第32話、ブラックな後輩
俺はエクセルに今月の収支データを入力していた。
薄暗い西向きの事務所。ビルの4階を俺の自宅にしている。
「砂金の量が少なくなったなあ」
パソコンの画面から目を離して窓の外を見る。
低いビルが建ち並ぶ郊外。横浜の外れにある小さな町には活気がない。
異世界通商での最大収入源は砂金だ。
日本で銀を仕入れ、異世界で砂金と交換する。それを日本に持ち帰り、また銀を仕入れる。雪だるま式に膨らむ、その錬金術が俺の商売の根幹なのだ。
最初の頃は大量の砂金が手に入った。しかし、今では月に千グラムちょっとしか集めることができない。それを質屋で換金すると200万円にしかならない。。
その理由は明らかで、砂金の絶対量が少なくなったのだ。
シンヤードの佐藤商会で雑貨と交換したり、銀貨で買い取ったりしていたのだが、ほとんど採りつくしてしまったので、川ではたくさん採ることができなくなった。それはヤオジの村でも同じ。オモチャ欲しさに子供たちが競って砂金を採取したので、もう大量の砂金は残っていない。
砂金の在庫は百キロ以上ある。だから、しばらくは平気なのだが、将来的なことを考えると、砂金を得るための別の方法を探すか、それはあきらめて代わりのビジネスモデルを模索しかない。
「そんなにうまく事が運ばないもんだな」
イスの背もたれに体重をかけ、天井を見上げて大きくため息をつく。
事務机の上に置いてあるスマホが鳴った。画面には母の名前。
「はーい、浩一だよ」
俺が出ると、向こうからは母の控えめな声が聞こえてくる。
「浩一、久しぶり。元気だったかい」
「ああ、相変わらずさ。問題ないよ」
母さんは心配性だ。表向きは探偵会社に勤めていることになっているので、俺が暴力的なことに巻き込まれていないか心配なのだろう。まあ、コボルトなんていうモンスターに槍を突き刺したことはあるが……。
なんてこともない世間話などをした後に、母が言った。
「そういえば、山口さんから連絡があったよ」
その名前を聞いて背筋が寒くなった。
「……山口というと、前の会社で後輩だった山口悟志のこと?」
強烈な不安感に似た黒い気配が胃袋付近に広がる。
「そうそう、浩一のことを心配して電話してきたんだって」
「ああ、そう…」
「それで、電話番号と住所を教えてあげたよ。そのうち訪ねていくんじゃないかな」
なんで、そんな余計なことをするんだよ!
俺は心の中で絶叫した。息が荒くなってきたので、大きく深呼吸して整える。
「母さんさあ……、あまり住所とか他人に教えないほうがいいよ……」
なるべく平静を装って注意した。
「でも、人の好さそうな男の人だったから……」
俺の動揺に気付いたのか、申し訳なさそうな母親。
心が重い。俺は適当に切り上げて電話を切った。
「あの山口の野郎、何の用なんだよ……」
そこに誰かがいるように壁をにらみつける。心臓の鼓動が激しくなって、ブラック企業に勤めていたころのシーンがふつふつと頭に浮かんできた。
*
俺が高校を卒業して就職したのは、倉庫会社だった。
倉庫の管理だけではなく、荷物の配送もやっていた。それはハードな仕事で、残業代も出ないのに夜遅くまで書類作成をやったり倉庫の荷物を整理したりしていた。
普通だったら退職しているだろうが、学校を出たばかりの世間知らずの俺は、社会とは、こんなものかなと無理に納得し、我慢して働いていたのだ。
働き始めてから数年。心身ともに疲れ始めたころ、大学を卒業した山口が入社してきた。
中肉中背のスポーツ刈り。人懐っこいような笑顔の男。その新人の面倒は俺に任される。
これで少しは仕事が楽になるかと思った。しかし、それが大間違いだった。
山口はとんでもないやつで、仕事を覚える気がないし、遅刻はする。それに任された仕事でヘマを連発して俺を困らせた。失敗しても、すんませんの一言で片づける。まったく悪いと思っていない。
仕事が混んでいても体調が悪いと言って軽く休んでしまう。強く注意したら、むきになって反論してきた。やつは古武術の達人だというので、それ以上は怖くて言えない。
実家は古武術の道場を営んでいて、山口は子供のころから稽古を受けていたという。
ほっそりとした体形からは想像できないほど強く、学生のころに女の子が不良に絡まれていたところを撃退して助けてやったと自慢げに話していた。
優しそうな外見のせいで女子社員の彼への評判は良い。根暗の俺よりも山口の言うことを信用していた。
俺が女子社員に近づくと、あからさまに嫌な顔をして逃げていく。後で聞いたら、俺は女遊びが好きで悪い病気にかかっているという噂が広がっていた。
悪口を言いふらされて会社での俺の居心地が悪くなってしまったのだ。
ブラック企業の上司に言っても、取り合ってくれない。すべて先輩である俺が悪いということにされてしまう。
しばらくして会社を辞めた。
それからはアルバイトや派遣を渡り歩いたが、ブラック企業でのトラウマが残っていて人づきあいが下手になってしまっていた。
ついには仕事を探すのをやめて家に閉じこもり、ゲームに逃避する毎日を送るようになったのだ。
*
窓から見えるビルは、昼下がりの日差しに照らされていた。
もう少し時間がたてば、西日が部屋の中に入ってきて無駄に明るくなる。
「どこにでも嫌なやつというものはいるよなあ」
そいつがいなければ会社も少しは良くなるのだが、という人間は必ず一人は存在するものだ。
「まあ昔のことさ」
頭を振って、嫌な記憶を消そうとする。パソコンのように不要なデータを完全にデリートすることができれば便利なのだが、そうはいかないのが人間。また、ときどき思い出してしまうのだろう。
しかし、今の俺には今の明るい生活がある。商売に生きがいを見出しているし、仲間もいる。それにトルティアともうまくいっているのだ。
嫌な過去があるのなら、それをおぎなって、さらに有り余るような良いことをこれから積み重ねるしかない。
「さて、今日の昼飯は松屋にするかな」
俺は階段を下りて、3階のトルティア薬局に向かった。




