(7)罠
隠れていた像の影からカトリーレ達のところまでは、ほんの五メートル。走れば、今入り口に向かった大司教達が呼んだ衛兵が、長い回廊を駆けつけてくるのよりも、早くに切りつけることができるはずた。
だから、胸の前でカリーの短剣をまっすぐにかまえて握りしめる。剣の扱い方など知らない。小さい頃から、使ったことがある刃物と言えば、せいぜいが包丁か果物ナイフぐらいだ。
(――でも、刃物ならば刺せば致命傷を与えることができるはず!)
どうしても。
どうしても、カトリーレだけは許すことができない!
自分を殺し、王位を餌にしてイザークを自分から奪った! そうだ、全てはカトリーレが起こしたことなのだ!
(憎いわ! あなたが!)
生まれてきてから今まで、これほどの憎悪を感じたことがあるだろうか。
「カトリーレ!」
だから初めて呼び捨てにした名前を叫んで近づくと、渾身の力で短剣を頭上に掲げた。
そのまま赤い花嫁ドレスに包まれた白い胸に向かって両手を振り下ろそうとする。剣の切っ先が、窓から入る光に白く輝いたまま、胸に刺しゅうされた銀の薔薇に向かって吸い込まれていこうとした。
けれども、切っ先がもう少しで胸に届くと思われた瞬間、立っているカトリーレがふっと笑ったのだ。
そして、身につけていた金色のベールを手にとると、その端を遮るようにリーゼとの間に広げたではないか。
「こんなもの!」
ナイフならば切り裂けるはず! だから、そのままベールごと突き刺そうとしたのに、なぜか刃先は胸の前で止まった。
「くっ!」
押すのに、金のベールを突き破ることができない。
「なによ、これ!?」
「甘いわね、まさか私がおとなしくあなたに殺されてやるとでも思っていたの?」
金属だ。一見繊細な金糸で編まれたベールに見えるが、よく見れば刺繍に見えた花模様には幾つもの金属の板が縫いつけられ、刃物の先端がベールの内側に食い込むのを防いでいる。
「くっ……!」
だから一歩後ろに下がると、リーゼは急いで体勢を変えた。息はさっきより苦しくなっているが、止まることはできない。
(まさかこんな用心をしているなんて……)
痛む胸を押さえながら、急いでカトリーレの姿を見つめ直す。
ならば、体がベールで邪魔をされていない場所を狙うしかない。だんだんと荒くなっていく息を必死に押さえながら、瞬時に目の前に立つカトリーレの様子を観察する。そして短剣を握り直した。
(体の正面! 左腹なら、今はベールがずれている!)
きっと今右手でベールを持ち上げたから、体から少し外れたのだろう。だから短剣をもう一度構え直すと、急いで走りだす!
「カトリーレ!」
胸はさっきよりも痛いが、足は止まらない。
どれだけあの日から、この目の前の顔が憎かったか! そうだ、最初は怖かった。自分を虚言でも殺すことのできるカトリーレが恐ろしくてたまらなかった。でも、その後ろに隠していた心の中では、いつもイザークの隣で笑う彼女にどれだけの恨みと憎しみをためていたか!
(私の居場所の全てを奪った女! 殺しても引き裂いても飽き足りない!)
だから相手がまたベールを広げる前に、体の側に駆け寄ろうとする。いや、広げられたとしても、たかがベールだ。手で振り払ってもぐりこめば、この短剣の切っ先を、自分を見下すその体に届けることができるはず……!
だから、姿勢を低くして、いつでも広げたベールの下をかいくぐれるように突進したのに、次にカトリーレがとったのは、ベールを束にしてリーゼの体に投げつけることだった。
「なっ――!」
かわそうとしても、間に合わない。金属を伴った布が、リーゼの空色の瞳に横殴りに近づくと、そのまま強い勢いで目と頬を打っていく。
「あうっ!」
幾枚もの金属の板が、目を殴打する。叩きつけられた勢いで、そのまま体は床を転がっていくが、立ち上がろうと白大理石の上に手をついて身を起こすのよりも、カトリーレが近づいてくる方が早かった。
かつかつと音がすると、赤いハイヒールが、カリーの短剣を持ったままのリーゼの右手をぎりっと踏みにじる。
「あっ!」
骨を砕かれるような痛みが、腕を襲う。痛い。体を貫く胸からの痛みと合わさって、まるで全身を砕かれていくかのようだ。
「馬鹿な娘ね、せっかくここに来るチャンスを作ってあげたのに……」
見下ろすカトリーレの言葉に、はっとした。
「では……、まさか――」
「そうよ? 簡単に入れたでしょう? あなたのことだから、きっと今日私を狙ってくると思っていたのよ。このお馬鹿さん」
笑いながら、楽しそうに言われる内容に愕然としてしまう。
(では――、全てが罠だったのだ……。警備が厳重な神殿に運良く入れたのも。この回廊に通すように言われていたのも……)
全てがリーゼをここにおびきよせて、カトリーレ自身を狙わせるため!
「あなたのことだから、私とイザーク。どちらを狙うかわからないと思っていたけれど。でも嬉しいわ、私を狙ってくれるなんて。そこまで私はあなたを悔しがらせることができたのね」
手を踏みながら見下ろすカトリーレが浮かべるのは、花のような笑みだ。
(いや……このままカトリーレにイザークを奪われていくなんて……!)
自分はまだカトリーレに一太刀も浴びせてはいない。
こんなにも憎いのに、たった一矢も報いることもできないなんて。
せめて、その白い顔を切り裂いてやりたいのに、右手を踏まれた状態では、剣を持つことも、手を届かせることすらもできない。
(せめて……喉だけでも、潰せたら……)
だから必死に喉へ手を伸ばそうとしたのに、今度は一瞬だけ収まっていた凄まじい激痛が左胸を襲った。
「ああっ!」
思わず身を屈めるが、痛みはやむことがない。それどころか、ますます激しさが加わると、ぎりぎりと崩れるように心臓を責めだしたではないか。
(もう、時間がないのに……!)
それなのに、自分は何もできずにこのまま死んでいく。
「滑稽ね、リーゼロッテ。二度処刑される令嬢なんて、前代未聞よ?」
くすくすと面白そうにカトリーレが見下ろす。
けれど、蹲るリーゼの額からにじみ出てくるのは脂汗だけだ。
(このまま、また衛兵に捕まって処刑されてしまうの!? 嫌よ!)
だけど、体は動かすことができない。痛みで声すらうまく出せないのに、入り口の扉の奥からは、なにか騒がしい音が近づいてくるのが聞こえる。
あの剣が走る足に合わせて鳴る音は、きっと衛兵達だ。異変を感じた大司教の声を聞いて、ここに駆けつけてくるのだろう。リーゼを捕らえるために。
(嫌よ――!!)
だけど、逃げることができない。
(このまま死ぬの? また、処刑されて!)
せめて一矢を報いたいのに、体を起こすことさえできないなんて。
けれど、涙がこぼれた時、何かを抜く鋭い音が白い大理石の空間に響いた。
「カトリーレ!」
叫ぶ声に、必死に目を持ちあげると、目の前では今まさに金色の短剣を持ったイザークが、後ろからカトリーレに斬りかかろうとしているではないか。振り下ろされてくる剣の柄に描かれているのは、白百合にも似たカリーの花だ。
(あれはカリーの短剣! どうしてイザークが!?)
 




