど、サマーアップルパイは売り切れで、どうしようかと途方に暮れていると、神さまのように優しい男の子が現れて、サマーアップルパイを半分、分けてくれました。おかげでアホな新人看護師は、亡くなったその子を想いながら『最後の晩餐』を食することができたのです」
そこまで一気に話すと、輝子は小さく息を吐いた。
「……もう。遅い。意味のないことだと判っているけど、約束を守りたかったのよ」
俺は深く頷いた。
意味のないこと。
それが最も大切に感じる時はある。
「悪かったな」
俺は少しだけ微笑んで言った。
「『最後の晩餐』がその子とじゃなくて、俺とだったなんて残念だったろ」
「かもね」
「あんたって本当に可愛くないな」
「可愛いだけじゃね、やってられないこともあるよ。白衣の天使としては」
と、白いワンピース……看護師の制服を着た輝子はからりと笑う。
「この病室、その子が使っていたんだけど、亡くなってから空いたままだったの。でも明日から患者さんが入ることになってね、それでベッドの用意をしていたの。……久しぶりにこの病室に入ったものだから、ちょっとね……」
少し恥じらうような表情をした後、彼女は初めて俺に気が付いたというように、唐突に態度を変えて邪険に言った。
「あ、君。部外者が勝手に入ってきてもらっちゃ困るよ。邪魔だからとっとと帰りなさい」
「ひでえなあ。判ったよ」
俺はひとつ肩を竦めると、彼女に背中を向けた。出て行こうとする俺に、輝子の言葉が追いかけてきた。
「ご縁がありますように。五円だけに」
振り返ると例の五円玉をつまんで、笑っている彼女がいる。
「何のご縁だか」
俺は手を振ると、今度こそ病室を出て行った。
☆
「ご縁、か」
思い出し笑いをする俺に、タクシーの運転手は不思議そうな顔をして質問したげな様子だったが、口から出てきた言葉は別のものだった。
「着きましたよ、お客さん」
「ありがとう」
料金を払って、タクシーを降りる。走り去る車を少し見送ってから俺は歩き出す。
車のラジオの曲はとっくに違うものに変わっていたけれど、俺の頭の中には相変わらず、懐かしい『サマーアップル サイダーガール』が流れていた。
後から思えば、レトロなサイダーの瓶をぶら下げて可愛くないことをはっきりきっぱり言う輝子こそ、炭酸はじける『サイダーガール』だったな、と。
俺は思いついて、自宅のマンションを通り過ぎ、近くの深夜営業のスーパーに足を向ける。確かあの店には売っていたはずだ。
甘いものは得意じゃないけど、アップルパイとサイダーを買って帰ろう。今度は半分じゃなくて二人分。
『スーパーのアップルパイなんて邪道よ』とまた可愛くないことをうちのサイダーガールは言うだろうけど。
おわり