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第一話

 午前中で終わるはずの会議が、空気の読めない上司の無神経発言で異様に長引き、そのせいで午後からの仕事も芋づる式に遅れてしまった。

 おかげで終電ぎりぎりの残業になり、楽しいはずの金曜日の夜が今むなしく終わろうとしている。

まだ駅まで必死に走れば終電に間に合う時間だったけれど、それも何だか癪な気がして、ちょうど会社を出たところで通りがかったタクシーを拾い乗り込んだ。

「お疲れですね」

 行き先を告げた後、盛大な溜息と共に座席に沈み込む俺をミラー越しに見て、愛想のいい運転手は微笑みかけてきた。

 人懐っこく話しかけてくる感じに、正直、ちょっとうざいな、と思いつつも営業職の悲しさで、俺はにこりと微笑みを返しながら頷いた。

「会議が長引いて、おかげで残業。今日中の仕事もあったから大変だったよ」

「折角の金曜日なのにね」

「本当だよ。また文句、言われそう」

「彼女さん?」

「残念ながら奥さん。うちの、怖いんだよ」

「またまた」

 控えめに笑った後、運転手は思いついたように言った。

「ラジオでも付けましょうか? 音楽でも聴けば心身ともにリラックスできますよ」

 それなら色々話しかけられることもないだろう。願ってもないと内心喜びながら頷くと、運転手はすぐにラジオのスイッチを入れた。

 そして。

「……これ、懐かしいなあ」

 ラジオから出会い頭に流れてきた曲に運転手は優しい声で言う。

「私が高校生の頃に流行っていた曲ですよ。お客さんも見たところ私と同年代だから知っていますよね?」

「……え? あ、うん」

 戸惑って思わず口ごもる。そんな俺の様子に気が付かないらしく、運転手は言葉を続けた。

「何ていう曲だったかな。ええっと、アップルなんとか……」

「『サマーアップル サイダーガール』」

「ああ、そうそう、それ。あと、丁度、その曲が流行っていた時に『サマーアップルパイ』っていうスイーツが女子の間でもてはやされていたでしょう? 彼女と一緒にカフェの前に二時間くらい並んだことを思い出しますよ。夏の暑い日で、たまらなくて。たかがアップルパイ食うために何やってんだかって……」

 最後の方はもう聞いていなかった。

 ラジオから流れる透明感あふれるヴォーカルの声に、俺の心はゆらゆらと頼りなく揺らいでしまう。

そして、夏の黄色い日差しの中に佇む白いワンピースの彼女の姿が、ゆっくりと脳裏に浮かび上がった。

輝子(きこ)

 その名前を呟いた途端、甘酸っぱいリンゴの匂いが俺の鼻孔をくすぐった気がした。


 ☆

 別に誰かを恨むつもりはなかった。

 交通事故ったって、自分が悪い。下り坂の道路の端を自転車でブレーキを掛けずに思い切り走らせていた。結構なスピードになっていたと思う。その時、脇をぎりぎりに市営バスが通って、その風圧で俺は転んだのだ。接触はしていなかったと思う。それでも派手な転び方をして、とっさに右手で受け身を取ったせいで複雑骨折をやらかした。

「バスに轢かれなかっただけ幸せよ。馬鹿」

 と手術が終わって病院のベッドに固定された俺に、開口一番、母親が泣きながらそう言った。

 そっか、幸せか。

 ぼんやりする頭でその言葉を繰り返す。

 包帯にまかれた自分の腕にちらと目をやって、俺は母親に聞いていた。

「……俺の右手、完治するの? 動くの?」

「動くわよ」

 母親は弱々しい笑顔で言った。

「リハビリ頑張れば、日常生活には支障はないだろうってお医者さんが言ってたわ」

「ギターは? 今まで通りに弾けるの?」

 ぐっと母親が息を呑むのが判った。何か言おうと口を開きかけた彼女を制して俺は言った。

「いいよ。どうせ趣味だし。プロになろうなんて思ってたわけじゃないし」

 嘘だった。

 夢はシンガーソングライターという奴。

 ギター片手に新進気鋭のミュージシャンになること。音楽好きの高校生が考えそうな、ありがちな夢だ。

「何か音楽、聴きたいな」

 俺がぼんやりと呟くと、慌てたように母親がベッドサイドのラジオに手を伸ばす。ここは個室だから他の入院患者を気にする必要はなくて、少しヴォリュームを上げてもらった。


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