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(2)与えられた猶予

 夕方には、アンドリックが救貧院のフェルカー卿に頼んで、内密に一人の医師を連れてきてくれた。


「変な症状ですなあ……」


 リーゼの体に聴診器をあて、心臓の動きや内臓の音を聞いた医師は奇妙な顔で首をひねっている。


「心臓が弱っているのは確かなんですが、肺や腸の動きも悪い。長いこと寝たきりの人や危篤前ならわかるんですが……」


「危篤!?」


 さすがに、父や母も今日の朝まで元気だった娘が、余命を告げられるような症状になっているとは思わなかったのだろう。


「だが、今朝まで動かれていたというのなら、なにか別な病気が隠れていて、それで内臓が弱っているのかもしれません。最近、不衛生なところにいかれたり、身近に病人がおられたりはしませんでしたかな?」


「あ……時々救貧院や下町には出入りをしていましたが……」


「ではなにか未知の病を移されたのかもしれません。今は対症療法しかありませんが、お若いので病に体が勝てば、十分に治る見込みもあります」


 ほかにもこんな症状を出している病人を知らないか、医者仲間にもこっそりと訊いてみますので――と薬を枕元に置きながら告げる医者に、両親は頼み込むように何度も頭を下げている。


 だけど、ぱたんと閉まる扉の音を聞きながら、リーゼは胸を貫く痛みに必死に眉を寄せた。


(――ないわ! 治る方法なんて……!)


「リーゼ……」


 心配そうに、枕元に座ったアンドリックが薬を取り出して、リーゼの口に含ませてくれるが、飲み込むだけで喉が焼け付くように痛い。まるで焼けただれた器官を、硬い粒が転がって更に傷つけていくかのように。


「飲んで。心臓の薬だって」


 薄く目を開ければ、救貧院で何度も嗅いだ強心剤の匂いがする。効かないことなどわかっている。だけど、目を開けた先に見たアンドリックの見つめてくる琥珀の瞳があまりにも悲痛で――――。喉の途中で止まるようなそれを、差し出された水でかろうじて飲み込んだ。


 それだけで体力の全てを使い果たしてしまう。


「俺が側にずっとついているから――安心して」


「あり……が、とう……」


 唇は出始めた熱のせいで、すっかりかさついてしまっている。それでも、心が弱っている時に、ついていてくれる人がいるというのは、なんと嬉しいことか――。


 事実、その後、何度も意識を失っては戻ってくる度に、側の椅子に座っているアンドリックの姿があった。たまに、母になったり、エディリスになったりはしたが、ほとんどがアンドリックなところをみると、きっと最初の約束通りずっとリーゼの側についていてくれたのだろう。


 だけど、だんだんと意識が戻るまでの間が長くなっていく。


 意識を失うと、必ず暗い闇の中にいる夢を見た。息が苦しくて、身動きすら禄にできない。それなのに、なぜか側で誰かが手を取り、優しくリーゼの髪を撫で続けてくれるのだ。


「リーゼ……」


(違うわ! イザークはこんなに優しい声で私を呼んだりしない!)


 現実のイザークは、冷たい目で睨みつけ、リーゼをただうとましいと思っているだけだ。


(これは、私の願望が見せているだけの夢なのに――)


 どうして夢の中の彼は、これほどまでに優しく自分に囁くのだろう。まるで愛されていたと錯覚してしまいそうになるほど。


 だから思わず暗闇の中のイザークに縋ってしまいたくなる。二度と目を覚まさなくても、この時間ならば、幸せだと誤解してしまいそうになるぐらい。


(だめよ――! いくら、私がまだ彼を好きだからって、イザークは私のことを嫌っているのだから!)


 きっと、この夢に縋ってしまえば、自分はもう二度と生き返ることができなくなる。


 だから、悲痛な思いで、夢を切り離そうとするのに、体はどんどんと動かなくなっていく。


 きっと、もう誰かを身代わりに殺すために、立つこともできないだろう。僅かに寝返りを打っただけで、心臓は破裂しそうなほど跳ね、その後は長く動かなくなってしまうのに。

 はあはあと、息がこぼれながらまた意識がかすんできた。


(どうすれば、いいの? どうしたら、生き続けることができるのか――)


 誰かの命をもらうしかない。わかっているのに。


(いや! 罪もない人の命を無理矢理奪うなんて――!)


 そんなことをすれば、自分は間違いなくカトリーレと一緒になってしまう。


 だが、叫ぶようにシーツを握りしめても、意識はすぐに暗闇にのみ込まれていきそうになる。


「助けて……」


 だけど、暗闇は優しくて、イザークの声が懐かしくリーゼの髪を梳いてくる。


「やめて……イザーク……」


(この夢は、ただの私の幻想なのに……)


 それなのに、あまりにも優しくリーゼを引き込んでくるのに、涙を流してしまう。


「しっかりしろ、リーゼ」


 励ますようにアンドリックが手を握ってくれるが、もう自分に触れている手が、どちらのものなのかすらわからない。夢なのか、それとも現実のアンドリックの手なのか――。


 だから夢とも地獄の入り口ともつかない狭間で、どれくらい朦朧と途切れそうな息を繰り返していたのか。


 だが、長い時間閉じていた瞼の裏がふと明るくなると、不意に呼吸が少し楽になった。


「相当苦しいようじゃな」


 響く声は、狭いリーゼの部屋で発されているとは思えないほど、空気を反響して耳を震わせる。ふっと、瞼を開くと、もうすっかり暗くなっていたはずの部屋の中が、朝日が降臨したようになぜか眩しい光に満ちているではないか。


 ふわりと白い光の中に渦巻く、銀色の髪を見つけて息を呑んだ。


「あなたは――」


「久しぶりじゃな」


 リーゼが寝ている枕元にふわりと浮かび、空中で座っている銀の髪の女神は、ラッヘクローネだ。神話的な白い衣装を身に纏い、いくつものひれを流れるように空中に渦巻かせている。


「まだ生贄は決まらぬか」


 ちらりと枕元の棚を見たのは、一番の上の引き出しに、ラッヘクローネから渡されたカリーの短剣を隠しているからだろう。


 けれど、リーゼは荒い息で答えた。


「殺し……たくは、ないんです……。私の都合で――」


「ふん?」


 意外なことを聞いたというように、ラッヘクローネの片眉が上がる。


「言っておくがの? 死期の迫った病人を狙っても、あまり長い命はもらえぬぞ?」


「そう……なん、ですか……」


 考えてもみなかった。


 たが、頷くリーゼの様子があまりにも辛そうなのに気がついたのだろう。すっとラッヘクローネは空中から手を伸ばすと、口元に一粒の丸薬を差し出す。


「飲め。薬じゃ」


「そんな、ものが、あるのですか……?」


「内緒じゃ。依頼者との約束での」


「依頼者……?」


 けれど、もうラッヘクローネは答えてくれない。


(私を甦らせた者かしら……)


 誰がなんのために、自分を甦らせたのかは知らないが、最高の貢ぎ物と引き換えに願いを叶えたと言っていた。


 紫になった唇に当てられた青い丸薬を飲み込むと、舌の上で一瞬ちらちらと燃え上がるような感触がする。


 だけど、すぐに綿飴のように消え去ると、微かな甘い液体となって、喉の奥へと流れこんでいく。


 それと同時に、ひどく体が軽くなるのを感じた。今まで苦しかったものがすとんと落ちて、まるで体の上にのっていた重い鉄の上着を脱いだような軽さだ。


「あ……」


「効いたようじゃの」


 くすりとラッヘクローネは笑う。しかし、軽くなった体で辺りを見回せば、白い光に覆われた部屋の端では、アンドリックが倒れているではないか。


「アンドリック!?」


 慌ててベッドから立ち上がったが、リーゼの変わった顔色に、ラッヘクローネは面白そうだ。


「ああ、すまん。こういう手合いは頑固なんでな。面倒なので、少々手荒に眠ってもらった」


「手荒にって……! アンドリックは私を守っていてくれて」


「それはそうじゃろう。惚れた女を守るとは、騎士の鑑じゃ。戦いの女神としては、実に喜ばしい」


「えっ!?」


 けれど、リーゼには今ラッヘクローネが言った言葉が、すぐにはのみこめない。


 しかしだんだんと意味がのみこめてくるのにつれて、顔色が赤くなり、そして最後に固まった。


「なんじゃ? 嫌なのか?」


「そうではないのですが……」


 だけど、イザークのことや自分の命のことを思い出すと、どうしても素直に嬉しいとは思えない。


「ああ。そういえば、さっきもイザークという名前を呼んでいたな。そいつが好きなのか?」


 正直になれば、そうなのだろう。幼い頃に婚約して、イザークの良いところも、不器用なところもよく知っていたつもりだった。


 だけど、嫌われていたと知って頷けるだけの勇気はない。


「昔の、婚約者です。――でも、私を嫌っていたらしくて、私をはめた女性と婚約しました」


「ふうん」


 にやりとラッヘクローネが笑う。


「怒らんのか?」


「え?」


「その女と付き合いだしたのは、お前が死んでからか? それとも、邪魔だからお前が死ぬのを見捨てたのか?」


「それは――――」


 直視はしたくなかった事実に、唇を噛む。だけど、もうどれだけ目を逸らそうとしても気がついてしまっている。


「……私が、死ぬ前からです。二人で、私の処刑を見守っていました」


「はっ!」


 面白くてたまらないというように、ラッヘクローネが笑い出した。銀の髪が目映い渦となって部屋の中心で踊り、炎を宿したような青と金の瞳がちらちらと瞬いている。


 だけど、暫くして笑いを抑えると、まだ細めていた瞳でリーゼを見つめた。青よりも金の強くなった瞳が、鋭くリーゼを射る。そして、血のような唇が動いた。


「ならば――その元婚約者を、お前の命にするとよいではないか」


「えっ!?」


 何を言い出すのか。だが、復讐と戦いの女神であるラッヘクローネはごく当たり前のように微笑む。


「何を迷う必要がある? お前は、そやつに裏切られた。それならば、お前がそやつの命で生き返ったとしても、誰も非難したりはしないだろう?」


 確かに――そうなのかもしれない。だけど、心の奥底では、嫌われたとはいえ、過去の優しかった日々にすがりたい自分もいる。


「それともなにか? 恨んではおらぬのか?」


「恨んでは――いる、わ……」


 自分ではなく、カトリーレを信じた彼を。あんなにも長い時間一緒にいたのに、信頼すらももらえなかった。


 けれど、リーゼの返事を聞いたラッヘクローネは高らかに笑う。


「ならば、その剣で早くに生贄の命を差し出せ。言っておくがの、お前に今日渡した薬の効き目はよく持って半月じゃ。猶予はもうあまりない」


 部屋中に声が響くのと、銀色の髪が渦となって消えていくのは同時だった。後には、静まりかえった部屋が、まるで最初からなにも起こらなかったように残っている。


 ただ、開け放された枕元の引き出しを除いて。


 その奥に輝いているのは、カリーの花を描いたラッヘクローネから渡された短剣だ。


 燃える音を取り戻した暖炉の光に、鈍い赤に輝く短剣を見つめ、リーゼは震える手で引き出しを掴んだ。


 ――これで、イザークを殺す!?


(私のために――)


 剣を手に取ることさえできず、ただリーゼの瞳は恐ろしいように赤く光るカリーの剣を見つめ続けた。


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