闇の奉仕者
悪夢にうなされて目が覚めたことがあります。
これはその夢を元に書いたものです。
父が死んだ。
朝、起きたときに携帯を見ると着信を示すLEDが点滅していて、メールを開くと、それは父の死亡通知だった。
焦った俺は帰省のために荷物をまとめ、ネットで飛行機のチケットを予約した。お金が少ないときに4万円を超える出費は痛いのだが、この際は仕方がない。
田舎の空港に着いてからタクシーでJR駅に向かい、電車に乗り換えて1時間ほど揺られる。
駅に着くと親戚のおじいさんが車で迎えに来ていた。
その人は子どもの頃から知っている作治さん。父の友人で、小さな頃はよく遊んでもらった記憶がある。
「心臓発作だそうだ」
軽自動車を運転している老人がつぶやく。酒を飲み過ぎているせいか、しわがれた声だった。俺の田舎には大酒飲みが多い。それは父も例外ではなかった。
「ああ、そうですか……」
助手席に座っている俺は、無造作に言葉を返す。
田舎は自然が豊かで、今の季節では枯れ葉が道に散らばっている。
俺は父が嫌いだった。
だから、死んだと聞かされても衝撃は受けなかった。ああ、そうか、死んだのかという、平坦な思いしか感じていない。
「東京ではどうだい?」
「うん、まあまあだよ」
35歳になったのに今でも派遣社員で、仕事をしたりしなかったり、とは言いにくいな。
舗装している道路を1時間ほど走り、舗装していない道路を30分ほど進んで実家に到着した。
車から降りると、古くて大きな家が威張りくさるように建っている。
うっそうとした林の中、50年以上前に建築した実家だ。たくさんの部屋がある二階建ての豪邸。
俺はこの家が嫌いだった。
広い玄関に入ると母が急ぎ足で姿を現す。古い建物が発する独特の匂いが漂っていた。
「よく帰ってきたのう、治」
小柄な母は焦燥していて、父が死んだことを悲しんでいるよう。数年も帰ってきていなかったので、シワが増えている気がする。
「ああ、久しぶり。母さん」
父が死んで、せいせいしている自分と比べて母は重く受け止めているのか。酒を飲むと母に暴力を振るうこともある男だったのに。
「まず早く、父さんに挨拶しなさい」
そう言って奥に入っていく。俺は靴を脱いで家に上がった。
奥の客間には、親戚の面々が勢揃いして座っている。その中央には上等な布団に横たわる父の死体。
大柄でガッシリとし体格に頑固そうな顔。俺にとっては怖い父親だったという思い出しかない。口答えすると頭を殴られることもしょっちゅうだった。だから、高校を卒業してから逃げ出すように上京したのだ。
「さあ、水あげをして」
そう言って、母は水が入った茶碗を差し出す。
俺は茶碗を受け取り、人差し指を中に入れて水に濡らした。そして、その指で父の唇をなぞる。この地方特有の儀式で、死人の口を潤してあげるという意味。
親戚は父の思い出話を始めた。
父は村のリーダー的な存在であり、祭りなどの主催を務めていたので知人は多い。
「65歳じゃ、まだ若いのになあ」
隣の県から、入り婿で来た男が言った。
「神内家は若死にが多いから」
ため息交じりに作治さんが答える。そして、ハッとしたように俺を見てから気まずそうに子供時代の話に切り替えた。
それから、しばらく親戚の人達と話した後に自分の部屋に入った。
部屋の中は、この家を出て行ったときと変わっていない。十年以上も手を付けていなかったのか母は……。俺が夢破れ、東京から帰ってくることが決まっているような感じを受ける。
部屋に寝転がって父の思い出を探った。
俺の実家は地主の流れで、この村の多くの土地を所有していた。農地改革で一時的に持っている土地が少なくなったが、不思議なことに時が過ぎると共に土地が増えていき、父の代では村の半分以上が所有地になっていた。
しつけの厳しかった父親。
友達でさえも許可が無いと仲良くできなかった。依然として地主だというプライドを先祖代々、受け継いでいたのかもしれない。
広間で豪勢な夕食を皆と食べる。
席には老人達しかいない。これから通夜なので、参加しない人は帰っていったのだろう。
母や作治さん、それに老人達は何も言わずに伊勢エビの蒸し焼きを食べている。何か異様な空気だったが、理由を聞いてみる気にはなれない。
食事が終わって、すぐに俺は自室に閉じこもった。不安を消すように畳の上に大の字になる。何か胸騒ぎがするのだ。
真っ黒な窓の外。窓ガラスには小さなヤモリが張り付いていて赤い腹を見せていた。
「入っていいか?」
突然、廊下から作治さんの声がしたので、上半身を起こす。
返事を待たず、戸を開けて入ってきた。
「ちょっと、これからの行事について話しておきたいんだがな……」
能面のような顔。俺が知っている作治さんとは感じが変わっているような。
「行事?」
何のことだろう。俺は全く聞いていない。
「神内家の葬儀には特別な埋葬方法があってな……治にも手伝って欲しいんだ。……というより、息子のあんたが参加しないと意味がないんだよ」
確か、うちの家だけは土葬だと聞いたことがある。実家の裏山にある、神社の近くに埋葬するんだったか。
「ああ、そう。……分かったよ」
喪主は母だが、一人息子なのだから俺も何か仕事をしなければならないんだよな。
作治さんから聞いた儀式というのは、今まで全く知らないことだった。
俺を含む八人で死体が入った棺桶を担ぎ、裏神社まで運ぶ。そこに祭られている地主神に報告してから先祖代々の墓場に埋葬するという。
この村には普通の神社と、それとは別に裏神社と呼ばれる神内家だけの社があった。
そこは有刺鉄線で囲まれており、父や宮司などの関係者しか入れない。それは息子の俺でさえ例外ではなく、その近くを通っただけで父に怒られた。
*
作治さんに連れられて一階の大広間に降りる。
そこでは老人達が白装束に着替えている最中だった。
俺も同じ着物に着替えた。なぜか左前にして装束の帯を締める。これでは父の死体と同じ服装ではないか。
白い足袋を穿き、さらに托鉢の坊さんがかぶるような編み笠をかぶる。
わらじを履き、老人達に付いて外に出ると、玄関の手前に祭りで使うような神輿が置いてあった。
広い庭に点在する灯籠にはロウソクが灯っていて鈍く老人達を浮き上がらせる。
その神輿は細長い物で、上に乗っているのは棺桶だった。
一体どんな儀式なんだろう。あの棺の中には父が入っているのだろうな。
質問したいことが頭に押し寄せてきた。しかし、皆は厳かな雰囲気で、言葉を発することがはばかられる空気。
「とにかく、ワシらと同じようにすればいいから」
ゆがんだ笑いを浮かべている作治さん。
老人達は神輿のそばに腰を落とし、神輿から出ている柱のような棒を肩に置く。
作治さんの指示で俺は神輿の左側に行き、後ろの方の担ぎ棒を肩に乗せた。
白装束の八人は神輿を持ち上げ、ゆっくりと前に進む。
神輿は実家の敷地を出て裏神社に向かった。
「やんせっせ、やんせっせ。お届けもーの、やんせっせ」
老人達のしわがれた声が闇に響く。
やけに夜風が冷たい中、俺も同じように声を出して歩いて行った。
有刺鉄線が張られた裏神社の入り口は開いている。
「やんせっせ、やんせっせ。お届けもーの、やんせっせ」
俺には意味不明なかけ声を出しながら中に入っていった。
うっそうとした林の中にある赤い鳥居を二つくぐると、そこは初めて見る光景。
掃き清められた小さな境内の端に、小屋くらいの大きさの社がある。そこから多少の距離をとって正面に神輿を置く。
いくつかの灯籠が端の方にあり、社と俺達をボンヤリと照らしていた。
皆は片膝をつき下を向いたままの姿勢で動かない。それを真似して俺も同じ体勢でその場に止まった。
「治よお、いいか良く聞けよ」
作治さんが俺の近くに来て言った。
「お前は目をつむって、これから何があっても開けてはならねえ。それに何が聞こえてもしゃべってはいけねえし動いてもいけねえ。分かったか……?」
一体、何が始まるのだろう。質問したかったが作治さんの目は、とにかく今は何も聞くなと言っているよう。
俺はうなずいて、編み笠を深くかぶって目をつむる。
「お届けものでござりまするー。お出まし願いまするー」
抑揚のない作治さんの声が境内に低く響いた。
「お出まし願いまするー。奉公人を連れて参りましたー」
俺は催眠術にかかったように動けない。何が始まるのか不安と好奇心が入り交じった思いでギュッと目をつむっていた。
冷たい空気がフラリと揺れる。その直後に、得体の知れない圧迫感が襲ってきた。
何かが出現したらしい。全身の血を抜かれたような戦慄と虚脱感。目を閉じていても分かる巨大な存在感が俺の心臓を握っているようだった。
「貢ぎ物でござりまするー。お納め願いまするー」
作治さんの平坦な声にも緊張が感じられる。あの人も怖がっているのか。
ザリッ。
地面の砂利が音を立てた。そして声のような獣の鳴き声のような音が発せられる。
脳に沸き上がってくるような声。俺達を慰労しているような……。
「ありがたきお言葉、かたじけのうござりまするー」
作治さんには異様な者の言葉が分かるらしい。しばらく俺には意味不明なやり取りをしていた。
危害を加えられることはないなと思ったら、少し気が楽になった。
俺の前にいるのは何なのだろう。
この世のものではない。どんな姿をしているのだろうか。
好奇心が心の底部からせり上がってきた。
ちょっと見るだけなら分からないさ。
俺は首をゆっくりと上げ、編み笠の下から前を覗いた。
それは黒い巨人だった。薄明かりでよく見えないが、人間の二倍以上はあるだろうか。コールタールを塗られたように全身が黒い。頭の部分には赤く光る目が二つ、俺を睨んでいた。
「グオーッ」
神経を逆なでするような不協和音の叫び。突風が吹いた。本当に物理的に風が巻き起こったのだ。
「見たな……」
黒い者の声が俺を捕える。
激しい後悔と恐怖。見なければ良かった。何で見てしまったのか。下を向いて、しっかりと目をつむったが、今さらどうしようもないだろう。鼻がツーンとして血の匂いで満たされた。
つむじ風と共に、黒くて邪悪な者が近づいてくる。体がすくんで俺は動けない。体が冷たくなり心が凍って何も思考できなくなった。
いきなり胸ぐらを捕まれた。
俺の体は宙に浮き、高く持ち上げられる。
目の前には黒き者の顔。俺を蹂躙しようとして赤い目が爛々と光る。
黒くて大きな頭がパックリと割れ、大きな口が開く。それには獰猛な牙が並んでいた。
もがいて周りを見回す。作治さんを始め、老人達は片膝をついたまま身じろぎもしない。この状況で俺を助けるようなことは不可能だと知っているのか。
もうダメか。ここで死んでしまうのか。生存本能が体を震わせた。だが、逃げることはできないことを潜在意識が受け止めているようで、あきらめの心境がはびこってくる。
神輿の方でカタンと音がした。
見ると棺桶の蓋が地面に落ちていて、棺の中に白装束の父が立っていた。
「その者は私の息子で、いずれ御奉公する者。どうか御勘弁願いまするうー」
土気色の顔。人形が発するような声だったが、間違いなく父の声音だった。
胸ぐらをつかんでいた力が緩む。
もう何も考えることができない。錯乱して、ここがどこなのか俺が何をしていたのかも理解できなくなる。
俺は気を失った。
*
目が覚めると朝だった。
実家の自分の部屋。作治さんが俺を運んできて布団に寝かせてくれたのだろうか。
着替えて下に降りると、居間に母がいて朝食が用意されていた。
「よく眠れたかい」
母が茶碗にご飯をよそって俺の前に差し出す。
余り食欲がないのだが、無意識に箸を持ち上げた。
久しぶりに食べる手作りの料理。でも、味を感じられない。俺は生きているのだろうか。
「昨晩のことだけど……」
俺が言いかけて黙り込む。気まずそうな母の表情。話してはいけないことなのか……。母は立ち上がって台所に去ってしまう。
東京に帰ることにした。
もう一晩くらい泊まっていきなさいと母に引き留められたが、今日中に逃げたかったのだ。
作治さんが駅まで送ってくれた。
車の中、俺は何も聞かなかったし作治さんも無言だ。
駅に着いて構内に入る。
「じゃあ、さよなら」
スイカをポケットから出し、片手を軽く上げて別れの挨拶。
「ああ、向こうでも頑張れよ」
屈託のない笑顔で作治さんが手を振り返した。
俺は背を向けて改札に歩んでいく。
「もう、お前は御奉公を断れなくなったぞ……」
耳打ちする小さな声が聞こえた。
驚いて振り向いたが、見えるのは車に向かって去って行く老人の姿だけだった。