(3)悪夢の朝
とにかく、なんとしてもリーゼの処刑をとりやめさせないと。
次の日の朝。俺は雪でかじかむ両手を息で温めながら、王宮へと急いでいた。
あまりに慌てて屋敷を飛び出してきたので、手袋を忘れてきたのだ。
足の下では、夜の間に固まってしまった雪がさくさくと冷えた音をたてている。月もない夜に固く凍てついてしまったのだろう。そんな寒さと闇を冷たい石牢の中で、過ごさなければならなかったリーゼの辛さはどれほどのものか――。
それに比べれはたいしたことじゃない。息が白くなる空気の中を、俺は公爵家の馬車から降りると急いで王太子殿下への面会を求めるために歩いた。まだ太陽は東の端にかかっているが、それでも寒い牢にいるリーゼのことを考えれば、胸が潰れそうだ。
一刻も早く出してやりたい。
絶対に死なせたりするものか!
だから、まずはなんとしてもリーゼを牢から出そうと、昨夜は徹夜で、父と交流のある貴族たちへ協力と助力を求める使者を送り続けた。母も、社交界で親しい婦人たちにリーゼの無実を訴え続け、やっと今朝、前法務大臣でもある宮廷の重鎮から、陛下へ公正な裁判の開廷を求める一筆を書いてもらうことができたのだ。
「これを王太子殿下から陛下にみせて、説得してもらえれば……!」
きっと、君を牢から出してやれる。それに、罪を犯した貴族が裁かれる場合は、身元が確かな有力貴族がいれば、身柄を預かれる制度もあると聞いた。
「リーゼ……!」
いつもの優しい笑みを思い出す。そして、昨日の最後に見た彼女の信じられないように見開かれていた瞳。
今度会えたら、まずは婚約を破棄したことへの謝罪をしよう。そして、やはり俺の結婚相手は君しか考えられないこと。事件を君が起こしたはずがないのに、無理に謝罪させようとしたことを謝って。そして――いつまでも待っているから――俺をもう一度選んでほしいことをきちんと告げよう。
だから、胸にしのばせた手紙を服の上から何度も確認しながら、王宮の玄関に続く道を急いでいた時だった。
「おい、イザーク。お前、こんなところでなにをやっているんだ」
焦ったように、後ろから長年の友人に肩を掴まれる。強引に振り向かされて驚いた。
「シャンク」
幼い頃から、よく行き来していた友人だ。伯爵家の息子で、同い年だったから、なにくれとなく気安く話す関係だったが、今そのシャンクの瞳は驚いたように見開かれている。
「もうすぐリーゼロッテ嬢の処刑が始まるぞ? なんでこんなところにいるんだ!?」
「なに!?」
思わす、シャンクの襟を両手で掴んだ。
「どういうことだ!? 処刑は二日後じゃなかったのか!?」
「予定が早まったからイザークにも知らせてくれとカトリーレ嬢が言っていたぜ? もうまもなく開始時刻らしいが」
馬鹿な!
「カトリーレはどこにいる!?」
「確か……、もう処刑場に行くと言っていたが」
聞くや否や、俺はシャンクの胸を突き飛ばすように走り出した。
「おい、イザーク!」
後ろで、慌てたシャンクの声が聞こえるが、雪に絡まる足を止めることはできない。
あの、リーゼが殺されるだって!?
幼い頃から、俺が一生を共に過ごすのは彼女だけだと思っていた!
たとえ、いつか死に別れるとしても、それは子供を何人も残して、互いに長い道のりを終えた先だと考えていたのに!
けれど刑場に走る俺の耳には、どんどんと大きくなる貴族たちの歓声が届いてくる。
雪がつもっているはずなのに、どうしてこんな朝早くに刑場に向かう人たちの姿が多いのか。
どうして、リーゼが殺されようとしているのに、みんな今から珍しい見世物でも始まるかのように、談笑をしながら、円形の処刑場へ着席していくのか。
信じられない! 殺されるのは、リーゼだぞ!?
今まで、いつも宮廷の端で控えめに笑っていた。ほかの者に、田舎育ちのことを馬鹿にされても、誰もなじらず、恨まずにいた彼女を、どうしてそんな残虐なまでの愉悦を含んだ瞳で見つめることができるのか。
嘘だ! リーゼが今から殺されるなんて!
だから、俺は灰色の階段を一気に駆け上がると、処刑場に設えられた緋色の幕の中へと飛び込んだ。
「カトリーレ!」
息は切れていたが、それでもかまわずに叫ぶ。
「どうしてリーゼを殺す!? 処刑まではあと二日はあるはずだ!」
けれど、処刑台の正面に、まるで特等席と言わんばかりにもうけられた黄金の椅子の上では、カトリーレが吹いてくる寒風にストロベリーブロンドをゆっくりと煌めかせているではないか。
「あら、イザーク」
そして、にこっと美しく笑った。
「だって、私への謝罪を断ったのですもの。もう反省するつもりもないなら、早めに処刑してしまっても同じことでしょう?」
「ここに、前法務大臣から裁判の開催を求める意見書もある! これを陛下にみせれば、きっと裁判を考えられるはずだ! だから!」
「あら。だったら、尚更今執行しないと」
ばっと胸から取り出したのに、達筆で書かれた文字を見た途端、カトリーレの瞳は酷薄に歪んだ。
「イザークにもわかるでしょう? この処刑は、私の申し出でおじいさまが許可したの。国王が臣下の意見で一度出した命令を取り下げる――そんなことができるとお思い?」
「だが!」
しかし、その時はっとした。
「リーゼ!」
見れば、開けられた銅の扉から現れたリーゼが、刑吏たちによって無理矢理刑場への階段をのぼらされていくではないか。
泣いている彼女の口には、縄が猿ぐつわのように巻かれているのだろう。声を出せずに嫌がるリーゼの体を、刑吏が縛っている縄ごと強引に処刑台の舞台に引き上げて、首切り台へとつれていこうとする。
「リーゼ!」
嫌だ、やめろ! けれど、強制的に首切り台の前に座らせたことで、どうやら刑吏たちは一度満足したらしい。
すぐに刑場を見下ろす客席の手前に、一人の男がたつと、手に持った紙を広げて読み始めた。
「罪人! リーゼロッテ・エルーシア・シュトラオルスト! オルヒデーシュヴァン大公息女カトリーレ様の暗殺を企てた罪により、ガルダリア国、国王陛下の御名において、斬首を命じる!」
――斬首!
首切り台を見た瞬間からわかってはいた。しかし、実際にその言葉を聞いた今の衝撃の比ではない。
高らかに罪状を告げる声が終わるのと同時に、後ろにいた執行助手たちが、二人がかりで両肩を押さえて、リーゼの頭を首切り台にのせさせようとする。
「やめろ! リーゼ!」
嘘だ。なぜ彼女がこんな形で、殺されなければならない。
だが、叫んだ次の瞬間だった。まるで俺の声が聞こえたように、リーゼが瞳を持ち上げたのは。
そして、まっすぐに俺を見つめる。
空色の瞳が最後に映したのは、驚愕だったのか、絶望だったのか。
――なぜ、イザークがそこにいるの?
言葉にされなくても、はっきりと語っていた瞳。ここにまで開いた瞳の空色は見えたのに、その首は次の瞬間、刑吏によって強引に首切り台へと押さえつけられてしまう。
一瞬、呆然としていたからなのだろう。
「私に逆らった罰よ。死になさい、リーゼロッテ」
そして、告げられた言葉に俺の口が今までにないほど大きく開く。
「やめろお!」
頼む。なんでもするから、やめてくれ!
それなのに、空へと掲げられた銀色の斧は、勢いのままリーゼの首に向かって振り下ろされていく。
嘘だ! リーゼが死ぬなんて!
ずっとずっと小さい頃から大好きだった。笑った顔。はにかんだ照れた顔。無鉄砲に飛び出していくから、あぶなっかしくて仕方がないのに、いつも困った人を助けられないかと考えている姿に、どうしようもなく魅了されてしまった。
かわいくて、かわいくて。好きだとうまく伝えられないほど、もどかしくて。いっそほかの奴を見ないでくれと、どれだけ懇願しようと思ったのかさえわからないほど恋をしていたのに――。
それなのに、今、そのリーゼが俺の目の前で殺されていく!
「やめろぉぉぉぉぉ!」
やめてくれ! 血を吐くような叫びだった。
だが、ドンと曇天に鈍い音が響いたかと思うと――――観客席からは、すさまじい歓声があがった。
手を伸ばして、一番手前の席まで走ったが間に合わない。
嘘だ……。
リーゼの体から、ころがり落ちたクリーム色の髪がなにを意味しているのか。
どうして、リーゼの体からあんなに血が溢れているのか。
――嘘だ!
けれど、刑吏は転がり落ちたリーゼの頭を鷲掴むと、見開かれた空色の瞳を寒風の中に掲げたではないか。
――――――嘘だ!
「イザーク?」
不思議そうに、そして面白そうにカトリーレが尋ねている。だが、俺の足はもう特別桟敷から飛び出すと、灰色の石段を一目散に舞台に向かって駆け下りていた。
あれはなんだ?
どうして、今リーゼの首が、空中に掲げられているんだ。あんなに血を出しながら――
嘘だ! 信じたくない!
今、首を繋げれば、まだ生き返ることができるかもしれないのに!
「リーゼ!」
駆け下りて、少しでも届かないかと必死に伸ばした手は、けれども刑場の舞台に入る手前で、気がついた兵たちによって止められた。
「離せ! リーゼが!」
リーゼが! このままでは、死んでしまう。
頼む。悪魔に魂だってやるから! 彼女がもう一度笑いかけてくれるのなら。
「規則です。お立ち入りは禁止されていますので」
そんなことを言っている場合か。なのに、先ほどまで開いていたはずのリーゼの瞼はもう下がり、掲げられた首は恐ろしい勢いで人形のように白くなっていく。
「離せぇぇっ!」
「それに危のうございますから」
そのまま兵に止められてもがく俺の前で、リーゼの切断された遺体には、油がかけられていく。
なにをする気なのか。
「本当によいのですか?」
「ああ、命令だ」
その疑問は、次につけられた火で、全てがわかった。
目の前で燃えていく白いドレス。柔らかかったクリーム色の髪には赤い火の手がすぐにつき、ちりちりと彼女の美しかった姿ごと全てを赤い炎で舐め尽くしていく。
「リーゼ!」
肉の焦げる生々しい匂いがした。
あの日、俺と初めてのキスを交わした彼女が身に纏っていた白いドレスも、優しかった彼女の笑みも、全てがすさまじい業火と黒煙の中へとのみこまれていく。
どれだけ彼女を火の中から助けようともがいたか。必死に手を遮る兵たちの槍の奥から伸ばしたが、リーゼの白かったはずの手は、紅蓮の中で焼けただれて黒い炭になっていく。紅い炎の中で、ぽろっと崩れた黒い指を見た時――――兵ともみ合っていたはずの俺の意識はふっと消えた。