第36話、変わるわよ
ビルの3階には誰もいない。
山口の件があるので、トルティアを異世界に転送し、医学的に問題になりそうな薬草類も、すべて異世界に送ってしまった。これで警察がやってきても証拠を見つけるのは絶対に不可能。やれるものなら異世界に行ってこいってもんだ。
トルティアが日本で稼いだお金は異世界の通貨に両替してあげた。かなり高額だったので、銀貨で渡すよりも彼女のクレジットストーンにチャージした方が良い。
トルティア薬局の営業をしばらく停止することを質屋のジイサンに言ってあるので客もやってこない。
施術用のベッドなどは置いてあるが、トルティアがいないと閑散とした感じがする。
俺も異世界に行きたいと思うが、山口がどんな手を使ってくるか分からないので、しばらく日本に待機しなければならない。
階段を降りて2階の探偵事務所に行くと、藤堂さんと長沢がいた。
麻美さんは買い物に行っているらしい。
所長は大きな机で書類を見ている。本当は異世界に行ってモンスターと格闘したいのだろうが、所長という立場では事務手続きを無視する訳にもいかない。
「ああ、佐藤さん」
書類から顔を上げて所長。
「異世界に持って行ってもらいたいものがあるんだけどな」
部屋の隅を見るとリュックやカバン、段ボールなどが山積みになっている。
「こんなにあるんですか」
一度で持っていくのは無理な重量と大きさ
「まあ、分けて運んでくれ」
俺はハイハイとつぶやくように言って荷物をチェックする。こんなにいっぱいあるのか。佐藤商会で販売する商品も転送しなければダメなんだけどな。
「あのさあ佐藤さん……」
振り向くと所長が机に上に手を組んでアゴを乗せているという碇ゲンドウのポーズ。
「もっと大量に移送することはできないのかなあ」
それができれば苦労は無い。
「無理だと言ってたでしょ。前にコパルに頼んだときも断られましたからね」
うーんと言って背もたれに寄りかかる藤堂さん。
「俺が頼んでみるか」
「ハイ?」
「佐藤さんが頼んでダメなら俺が頼んでみるよ」
いくら所長でも相手が悪魔では勝手が違うと思うんだが。
「やめた方がいいと思いますよ。相手は性格がねじ曲がっていますからね。変に挑発して怒らせると後が怖いですよ、たぶん……」
怖いので怒らせたことは無いが、機嫌を損ねると何が起こるか分からない。
「いいから呼び出してくれよ。俺が責任を取るから」
所長が身を乗り出して言った。
「外見が可愛い女の子でも、相手は悪魔ですよ。人間なんか犬と同じレベルだと思っているんですから」
戦闘の達人の所長でも勝てないことがある。やめた方がいいと思うけどなあ。
「いいから、いいから。早く呼び出してくれよ、佐藤さん」
所長は自信満々だ。世の中に怖いことが無いんだろう。
「じゃあ、呼んでみますか? どうなっても本当に知りませんよ」
俺は床に正座して土下座の準備をした。
「がんばってね、佐藤ちゃーん」
ホモデブの長沢が応援しているが、うれしくはない。
俺はバンザイの体勢で、ゆっくりと両手を床に下ろした。そして、手のひらと額を床に押しつける。幼女悪魔、コパル様の召喚儀式だ。いつもながら人前でやるのは恥ずかしい。
「コパル様、コパル様。お出ましになってください」
アラーの神に祈るように何度も上体を起こしてはひれ伏すことを繰り返す。
チラリと横を見ると長沢と藤堂さんが笑いながら見物している。所長が頼むから、イヤイヤやっているんだろうが。
「何か用かだわよ」
空中にコパルが現れた。
ピンクのエプロンドレス風ワンピース。俺は土下座状態で、視線だけ上げるとパンツが見える。
「お出ましいただいて恐縮でございまするうー」
俺が仰々しく言うと幼女は小さな口をゆがめる。
「相変わらず、うっとうしい男だわよ。それで、今日はなんの用なの?」
「ははー、異世界に転送するときに、もっと重くて大きい物を運ぶことができないかと……」
顔色をうかがうと、コパルはあからさまに嫌な顔をしている。
「だからあー! それはダメだって言ったでしょ。本当に物分かりの悪いペットだこと」
やはり俺はペット扱いだったのか。
「そこを何とか……」
「しつこいだわよ。いい加減にしないと転送能力を取り上げてモンスターの巣に放り込むだわよ」
それは嫌だなあ。
「おい、おい、ちょっと、佐藤さん」
藤堂さんが近寄ってきた。
「はい、なんでしょう」
土下座状態で横を向く。
「コポルとかいうやつがいるだよなあ、今、そこに……」
「はい、まあコパル様なんですけど」
俺以外の人間には悪魔の姿は見えないし、声も聞くことができない。
「じゃあ、俺が説得してやる」
そう言うと、グイッとコパルの前に割り込んできた。
「おい、コパルさんよお。俺達は重量物を異世界に持っていきたいんだよな。ちょっと頑張って何とかしてくれないかなあ」
腰に手を当てて偉そうに言っている。その態度じゃあマズいよ……。相手は人間じゃないんだから
「なによ、このマッチョオヤジ。人間の分際で、無礼にもほどがあるだわよ」
コパルは可愛い顔をしかめている。それもキュートだと思うが、こいつは何をするか分からない。
「なあ、頼むよ。悪魔さんよお。俺にできることなら礼をするからさあ」
所長の態度は上から目線だ。自衛隊ではそれで済むんだろうけど。
「頭に来ただわよ。このムキムキオヤジが!」
そう言うとコパルは小さな手を振ってバトンを出現させた。先端にはハートのパーツがある、まるでオモチャ屋で売っている魔法少女グッズだった。
「そーれ」
バトンを振ると小さな光る星が飛び散る。はたから見るとメルヘンチックだが、振っているのは悪魔だ。
「きゃー!」
黄色い悲鳴は所長が発していた。
見ると、胸が膨らんでシャツのボタンが飛びそうだし、ウェストが細くなってズボンが落ちそうだ。――藤堂さんは女に変わっていた。
「なんだこれはー!」
自分の胸を押さえて困惑している声も女性のものだ。30歳くらいの女の体。グラマーにもほどがあるだろうというくらいの外人女性のようなプロポーション。
「あらまあ隊長。なんて美人なんでしょ」
のんきなことを言っているホモデブ。長沢は目を輝かせてガン見している。
「分かった、分かった。俺が悪かった。元に戻してくれー!」
狼狽している所長を見るのは初めてだ。何が起こっても平静を保っている所長が今は女子中学生のように焦っている。
「しばらく、そのままでいるだわよ」
コパルは捨て台詞を残して消えた。
「コパルさまー!」
俺が呼んだが、戻ってこない。
「あーあーあー……」
自分の体をなで回して泣きそうな藤堂さん。レンジャー持ちでも女に変わってしまうのは、そんなに衝撃的なことなのか。
しかし、所長の体はボン、キュ、ボンてな感じで肉感的だ。髪も長くなってツヤツヤ。見ているだけでグッときてしまう。これってホモということじゃないよね。
「佐藤さん……」
藤堂さんは力が抜けたようで片膝をついている。大人の色気ムンムンの美人に涙目で頼まれても、俺のような人間にはどうしようもないこと。
「コパルは、しばらくと言ってましたから、時間が経てば元に戻りますよ」
気休めかもしれない。悪魔の「しばらく」は10年かもしれないのだ。
「あの、佐藤ちゃーん。悪魔さんに頼んでちょーだいな。私も女にして下さいって」
うるんだ目で迫ってくる長沢。まったく、こいつは……。
「ねえ、ねえ、お願いよお。私も女体になりたいのよー!」
うっとうしいホモデブだ。この変態野郎が。
「もうコパルは消えてしまいましたよ。また今度、自分で頼んで下さい」
冷たく突き放す。こんなホモデブの願いなど気にしていられない。
「ああーん、もうー」
胸の前に拳を作って身もだえする長沢。そんなこと俺が知るかよ。
30分ほど経って所長は男に戻った。
ドッと疲れたような所長の顔を初めて見た。所長にとって男でなくなることは自分の存在意義がなくなることに等しいのだろう。どんな人間にも弱点というものはある。人は完璧超人にはなれないのだ。
*
それから1週間ほど待っていたが、山口からの報復はなかった。
もう、あきらめたのだろうか。心配だが、せっかく作ったトルティア薬局を取りやめにするのはもったいない。あと1ヶ月ほど様子を見たら再開するつもりだ。
山口は一人だが、こちらには仲間がいる。何とかなるさ。




