(2)契約の重荷
牢からリーゼを連れてくると言ってカトリーレが立ち上がってから、どれくらいの時間が過ぎただろう。
遅い!
孔雀石で作られた暖炉の上でこちこちと鳴り続ける時計の針は、一体もう何周回ったのか。
爪を噛んで金色の荘厳な扉を睨みつけるが、閉まったままのそこにはまだカトリーレが戻ってくる気配はない。
衛兵に指示をして、リーゼを牢から連れてくるだけだというのに。どうしてこんなに時間がかかっているのだろう。
まさか――もう、歩けない体にされているのだろうか。
思わず考えた言葉に、脳裏に嫌な記憶が渦巻く。
一度も見たことはないが、以前叔父から聞いた話では、反逆を企んだ死刑囚は全身が切り刻まれていたそうだ。指がなくなり、両手足と顔は焼きごてで皮膚がただれ、ふらつきながら刑場に引き出されていく姿は、生きながら死臭が漂っているようだったと聞く。
まさか、もうリーゼも……。
残酷な想像ばかりが、脳裏に浮かぶ。
まさか!
慌てて首をふって、頭の中に浮かびかけたリーゼのむごたらしい姿を否定した。
まだ、殺されてはいないはずだ。だが、もし目を抉られていたら――。両手足の指を全てなくして歩けないのだとしたら。
嫌だ。リーゼがそんな目にあっているかもしれないなんて。思っただけで、心の中が焦りでいっぱいになる。
どうして、自分が衛兵と一緒に牢に行ってはいけなかったのだろう。
最悪の想像ばかりが膨らんで、息さえもできない苦しさで胸がいっぱいになった時だった。
「カトリーレ様のおなりです」
扉を守る衛兵が告げる声に、はっと顔を上げたのは。
そして、ゆっくりと開いていく金の扉の向こうには、燃え上がるようなストロベリーブロンドが現れる。ゆっくりと巻いた髪を揺らしながら、赤い靴でこつこつと大理石の床を踏む様子はまさにほかを圧する威厳だ。部屋に入るに従い、緋色の絨毯に音を吸い込まれていくのでさえ、無音の威圧に感じられてしまう。
けれど俺の目は、すぐに、カトリーレの後ろから現れたクリーム色の髪に吸い寄せられた。
「リーゼ……」
いた。間違いがない、リーゼだ。
「イザーク……」
空色の瞳が俺の姿をみつけて、呆然としたように開いていく。
もう、それだけでたまらなかった。
生きていた。よかった、リーゼはまだ無事だ。
だから、呼ばれた名前を聞いた瞬間たまらずに駆け寄った。昨日の夜会で着ていた白いドレスは、牢の中にいたせいだろう。ひどくしわくちゃになってあちこちが土で薄汚れていたが、目の前に立つリーゼには、いつも俺を見つめて笑いかけた空色の瞳も、よくクッキーを差し出してくれた白い指も全てが揃っているではないか。
それになによりも生きている!
だから、抱きしめた瞬間、腕から伝わってきたぬくもりが、涙がこぼれそうなほど嬉しい。
「よかった……! ひどいことはされていなかったんだな」
だから、何度も何度も指でリーゼの髪を撫でた。牢にいたせいで、優しいクリーム色の髪はぼさぼさになっていたが、それでもいつもと変わらない柔らかさだ。
いつまでも、このまま撫で続けていたいほど。
けれど、少しだけ胸の中でリーゼは空色の目を見開いた。そしてそっと俺の胸を押し返すと、まるでためらうかのように顔をあげる。
「イザーク。私との婚約を破棄したと聞いたのだけれど……それは本当?」
なっ!
咄嗟に目を開き、側に立つカトリーレを見つめる。けれど、まるで面白いいたずらを成功させたかのように、カトリーレはくすくすと笑っている。
あいつ!
一瞬で、俺の顔から血の気が引くのがわかった。
わざとあのことをリーゼに伝えやがった!
リーゼが大変な今、俺が見捨てたかのように思わせるために。
指の先が、怒りと焦燥で震えてくる。
どうすればいい!? だが、リーゼにカトリーレとの約束を話すことはできない。
処刑がかかっているんだ!
だから、俺は唇を噛みしめながら、ゆっくりと怒りで震えている指を握りこんだ。
「……本当だ。お前との婚約は、今日限りで解消した……」
だが、リーゼの顔をまともにみられない。視線を逸らしてしまうのは、どうしても罪悪感がこみ上げてくるからだ。けれど瞳を逸らした俺に、リーゼは信じられないというように顔をあげた。
「どうして!?」
「一分」
けれど、後ろでくすっとカトリーレの笑う声が響く。
――だめだ、今は時間がない!
「それよりも!」
だから、がしっとリーゼの肩を両手で掴んだ。
「カトリーレに謝罪するんだ!」
「えっ!?」
あまりに突然で、俺の言った意味がわからなかったのだろう。リーゼが大きく空色の瞳を瞬くが、もうあまり時間がない。
婚約破棄の件なら、リーゼが牢から出れば、何度だって謝ってやる。たとえリーゼが平民におとされたって、君以外は決して妻にむかえないと誓ってもいい。
だから!
「このままでは君がどうなるか! 王族の殺害を企てたなんて思われたら、死刑にされるかもしれないんだぞ!?」
「死刑――」
ごくりとリーゼが息をのんだ。
そうだ。君がやっていないことなど――カトリーレを殺そうとしたりしていないことは、ほかの誰よりも俺がよく知っている。きっとなにかの間違いなのだろう。なにかの事故で、そんなふうに身に覚えのない嫌疑をかけられてしまったのかもしれない。
だから!
「今謝れば罪も減じられる! だから!」
だから。頼む、――どうか、謝ってくれ。どんなに不本意でも、死刑さえ回避できれば、あとは俺がもてる力の全てを使っても君だけは幸せにしてみせるから。
「二分」
けれども答えないリーゼの代わりに、孔雀石の暖炉に置かれた時計を見つめていたカトリーレがくすっと笑った。
こちこちという音と共に、重たい沈黙が流れる。しかし短い静寂を破ったのはリーゼの声だった。
「ははっ……」
乾いた笑い声が、息がつまるような部屋の中に響いていく。そして、リーゼの空色の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。一粒。そして、続けていくつもの涙がまるで水晶がこぼれるようにぽろぽろと連なって落ちていく。
「リーゼ……」
あまりの透明さに呆然としてしまう。けれども肩に置いていた俺の手は、一瞬でリーゼによって振り払われた。そして、常にない強さの瞳できっと見上げられる。
「私はカトリーレ様を刺したりなんかしていないわ! どうしてイザークまで私を信じてくれないの!?」
「リーゼ……!」
まずい! 違う、そうじゃないんだ!
だが、後ろでは楽しそうにカトリーレがこちらの様子と時計の針とを見比べている。
「君を信じていないわけじゃない! だが謝罪するんだ! そうすれば君の罪も軽くなる!」
もう時間がない。針はあと三十秒もないだろう。それが今残されたリーゼが生き続けるための時間だ。
「罪?」
けれど、リーゼは逆に目を見開いた。
「私を信じているのなら、どうして婚約を破棄したの!?」
言えない――取り引きをしただなんて。いや、言ってもかまわないのなら、どれだけ今打ち明けたいか。
この婚約破棄は俺の本意ではない。そして一言謝罪さえすれば、君の命は安堵されるのだと。
けれど、告げればその瞬間にリーゼの命は刑場に行くのに決まってしまう。
しかし答えない自分に絶望したのだろう。リーゼの瞳が、まるで泣くように歪んでいく。
「私が邪魔になったから!? だから別れたいの!?」
違う。なのに、理由を言えない。
――俺は、ずっと君だけが好きだった。過去も今も。だから未来も一緒にいたいのに、今だけは本心を告げることができない。
こんな時――自分がもっと器用だったら、リーゼにうまく話せたのに。嫉妬も独占欲も、全てを不器用な婚約という形でしか表現できなかった俺のせいだ。
けれど、なにも答えない俺に、一瞬リーゼの顔が叫ぶように歪んだ。そして、ゆっくりと顔からわずかな希望さえもが、抜け落ちていく。
そして絶望のように深い沈黙が下りた。時間にすればたった一秒にも満たなかっただろう。
しかし、目に見えないなにかが二人のあいだに亀裂として走ったような気がした。
絶望のような静寂。それを破ったのは、さえずるように楽しげなカトリーレの声だった。
「三分。衛兵達、リーゼを牢に連れて行きなさい」
扇を持ち上げて微笑むのと同時に、リーゼの両腕はまた後ろにいた衛兵達によって拘束されてしまう。ここに来た時と同じように。
やめろ!
頼む。
「待ってくれ! リーゼ、とにかく謝罪を! 頼む、カトリーレに謝ってくれ!」
手を伸ばしたが届かない。前に立ちはだかった衛兵が、無理に俺をリーゼから遠ざけようとする。
嫌だ。また、俺からリーゼを奪わないでくれ。
しかし、衛兵によって後ろに手を回されたリーゼは、もう俺のことを見なかった。
「やめて! ……イザークだけは、信じてくれると思っていたのに……」
蚊の鳴くような小さな声に、どれだけ俺の言葉がリーゼを失望させてしまったのかを知る。
嫌だ。行かないでくれ。
君を嫌いになったから、婚約を破棄したわけじゃない。ずっとずっと――君と生きていきたいからこそ。
「リーゼ!」
けれど、部屋にはカトリーレの残酷なまでの笑い声がくすくすと響く。そして、緋色の絨毯の先にある扉は、ばたんと二人の間で閉ざされてしまった。