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(7)祈り

「入れ」


 どんと牢の中に、放りこまれる。押される腕は容赦がなくて、さすがに足だけでは転ぶのを止めることができなかった。よろけながら黒い土に思い切り手と膝をついたが、心はもう痛いとすら感じることができない。牢の土は、何人もの囚人によって踏み固められていたせいで、今では土間のように黒光りしている。それでも、手をつけば、どこからか入ってきた小石が混ざっていたのだろう。


 感じた違和感に手のひらを見れば、皮膚に小石がわずかにくいこんで、赤い血を流していた。


「どうして……」


 じんじんとした痺れのようなものが手のひらから心に伝わっていく。それが、リーゼにぽつりと言葉をこぼさせた。


「どうして、こんなことになってしまったのかしら……」


 呟いても、薄暗い独房では、答えてくれる者は誰もいない。ただ、石で作られた簡素な寝床が、灰色の石で囲まれた室内に一つぽつんと置かれているだけだ。後ろには、鉄で作られた扉。また鍵をかけられているのだろう。錠前を閉めるがちゃがちゃという音が響いているが、それが終わると、完全な静寂になった。この牢の中にまでは、拷問で叫ぶ声や牢から溢れる苦悶の声は聞こえてはこない。ただ、囚人の様子見用に作られた扉の小さな窓からわずかな明かりが入ってくるばかりだ。


 だから、リーゼは、持ち上げた体をそのまま側の石の壁にことんと倒した。灰色の石は、励ます温もりも伝えず、ただ冬の冷たい空気に冷えきっているだけだ。それでも――なにかに寄りかかりたかった。


「イザーク……」


 ぽつりと言葉がこぼれる。


「どうして、私を信じてくれないの……?」


 口にすれば、ぽろりと涙があふれた。そのまま、歯止めを失ったように、大粒の涙がいくつも続いてぽろぽろとこぼれてくる。


「好きだったのに……」


 汚れて土のついた手でぐいっと涙を拭う。


「好きだったから――いつでも、私はずっと信じていたわ……」


 そうだ。周りの人が、どれだけリーゼを馬鹿にして公爵家にはふさわしくないと言っても、いつかは認めてもらえるようにと、母の知り合いに宮廷の作法の特訓をしてもらっていた。


 最近、イザークが冷たい素振りや、ほかの令嬢のサロンに出入りをしていると聞いても、きっとわけがあるのだろうとずっと信じていたのに。


「どうして……私と婚約破棄なんか……」


 ぽろぽろと涙は止めようもなく溢れてくる。


 確かに、カトリーレの言った通り、王族への暗殺を疑われた娘が公爵家の妻になるのはふさわしくないのかもしれない。


(――でも、私はあの日からずっとイザークのことが好きだったのに……!)


 服の袖で拭っても拭っても、こぼれてくる涙は収まらない。けれど、瞼の裏には、初めてイザークと出会った公爵家のお茶会が鮮明に思い出された。


 緑の木々に柔らかな初夏の風が流れ始めたばかりの十歳の頃。


「久しぶりだなあ、ベルノルト。子供ができてからというもの、領地に引きこもってしまってばかりじゃないか」


 出迎えた懐かしい旧友に、イザークの父ブルーメルタール公爵は嬉しそうに手を伸ばす。


「ああ、すまん。リーゼもまだ幼いし、弟も小さいから、できるだけ田舎でのびのびと育てたかったんだよ」


「そうか。シュトラオルスト領は小さいが、良い土地だからな」


 話によると、父とブルーメルタール公爵は、幼い頃に同じ先生に弓を習っていたらしい。その縁ですっかり仲良くなり、今でも父が宮廷の用事で都に来ると、頻繁に行き来をしていると聞いた。


「ゆっくりしていってくれ。ああ。令嬢はまだ幼いな。それなら、子供で楽しめるようにお菓子とおもちゃを集めた部屋があるから、イザークお前が連れて行ってやりなさい」


「はい」


 それが、初めてのイザークとの出会いだった。青みがかった黒髪。知的できりっと流れる藍色の眼差し。都には、こんなにも美しい男の子がいるのかと驚いたものだ。だから、公爵が息子にした耳打ちには、心臓が飛び上がるかと思った。


「いいな。リーゼは、こういうところは初めてで慣れていないんだ。だからお前がちゃんとエスコートしてあげなさい」


「えっ?」


「ははっ。女の子をエスコートできなければ、男は半人前だよ」


(そんなことを言われたって……イザーク様だって、初めてあった女の子なのに)


 無茶だわと思ったのに、目の前にはすっと白い手が差し出される。


「どうぞ」


「え……」


「父に逆らうと後がうるさいんだ。だから」


 おどけながら言われたが、本心は自分に気を遣わせないためだったのだろう。伸ばされた手にそっと小さかった手のひらを重ねると、微笑みながら歩き出された。


 だけど、都が初めてで社交儀礼も詳しくなく、ましてやイザークに手を引かれて入ってきた初対面の令嬢に、子供部屋にいた令嬢達の目が優しいはずもなく。


 挨拶をすると、すぐにくすくすと口元を手で隠しながら笑われ始めた。


「見てみなさいよ、あのドレス。今の都の流行も知らないのかしら」


「髪飾りも野暮ったいわねえ。どこの田舎の細工かしら」


 初めて投げかけられた人の悪意。かわいいティーカップに入れられたお茶を持つ手が震えてくるのを、どうしても止めることができない。


「それに、あんなに震えて。ちゃんとテーブルマナーをご存じなのかしら」


「まさか。明らかに慣れていませんって様子だもの」


 向けられた悪意にびくっと肩が揺れてしまう。


「あっ……」


 そのせいで、指の先まで走った震えにカップにかけていた指が外れて、机の上に赤いお茶を派手にこぼしてしまう。


「ごめんなさい、私……!」


「あらあら。お茶一つ満足に飲めないなんて。田舎育ちは躾一つ満足にされていないのね」


 くすくすと追いかけてくる笑い声がたまらない。だから、机の机の上を拭いてくれたメイドに頭を下げると、そのまま部屋を飛び出してしまったのだ。


 きちんとできない自分が情けなくて。自分のせいで、一緒に貶められる父や母が悔しくて。走って出た庭の端に植えられていた樫の木の陰に蹲ると、そのままわんわんと泣いた。


「なに、お茶一つこぼしたぐらいでメソメソとしているんだよ」


 すると、突然頭上から降ってきた声に飛び上がるほど驚いたのは、仕方がないと思う。


「イ、イザーク様……」


 涙を指で拭いながら振り返ると、彼はぽんぽんとリーゼの頭を撫でてくれる。そして、にっと笑った。


「たかがお茶一つだろう? それとも、生まれてから死ぬまでにお茶を一回もこぼさない人間なんているのか?」


 きっとリーゼを励ますために言ってくれたのだろう。だけど、その時の木陰に輝いた笑顔。木漏れ日を受けながら、いたずらを企むように笑う彼の笑顔はなによりも綺麗で――。


「よし行こう!」


「え!?」


「お茶会なんて退屈だろう? それより、折角都に来たのなら、博覧会の方が面白いからさ」


 そして、強引に手を引きながら笑ってくれた彼の瞳はきらきらとしていて。


(今から思えば、私はあの時イザークに恋をしたのだわ……)


「それなのに、どうしてこうなってしまったかしら――」


 涙さえも疲れてしまったように出てこない。


「神様……」


 誰も縋れるもののない状況に、ただ呆然と幼い頃からよく聞いた神の名前を呟いてしまう。


「女神ラッヘクローネ……貴女が戦いと復讐の女神なら、どうか私の無実をお示しください……」


 本当なら、公正な裁きを司る神に祈るべきなのかもしれない。だが、無実の罪を着せられ、信じていた婚約者にまで裏切られてしまったことがあまりにも無念で、ついぽろりと呟いてしまう。


 わかっている。神は姿を現さない。たとえ、現れても、それは王族の願いを神官が唱えた時だけ。それでも――――リーゼは、涙さえ涸れてしまうような悔しさに、冷え切った石によりかかりながら神の名前を繰り返してただ目を閉じた。



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