第33話、疫病神
トルティア薬局のドアをノックした。
「はーい、どうぞー」
トルティアの可愛い声。新人声優の誰かに似ているトーンだ。
さあ、今日も彼女と世間話でもするかな。トルティアは日本語が上手になってきているので、最近では日本語で会話している。
浮き立つ心でドアを開けたら、冷や水を浴びせられたように心が冷めた。
「あ、佐藤さん。いらっしゃい」
笑顔のトルティアがイスに座っている。そして、その対面には見慣れない男が座っていた。
見慣れないという表現は正しくない。憎たらしい顔を思い出し、悔しさで身を震わせたことは数え切れない。ブラック企業で後輩だった山口がそこに存在したのだ。
「佐藤先輩、お久しぶりデス」
昔から山口は語尾に変なアクセントがあった。中肉中背で平凡な顔。相変わらずのスポーツ刈りだ。数年も会っていなかったので少し老けているようだが、見た目だけの人懐っこい表情は同じだった。
「山口……」
こいつが何で俺のビルにいるんだよ……。頭の中では、クエスチョンマークとビックリマークが飛び交っている。
「ずっと連絡していなかったんで、心配していたんデスよ。ニートは卒業したらしいですね。良かったデス」
そんなことまで言っちゃったのかよ母さんは。人を疑わないんだから、まったく。
やつの笑いに、さげすみが含まれているのが明らかだ。
「何の用で来たんだ」
トルティアの笑顔が消える。こわばった俺の顔を見て不審に思ったのか。
「やだなあ、佐藤さん。可愛い後輩があんたを心配してわざわざ見に来たんですよお。もっと歓迎してくれてもいいでしょう」
ニヤついた顔が憎たらしい。
「ちょっと来いよ」
やつの腕を乱暴に握って部屋から出た。
「どこに行くんですか。せんぱーい」
言い方も憎たらしい。ずっと俺は山口を憎んできたので、生理的に嫌いになっているようだ。
腕をつかんだまま、2階の探偵事務所に降りる。部屋には誰もいない。
「なんの用で来たんだよ!」
「だから、佐藤さんを心配して……」
「そんなわけがねえだろ!」
黙り込む山口。しかし、少しずつニヤけた表情に戻る。
「いやあ、先輩が会社をあんな辞め方をして去って行ったので、どうしたかなと……」
何を言ってんだよ。
「それはお前が変な噂を流したせいだろうが。俺が女遊びで性病にかかっていると触れ回ったからだろう」
ろくに女の手も握ったことがないというのに。
山口は、やれやれというように俺の手を振りほどく。
「知りませんね、そんなこと。先輩の妄想じゃないですかねえ」
この野郎。同僚から聞いて、証拠はあるんだよ。
睨みつけても、やつはニヤけたまま。
「それよりも先輩。今は豪勢な生活をしているようじゃないデスか。異世界と商売して、けっこう儲けているんでしょ」
思考停止した。体に棒を差し込まれたようだ。
トルティアか! ……彼女には日本での事情を知らせていないから、やってくる人間は全て良い人だと思って何でも話してしまうんだなあ。
「それに、あんな可愛いこと仲良くなっていて、うらやましいデスよ先輩」
「お前には関係ないだろ」
そう言うと、やつは「冷たいなあ」とニヤけながら横を向く。
おとなしい性格の俺だが、こいつだけは殴ってやりたい。
「そう言えば、トルティアちゃんは医者みたいな商売をしているんデスよね」
上目づかいで俺を見て言う。
不快感が湧き出て体の芯から寒気がした。
「それって違法行為ですよねえ。薬事法違反とか医療法違反とか……警察に捕まっちゃいますよ」
目つきがいやらしい。何が言いたいんだ。
「まあ、私と先輩の仲ですから。チクるなんてことはしませんけどね……」
俺は何も言えない。告発されたら終わりだ。せっかく構築した日本でのトルティア薬局システムの危機。
「100万円で手を打ちましょう。それくらい先輩だったら用意できますよね」
この野郎! 口止め料をせびってきやがった。
大きく深呼吸して気分を鎮める。落ち着け俺。100万円で済むんだったら安いものだ。それで、この疫病神と手を切れるのだったら。
「分かった、100万円でいいんだな」
山口は目を大きく開いて意外そうな顔。
「簡単に言うんですね。かなり儲けているんだ……。じゃあ、やっぱり200万円でお願いします」
「ふざけんな!」
この野郎、俺の足下を見やがって。
「いいんですか、トルティアちゃんが警察に逮捕されちゃいますよお」
そのニヤけた顔が限りなく憎らしい。だが、ここはガマンだ、ガマン。
「分かった! 200万を払おう」
あはは、と山口が笑う。
「じゃあ、手数料を追加して合計300万円デス」
「手数料ってなんだよ! そんなに俺は払わないぞ」
山口は、むしり取れるときには際限なく奪っていくつもりだ。まるでダニみたいなやつ。
「払わなければ警察ですよ、け・い・さ・つ。協力した先輩もタダでは済まないデスよ」
腸が煮えくりかえるとは今の俺の状態。こいつを殺しても後悔することはないだろう。
「それとトルティアちゃんと恋人同士になりたいなあ。それには先輩が影から協力するように」
命令口調で、俺の前にビシッと人差し指を突きつけてきた。
怒りで頭の中が真っ白になる。
「やまぐちぃー!」
やつにつかみかかる。しかし、山口は俺の両手を振り払って後退した。
「忘れているようデスね。実家では師範代を務めたこともあるんですよ」
そうだった。山口は、何とか武術の免許皆伝という話。
「自分の立場も分からないようなら、ちょっと痛めつけてあげるデスよ」
やつは腰を落として右手を前に出し、左手を頭上に伸ばした。
俺は怖くなって黙り込む。静かな探偵事務所の中には、やつの腹式呼吸の音だけが流れている。
「チクショウ」
阿波踊りのような格好で身構えた。負けると分かっている戦いでも挑まなければならないときがある、男にはよう!
窮地に陥った俺。西側の窓から日差しが入り始めた。




