第60話、戦争前夜
「コウイチ……」
不意に後ろから声がした。
振り返るとトルティアがドアにもたれかかって俺を見ている。手には飲みかけの缶ビール。
「やあ、トルティア」
薄暗い部屋、外では夏の虫が鳴いている。
ゆっくりと彼女が近づいてきた。少し酔ってるのか、足下がフラついて上体がユラリと揺れた。
俺は立ち上がって彼女を軽く支える。
準備で忙しかったのか服装が乱れ、胸元のボタンが一つ作業放棄していた。そこからピンクの下着がのぞく。
「明日は戦うのよね……」
頬を赤らめたトルティアはビール缶をテーブルに置いて、俺の背中に手を回した。
「ああ……」
俺は素っ気ない返事しか出てこない。いつものトルティアと様子が違う。
彼女の体から甘い香りが沸き立つ。
「リザードマンに突撃するんでしょ。危険なんでしょ」
背中に回されている手に力がこもる。
「でも、俺は弾丸の配給係だし、そんなに危険じゃないかも」
「ケガしたらどうするの」
彼女は俺の目を直視している。女の子に見つめられるのは初めてのこと。
「そのときはトルティアにヒーリングで治してもらうさ、ははは……」
黒い瞳は真剣で、俺の冗談を許容しないようだ。
「死んだら……どうするの」
悲しそうな目。俺が死んだらどうするのだろう。明日、死んでしまったら俺は何のために生まれてきたのか分からない。今まで何のために生きてきたのか……。
何も言えない。トルティアも黙り込んだ。
しばらくして急にトルティアが俺を抱きしめる。彼女の曲線が俺の体に押しつけられた。
「逃げてもいいのよ……」
俺の耳元でささやく。
「逃げる?」
うん、と言ってうなずくトルティア。
「二人で日本に行って暮らすのよ。あんなゴミゴミした日本なんだから、その片隅でひっそり生活することはできるはずよ」
俺はトルティアとの同棲生活を想像した。後ろめたさを抱えながら二人で生暖かい暮らしを送る。ニートのときのようにモラトリアムな暗い生活だ。でも、それに強い引力を感じる。
「ねえ、逃げましょうよ。死んだらお終いよ」
密着した体を揺する。女は男を誘惑するすべを本能的に身に付けているのか。
「日本に行ったら、私がヒーリングでお金を稼ぐわ。たまにシンヤードに帰ってきて薬草を採ったり、リザードマンの領地から砂金を取ったりすればいいのよ」
女は現実的だ。先のことをきちんと考えている。
彼女は全てを投げ捨てて俺の命を助けようとしているのだ。妹も弟も、故郷も、生活の全てを失っても俺と一緒にいてくれるという。俺のことを真剣に考えてくれるのは、この世界でトルティアと母親だけ。俺の体はトルティアの豊満な肉体を求め、心はトルティアとの甘い生活を渇望している。
男と女がいれば、どこでもやっていける。それが人間というもの、そんなものさ、そんなもん。
都会の片隅で、男と女が体を寄せ合って生きていく。陰湿で淫靡で生暖かくて暗い。嫌なことから目をつむり、世間に背を向けてコソコソとした生活。俺の潜在意識が理想的だと褒めている。
――しかし、それで良いのだろうか。
俺は克己心を総動員してトルティアの体を押し離した。
「ごめん……」
彼女は目を潤ませて不思議そうに俺を見る。
「ごめん、トルティア。俺は逃げることはできないよ」
どうして、というように首を左右に小さく振っている。
「ここで逃げたら絶対に後悔する……。世捨て人になるには俺もトルティアも若すぎるよ」
すねたような上目遣い。それも可愛い。
「俺は異世界での生活を気に入っているらしい。日本と比べて、なんかキラキラしててさ……。この生活を失いたくないんだよ。以前のように光り輝く世界を取り戻したい。そのためには命をかけても構わないと思うんだ」
ああ、そうだったんだ。自分で言って、自分で気がついた。
「私のお願いでもダメなの?」
彼女の目から涙がこぼれた。
「俺は堂々と戦って、堂々と勝って、堂々と未来をつかみたい。トルティアにはコソコソと逃げ回る生活は似合わないし、俺はそうさせたくない」
彼女の柔らかい手を握る。
「好きだよ、トルティア」
彼女は俺の胸に抱きついた。
「なんかずるいなあ、コウイチは」
そう言ってトルティアは泣きじゃくった。
しばらくして彼女は俺から離れる。
目が充血して余韻は残っているが、以前の明るいトルティアだった。
「絶対に生きて帰ってきてね」
涙は乾き、口元がほころんでいる。
「ああ、トルティアのために生きぬくさ。こんな状態で死んでたまるかってんだ」
わざとふてぶてしい笑顔を作る。
「私も戦うわ」
「君も……?」
そう言えば、健司さんから狙撃銃のレクチャーを受けていたっけ。
「そうよ、恋人が命がけで戦っているのに、その女がメソメソしていられないでしょ」
くったくのない笑顔だった。蒸し暑い部屋に涼風が吹いたよう。俺のことを恋人認定してくれたのだから、後で十分にお礼をしないと。
とりあえず……。
俺はトルティアの手を握って引き寄せた。
「トルティア……」
意図を察したのか目をつむる彼女。
燃える唇などではなく、彼女のそれは冷たかった。
よし、絶対に生きて帰ってくるぞ。帰ってきたらトルティアと……。おっとっと、これ以上言うと死亡フラグが立つかもしれない。ヤバイヤバイ。
*
翌朝、山に挟まれた細い道からリザードマンの大軍が進撃してきた。
それは川の手前で集結した。シンヤードの城壁から眺めると、まるで黒い森が移動してきたよう。ドローンを飛ばして偵察した結果、約四万の兵力だった。




