(4)気がついた真実
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
何度、目を閉じて思い返してもわからない。
ぼんやりと青い天井を見上げて、少しだけ唇を動かす。
「リーゼ……」
気がついた時には、俺の体は公爵邸の自室に運び込まれていた。あれから何日がたったのか――幾度目が覚めて、何回紺色の天蓋をみつめたのかさえ覚えてはいない。
「坊ちゃま。少しでも、お食事を」
目を覚ましているのに気がついたのだろう。ベッドの側に近づいたギンフェルンの気遣うような声が聞こえるが、今はとてもそちらに目をやるだけの気力がない。
「いらない……」
「ですが、一口でも召し上がらないと。お体が弱ってしまいます」
体が――弱る?
リーゼは弱るどころか、無理矢理首を切り落とされて殺された。挙げ句、焼かれたのに。
今は皿に置かれた肉の焼けた匂いにさえ、リーゼの最後が思い出されてとても喉を通らない。
「ほんとうに……いらないんだ……」
「ですが……」
けれど、なおも言いつのろうとしているギンフェルンの言葉は頭には入ってこなかった。
暗い天蓋に仕切られた中で、リーゼがもうこの世にいない現実を拒むように、かけられる言葉から背を向ける。
白いシーツは、沈みながら体を受けとめてくれるが、心が安らぐより先に、ぽたりと涙とこぼれた。
どうして、リーゼは殺されなければならなかったのだろう。
社交界では、いつもただ静かに笑っていただけだった。俺が無理矢理婚約したせいで、同年齢の女性からの風当たりが強かったことは知っている。それが、最初の茶会で自信を失ってしまったリーゼを、更に萎縮させてしまっていたことも。
だけど、かまわなかった。誰も――リーゼには近づいてほしくない。女友達はいいが、そこからもしその子の兄弟に彼女の良さを気づかれたりでもしたら。
もし、リーゼが俺ではない誰かを見てしまったら。
アンドリック一人だけでも持て余しているこの激情が、どんな形で彼女を傷つけてしまうのか。
「好き、だったんだ……」
誰にもとられたくはないほど。ずっと、側で一緒に生きていきたかった。自信はないが、少なくとも、婚約者としてはリーゼも俺を好きでいてくれる。いや、きっと婚約者としてだけではなく――。
だから、結婚するまでには、もう少し君へのこの不器用さも直したい。誰よりも好きだから――誰よりも愛してほしいと。きっといつか君に伝えられると思っていたのに。
「リーゼ……」
けれど、もうこの世のどこにもリーゼはいない。
たどり着いた事実に、涙が溢れてくると、現実を見るのが耐えきれないように瞳を閉じた。そのまま、何度目になるかもわからない暗闇に、意識を手放す。
「坊ちゃま……」
側に立つギンフェルンの心配そうな声が聞こえてくるが、どうしてもリーゼのいない世界を見続けていることができない。浅くまどろんでも、夢の中でさえリーゼはもう一度俺に笑いかけてはくれないのに。
現れるのは、いつも最後の絶望したような顔と、殺されていくときの必死に抵抗していた姿だ。
そして、婚約破棄を知ったあとの、俺の申し出の全てを拒んで牢へと連れ戻されていく姿。
こんなことになるのなら、どうして俺はあの時リーゼとの婚約破棄に頷いてしまったのだろう。いくらリーゼの処刑を取り消すための手段だったとはいえ……。
――本当に、あの時のカトリーレにリーゼを釈放するつもりはあったのだろうか。
夢とまどろみを繰り返していた中でたどり着いた言葉に、ふと俺は目を開いた。
部屋の中は、いつのまにか夜になっていたのだろう。誰もいない暗い室内を見回せば、窓の外ではゆっくりと空が白んでいこうとしている。静かに明るくなっていく闇を見つめている内に、靄がかかっていた俺の意識の中でも、あの時の光景が白々とよみがえってきた。
「どうして……」
何度も呟いた言葉だったのに、今だけは、違う声音でぼつりと漏れる。
「どうして――カトリーレは、あの時俺に婚約破棄を迫ったんだ……?」
カトリーレの気持ちは薄々気がついていた。だから、今まであれは、自分を振り返らない俺とリーゼへの仕返しとしか思ってはいなかったけれど。
――しかし、それをリーゼに告げた!
そうだ。やっと見開いた瞳で、白いシーツをぐっと握りしめる。
俺がリーゼの助命のために婚約破棄をしたことを。取り引きの内容を伏せてリーゼに告げた!
なんのために!? 決まっている! 俺に不信感を持たせて――怒りと悲しみで、絶対に俺からの謝罪の提案に頷かないようにするためだ!
「カトリーレ……!」
ぎりっと鳴った奥歯が噛み砕けるかと思った。
そうだ。頭の良いカトリーレに、婚約破棄を理由なく知らされたリーゼの絶望と悲しみがわからないはずがない。いや、むしろ違う理由を吹き込んだ可能性すらある。
――あいつは……初めからリーゼを殺すつもりだったんだ!
今になればはっきりとわかる。
リーゼがカトリーレを襲ったなんて嘘に違いない!
聞けば、その場を目撃した者なんて誰もいなかった。悲鳴で駆け込んだ衛兵が見たのは、怪我をしたカトリーレと側に座っていたリーゼが二人きりの姿。カトリーレの言葉と、その場の様子で、リーゼが犯人にされたが……。
もし、カトリーレがリーゼを嵌めたのだったら?
「そうだ。カトリーレしかいない……!」
助ける気が微塵でもあるのなら、少なくとも処刑を早めて、次の日の早朝に行うなんてことはしなかったはずだ!
まるで、ほかに不都合な事態が出てこないようにするかのごとく早められた処刑。一度も開かれなかった裁判。ではリーゼの処刑を決定したのは――。
『イザークにもわかるでしょう? この処刑は、私の申し出でおじいさまが許可をしたの』
脳裏に甦ってきたあの日のカトリーレの言葉に、藍色の目をこれ以上ないほど見開く。
「――――申し出た…………。お前が――――」
誰にも邪魔されずに、なにもしていないリーゼを殺すために!
脳裏にあの日のカトリーレの笑みが浮かんだ瞬間、何日も起き上がれなかったベッドから飛び出していた。
ふらつく足で衣装棚に近づいて服を手に取ると、なんでもかまわないから着替える。そして、護身用に部屋に置かれていた短剣を握りしめて、そのまま廊下へと出た。
「坊ちゃま! そんなお体でどちらへ」
階段をよろけながら下りる俺に、気がついたギンフェルンが声をかけてくるが、止まるつもりはない。
ただ、コートの内側に忍ばせた短剣だけは確かめた。
「カトリーレ……! あいつ、よくも――!」
殺してやる。なにもしていないリーゼを殺した!
必死に、弱った足で公爵邸を走り出ると厩舎へと向かう。
「坊ちゃま、そんなお体で」
愛馬を引き出す俺に慌てたのだろう。馬番がとめるが、倒れそうな体を叱咤すると、乗った馬の腹を勢いよく蹴った。
どんなことがあっても――カトリーレだけは許すことができない。お前がリーゼに行った仕打ちの何分の一かでも返してやらなければ、あの世でどんな顔をしてリーゼに謝ることができるというのか!
制止も振り切って飛び出した早朝の道は、人影もまばらだった。
今の時間ならば、王宮も人が少ない。
殺してやる! どんなことをしても!
決意を込めて、馬に鞭をあてた。そして、少しでも早くカトリーレの元へ辿り着こうと、樅の梢を回った時だった。
突然、視界に銀の粒が降ってくる。
白い、まるで世界が突如白銀に変わったかのような荘厳な光の奔流だ。
あまりの眩しさに、目を腕で押さえそうになる。しかし、持ち上げかけた腕は、壮麗な銀の光の中に立つ一つの影に止まった。そのまま、目が釘つけになる。
「リーゼ……?」
――――まさか。
首を落とされて、更に焼かれて死んだはずだ。それなのに、樅の梢の下では、まるで眠っているかのように目を閉じたままのリーゼが、葬儀の死者の服を着て立っているではないか。
「汝、復讐を求めるものか?」
荘厳な女神の声が、空間を覆う銀色の光の中から聞こえてきたのは、その瞬間だった。
そして、白いおびただしい光に包まれたこの時から、俺の残りの人生全てを懸けた復讐が始まった。




