(3)意外な話題
二日後。リーゼの体はすっかりよくなり、もうベッドの上に体を起こせるまでに回復していた。
「よかったわ。一時はどうなることかと思ったけれど」
本当なら、もう起きて歩き回っても大丈夫なぐらい体は楽なのだが、生き返ったと喜んだばかりの娘がまた生死をさまよう体験をした母にしたら、やはりまだ不安が残るらしい。
「もう、起きられるのに」
ぷくっと頬を膨らませるリーゼの前に、とんとご飯を置くと、
「だめだめ。まだ安静にしていないと」
つんっとリーゼの頬をつついて、娘の不満を交わしてしまう。
「はい、あーん」
「お母様……! 私、もう子供じゃないんだから……」
(さすがに恥ずかしすぎる……!)
命がつきかけて、ベッドで朦朧としていた時は、側で母がすり身にした魚や野菜をスプーンで口に運んでくれるのを何も思わずに食べていたが、意識がはっきりした今となっては、さすがにこれはない。
「何を言っているの? 親に取っては、我が子はいくつになっても子供よ?」
(だからって……)
「じゃ、じゃあ、一口だけ。後は自分で食べるから……」
だから思い切って、ぱくっと銀のスプーンをくわえると、母の瞳が嬉しそうに細められた。
「本当に、元気になったのね。ちょっと前まで、一口飲み込むのも、辛そうだったのに……」
眦に光る涙は、告げこそしないものの、きっととてもリーゼのことを心配していたのだろう。また死んでしまわないか。今度こそ、二度と元気な笑顔が見られないのではないかと、密かにずっと不安をためていたのが、笑っている顔から伝わってくる。
「お母様……」
だけど、母はリーゼの声を聞くと、少しだけ笑みをおさめて、真剣な眼差しで娘を見つめた。
「ねえ、リーゼ……」
「なに?」
どうにか皿に置かれたスプーンを取り戻して、これで恥ずかしい状態からやっと解放されると思ったのに、どうやら母はまだ何かを伝えたいようだ。
「アンドリックのことはどう思っているの?」
突然投下された爆弾に、吹き出すかと思った。あぶない。幸い、まだ食べる前だったからいいようなものの、今スプーンですくったオートミールを口に入れていたら、確実にふいていただろう。
「な、何を……」
真っ赤になってうろたえてしまうのは、先日のラッヘクローネの言葉が頭に甦ったからだ。
(違うってば! あれは女神様の勘違い!)
それなのに、母は突然百面相を始めた娘を愛おしそうに見つめている。
「アンドリックは、いい子よ。昔からまっすぐで、嘘が嫌いで」
「え、ええ。それはわかっているけれど……」
なぜ、今縁談を進めるような言葉が出ているのか。けれど、焦るリーゼの様子に、母はくすっと笑う。
「だから、今度うちの騎士隊の隊長補佐を任せようかと思っているの。これからの経験を積ませるために」
「え? 隊長補佐?」
(なんだあ。そういう話だったのね)
思わずほっとしてしまうが、考えてみれば、アンドリックの年ならば異例の抜擢だ。補佐に選ばれれば、行く行くは、騎士隊を率いる隊長候補にもなる。
「そうね……大変な役目だけれど、きっとアンドリックなら、うまくやると思うわ」
(正義感が強くて、真面目な彼のことだもの)
「うん。アンドリックのためにもいいと思うわ」
答えて、ぱくっとオートミールを食べると、母の瞳が少し輝いた。
「そうでしょう? ――だから」
そして、一度言葉を切る。
「リーゼ。お父様とも改めて相談したのだけれど、アンドリックと私とエディリスで、先に領地に帰らない?」
「三人で?」
ごくんと飲み込んだオートミールは、痛みもなく喉を滑り落ちていく。
しかし、見つめてくる母の瞳には僅かな痛みが見えた。
「ええ。心配なのよ。またお前にカトリーレ様から、呼び出しがあったりしたら――。今度のことだって、カトリーレ様のお屋敷で倒れたのが、原因だし」
「お母様……」
どうやら、自分が思っていたよりも違う方向で母は不安になっていたらしい。確かに、以前自分を殺した相手の屋敷に呼びだされて、また帰ってきた途端生死の境をさまよえば、不安になるなという方が無理だろう。
「それに、キーリヒでなら、お前をちゃんとしたお医者様に診せてやることもできるわ。顔が似ているから、リーゼの代わりに引き取った養女ということにしておけば、身元を疑われることもないし」
だからねっ、と手を合わせてくるのに、かちゃとスプーンを皿に置く。
「私は……」
わからない、何もかもが。
(本当に領地に帰って、カトリーレ様は私を諦めてくれるのかしら? そして、イザークへの想いを全て忘れて、あの二人が結婚していくのを見守ることしかできないのかしら?)
嫌われていたとはいえ、自分が愛して裏切られたイザークと、憎いカトリーレとの結婚を――。
だからといって、昨夜現れたラッヘクローネの言葉を実行するなど、とてもできない。
まだ、面影を浮かべただけで、こんなにも心が乱れるのに――。
けれど、俯いたリーゼの手を、母は強く握った。はっと寄せていた眉をあげると、目の前には真剣な顔でリーゼを見つめる母の顔がある。
「お願いよ。お前がこれ以上傷つくのを見たくはないの」
「お母様」
「それにキーリヒなら、お前を害そうと企む者は誰もいないわ。だから、どうか――――」
キーリヒ。
言われた懐かしい故郷の名前に、今まで忘れていた懐かしい光景が甦る。なだらかな山と森に囲まれた緑の多いキーリヒ。都のように華やかではないが、まるで童話に出てくるような街が、いくつも山裾や湖の側に点在して誰もが穏やかに暮らしていた。春には黄色の花が野山を彩り、夏には空色の花が、まるで地上を空にしたように咲き誇る懐かしい優しい故郷。
「リーゼ姫さん、今日もお出かけかい?」
小さい頃から、街に出かけるたびに温かく声をかけてくれた人々。
思い出しただけで、目頭がつんと熱くなってしまう懐かしい空間。
「そうね……帰りたいわ……」
――帰りたい。あの、何も心配のなかった明るかった時間へ。
「じゃあ……!」
リーゼの呟きに、顔を輝かせた母がぽんと手を打つ。
「すぐに用意を調えるわ! 大丈夫、手続きもそれほどややこしくはないから」
「えっ!? お母様!?」
慌てて手を伸ばしたが、もう間に合わない。
ぱたんと閉まる扉に急いでベッドから身を起こしたが、扉のところまで追いかけても、遠ざかっていく母の鼻歌が階段の方から聞こえてくるだけだ。
「どうしよう……」
(こんな状態で、領地に帰るなんて……)
女神ラッヘクローネが言っていた期限まであと半月もない。とても、それまでに誰かの――ましてや、女神が言ったようにイザークの命を奪うことなど、とてもできるとはおもえないのに……。
けれど、困りながら部屋に戻ったとき、閉めた扉を再度叩く音が聞こえた。
「はい?」
(お母様が戻ってきたのかしら?)
だから無防備に開けたのに、部屋の前に立っているのは見慣れた――だが、ある意味ではまったく見たことのない従弟の姿だった。
「アンドリック?」
いつも通りの赤い髪と、琥珀色の瞳。それが今日は顔色まで赤くなっているところを見ると、ひょっとしたら連日自分の看病をしてくれたお蔭で、風邪を引いてしまったのかもしれない。
冬だし、夜も昼もだったから――。
だから早く部屋に戻って寝るように言うべきなのに、なぜたろう。彼の手は、風邪をひいたにしては不似合いなピンクの薔薇の花束を持っているではないか。
誰かに風邪のお見舞いにもらったのだろうか? ああ、だから花瓶を探しているのかもと、頷いた瞬間だった。
ばさりと花束が、リーゼに向かって差し出される。
「ああ、花瓶……」
けれど、言いかけた言葉は、次に身を折ったアンドリックの発言で綺麗に消えてしまった。
「リーゼ! 俺と結婚してくれ!」
心を決めたように一息で言い切ったアンドリックの顔は、今まで見た中で一番の高熱を出したように赤くなっていた。