90、私は海を見る
「人間の努力っていうのは、大体が自分のためなんだよ。勉強すればいい会社に就職ができるとか、働いておけば将来生活が楽になるとかね。努力がいつか自分の利益になると考えているから、人っていうのは努力を重ねることができる。でもね、そこから一転して人のために努力が出来るって奴は、悲しくなる程度には少ないのさ」
「……自分のためになるという、保証がないからですか。助けてもいつか裏切られるかもしれない、いつか離れていくかもしれない、いつか疎遠になるかもしれないと考えると、人は自然と頑張る理由を失ってしまいます」
「そう。まあでも、そこまでおかしい話でもないんだけどね、これは。どんな善人だって、どれだけ優しい奴だって、結局のところ自分が一番大事だからね。人に親切にするのが生き甲斐って奴だって、自分が死ねばもう何も出来ないと思えば自分に優しくすることを躊躇ったりはしないだろう」
「……死んだら、もう何かを残すことが出来ないというのは、怖いですから」
「そうなんだよ。誰だって死ぬのは怖いんだ。自分が死ぬ代わりに誰かが助かるという状況から逃げたって、本来誰も文句なんて言えないのさ。大概そういう文句は深刻さと直面したことのない第三者が口にする。自分がどれだけ狭い考えの中で生きてるかを、もう少し自覚してほしいもんだね」
「……誰かを責める分には、自分は傷つきませんからね。傷を付けることの出来る者は、傷を付けられたときの痛みに対して哀れなほど無知なのです。自身が無知であるということにすら無知であるというのは、もはや失笑ものです」
「はっは! 正直だねえ。ただね、あんたも知ってはいるだろうけどたまにいるんだ。自分のためじゃなく、誰かのために底無しの努力を重ねられる馬鹿が。あたしはその馬鹿を、心から好ましく思うよ。尊敬に値するとね」
「……シユウ様、ですか」
「そう、あたしの息子、シユウは、生まれた時から誰かのために努力を重ねられる奴だった。あいつは何かが上手く行くと心底から喜ぶんだ。昔のあたしにはそれが無邪気に見えていた。自分が何かを成せる人間であると自覚することに、喜びを覚えているだけだと楽観視していた。それは本当に楽観視だった。あいつは最初から、自分のための努力なんて何一つしてなかったのさ。いや、勿論それらは巡り巡って自分のためになるんだろうけど、それを度外視していることは、シユウの様子から一目瞭然だった」
「……その異質に気付いたのは、いつのことですか?」
「六歳の頃だったかねえ。その頃のシユウは城の兵士相手に毎日毎日能力戦闘を挑んでて、日が経つごとに勝率が上がっていた。兵士の連中としても、若干手を抜いてはいたんだろうけどね。あたしにはその向上心が一体どこから来るものなのか分からなかった。以前から言ってた、守らなくちゃいけない奴のためなのかなと思ってた。……底無しっていうのは、怖い。恐怖だ。何せ理解ができない。あいつに満足感みたいなものが全く感じられなくて、あいつに聞いたのさ。どのくらい強くなるつもりかってね」
『……分からん』
「何も難しいことはなかった。ただシユウは、ゴールのないレースを走り続けているだけだったのさ」
「……人は、何事にも終わりがあると思えるから走ることが出来る。疲れても、歩いてでも這ってでも進める。いつか終わりが訪れることを知っているから。ええ、確かにどこが終わりかなんて分かりません。私は終わりなんてない地獄に生まれた時から落ちていて、シユウ様の目的はそんな私を助けることだった。不幸から私を助け、更に幸せにすることが目的だった」
「茨の道だねえ。シユウがじゃあない、あんたがだ。一度不幸な自分に慣れてしまった人間は、幸せになるのが難しい。自分から幸せのある方に歩いていくのが嫌になるほど難しいのさ。それこそ、誰かに手でも引いてもらわないと」
「……今の話から、サロメ様が私達の結婚に賛成だという要素が見出せないのですが、一体どんな大逆転がサロメ様の脳内で起こったのですか?」
「大逆転なんか何もないよ。あたしは、シユウを誰かのために必死に頑張れる人間にしてくれたあんたに感謝してるだけだ。シユウがいつか、あんたの同意を得たうえでロデウロに来たのなら、それだけで結婚を認めるって言う準備は出来てた。実際には、まだ色んな障害があるようだけどね。シーツァリア第一王子との婚約関係、宗教組織とその長であるユウ・エゴ・スクリーンオルタの存在、それに、これから成長していく中での心変わりもあたしとしては不安ではあるね」
「……心変わりは、無いと断言できます。ですが、私が身を引く、という可能性はあるかもしれません」
「ほう? それは穏やかじゃないねえ。何故だい?」
「シユウ様は、綺麗すぎるのです。容姿がとかそういう話ではなく、その考えが、想いの一途さが、私では受け止めきれないほどに透き通っていて、純粋で、優しくて、美しいのです。昔から醜いもの、汚いものにばかり触れてきた私の目が、潰れてしまいかねないくらいに」
「……おっ、海が見えたよ。どうだい綺麗だろう? あたし的にここからの景色はロデウロの中でも三本の指に入ると思っててね。夏の夕陽なんかが見えてるとそりゃもう言葉も出ないくらいさ。でもねえ、いくら綺麗でも何回も見てると流石に慣れるというか、悲しい話だけどね。特別だったものがいつの間にか当たり前になってるってことなんだけど、人間っていうのは贅沢だよ本当に」
「……えっと」
「シユウのこともそれと同じさ。慣れればどんなものだって当たり前になるんだ。環境だって、生活だって、体調だって、美しさも優しさも嬉しさも、全部慣れれば特別眩しくなんて感じなくなる。シユウはきっとこれからも変わらない。海も同じさね。だから、アンナちゃん、あんたはいつかきっと知る。変わらないことが、今日と同じ明日が当たり前に続くことが、何よりも綺麗で美しいことなんだって」
「…………」
「眩しさに慣れちゃえばいいのさ。シユウからあんたへの思いが変わることはない。だから安心して、変わらないという贅沢を甘受すればいい。いつかあたしの娘になる子が、そんな贅沢の一つも言えないんじゃこっちが困っちゃうよ」
「……娘、嫁入り、ですか。……ということは私は、アンナ・デルスロ・フルランダムになるのですかね」
「いいじゃないか。とても綺麗で、美しい名前だよ」




