第3話、異世界は、いー世界
気がつくと地面に座り込んでいた。
さっきまで夜の公園にいたはずだが、空には太陽が輝いていて、目の前にはレンガ作りの家が建っている。
まるでゲームに出てくるような村。スタート地点にいて、これから冒険に行くというような場所だった。
コパルの言ったことは本当だったのか。
「これが異世界なのか……。ゲームと同じように行動すればいいのかなあ」
バッグを肩にかけると、俺はノロノロと立ち上がった。
辺りを見回すと他にもレンガ作りや木造の家がまばらにある。俺は近くの家に入っていった。まずはアイテム探しだよね。
中に入るとテーブルがあり、壁際にキャビネットがある。どうやら客間のようだ。
キャビネットの上に布袋が乗っていた。何気なく手に取るとズッシリ重い。口を開いて中を覗くと金色の粒がたくさん入っていた。
「これは砂金かな?」
質屋に持って行けば、いくらになるだろう。お宝ゲットだぜー。
ふとテーブルの上を見ると小さなガラスビンが置いてあった。中には赤い液体が口のところまで入っている。袋を置いてテーブルに近づく。
ビンを持ち上げると、それは手にすっぽりと入るくらいの大きさだった。中の赤い水が、どういうわけか背筋を震わせる。俺のDNAが飲め飲め、飲んでしまえと命令しているよう。
「飲んでみるかな……」
ガラスの蓋を少しねじって開ける。ゆるりと甘い香りが湧き出てきた。潜在意識に催促されるように俺はグイッと飲み干した。
「かはーっ」
喉と胃が熱くなって意識が薄れる。力が抜けていきショルダーバッグがすべり落ちた。ガラスビンの砕け散る音が遠くに聞こえた。そして体中が熱くなり、床にしゃがみ込む。
呼吸が苦しい。飲み物じゃなかったのか?
しばらくして楽になったので立ち上がる。風邪が回復した直後の、けだるさが混じった爽快感があった。
ズボンがストンと落ちた。かがんで、ゆっくりとズボンを上げる。
「あれっ」
ウェストが異様に細い。引きこもりの運動不足で小太り状態、サイズは90センチのはずだったが、腹は引き締まっていて、もう忘れていた腹筋も再現されていた。高校生の時を思い出す。
部屋を見回すと窓の横に鏡が取り付けてある。そこに行って自分の姿を見た。
写ったのは若々しい少年の顔。たるんだ頬と腫れていた瞼はどこに行ったのか……。俺は18歳くらいの自分に戻っていた。
「何をやっているのよ、あんたは!」
振り向くとドアの前で少女が目を見開いて立っていた。
小柄だが体の曲線は明確なラインを作り出している。ショートカットの黒髪にバンダナのような物を巻き付けていた。見た目は女子高生くらいの年齢。麻で作った着物のような物を身に付けている。
アニメ系アイドルグループの誰だったか……と似ているな。
大きな目、俺の顔と床に砕け散ったガラスビンを交互に見ていた。
「飲んじゃったの!? 高いお金を出して買ったポーションを飲んでしまったのね!」
彼女は俺の腕を両手で握りしめた。その可愛い目は殺気に満ちて俺をにらむ。
「トルタ! 早く来て」
彼女は俺を逃がすまいと手に力を込めている。
「どうしたの、トルティア姉ちゃん」
ドアの向こうから来たのは中学生くらいの男の子だった。少女と同じく浴衣のような着物。
「トルタ、この男を逃がさないで! おじいちゃんの回復薬を盗んで飲んだのよお!」
そうか、よく考えれば泥棒だよな。ゲームでは勝手に他人の家に入ってアイテムを探すけど、現実では法律違反になるよなあ。
俺は姉弟から後ろ手に縛られて床に座らされた。
「旅商人を探してくるわ。まだ近くにいるかもしれない」
そう言って少女は外に飛び出していく。
部屋の中には俺とトルタという少年だけ。
「どうしてそんなに焦っているんだよ」
トルタは顔をゆがませて俺の質問に過剰反応した。胸ぐらをつかんで持ち上げる。子供とは思えない力で俺を隣の部屋に引きずっていく。
部屋にはベッドがあり、そこに老人が寝ていた。白髪に白くて長い髭。80歳以上かな。息が苦しそうだ。何かの病気なのか。
「お前が飲んだポーションは僕のおじいちゃんの薬だ。お金をはたいて買った、大切な回復薬だったんだよ」
トルタの目には涙が浮いている。
「そう言われても……」
俺にはどうしようもない。どうしたらいいんだよ。
重苦しい雰囲気の部屋に、見知らぬ老人のせわしない呼吸だけが流れる。ああ、もう日本に戻りたい。
そういえば、どうして異世界の言葉が分かるんだろう。あの魔女が通訳の魔法でもかけてくれたのか。
しばらく考え込んでいると、トルティアがひとりの男を連れて帰ってきた。
茶色のフードをかぶった背の高い男だった。コートを着ていたので体格は分からないが、顔はシャープで目つきが鋭い。
「ポーションを譲ってもらうわけにはいきませんか」
トルティアは泣きそうな顔で頼む。
「いや、代金をいただかないことには渡すわけにはいきません」
その旅商人と思われる男は表情を変えずに答えた。
「そこを何とか、お金は後で必ず払いますから……」
少女が懇願しても商人は首を横に振る。
ため息をつき、天井を見上げる少女。その視線は移動して俺の顔に到着した。
「そうだ、この男を買ってくれませんか」
はあ? 何を言っているんだよ。このアニメ系アイドル顔の少女は!
「ちょっと待ってくれよ! 俺を買ってくれって、どういうことだ」
「あんたが薬を飲んだのが悪いんでしょ! 奴隷として売り飛ばしてやるわ」
マジかよ、この女。俺は縛っている縄を外そうともがいた。
彼女にクレームを付けようとして立ち上がると、商人が首を振って言った。
「いや、男は売り物にならない。女だったら別だが……」
商人は目を細めてトルティアの体をチェックする。彼女は両手を握りしめて口を固く結んだ。
不意にゴトリと音がした。緊迫した空気の中で発せられた異音に、皆が床を見る。
それは赤いスマートフォンだった。俺の胸ポケットから落ちたらしい。
「それは何だ」
商人の男が食いつくような目でスマホを見ている。
「それはスマートフォンですよ……」
どう説明したら良いものか。
「スマート……フォ……?」
男が拾ってひっくり返しながら眺めている。
「うーん、この製法が分からない。魔道具なのだろうか……」
まあ、この異世界には携帯電話なんてものはないだろうからな。中古で買った5000円の安物なんだけど……、お金がないので通信契約はしていない。ネットゲームの合間にやっているスマホゲーム用だ。
「少年よ、これはどうやって使うのだ」
トルティアに縄を解いてもらってから、スマホを手に取ってスイッチを入れた。指紋認証で起動させる。
試しに男の写真を撮ってみた。
カシャンという確認音がして、商人の顔がディスプレイに表示される。俺は男に見せてやった。
「おお! これは……」
男は目を丸くして画面に見入った。
「うーむ、風景を切り取る魔道具なのか」
驚かれても困るな。そんなたいそうな物じゃないよ、おっさん。
「これを売ってくれないか」
「売ってくれと言われても……」
異世界の貨幣基準が分からないからなあ。そうだ、あれがいいな。
「ならば、ポーションというやつと交換でどうですか。あの赤い水が入っているやつ」
俺が交渉する。
「分かった」
商人は二つ返事でバッグからガラスビンを2個、無造作に取り出した。例の回復薬だ。それを俺に渡すと、何も言わずにスマホを大事そうにバッグに入れた。
「では、私はこれで」
無愛想に商人は去って行った。
あれで良かったのかな。スマホの使い方も聞かずに持って行ったけど。電池が切れたら使えなくなるよな。後で説明書をネットで拾って渡してやるか。
トルティアの方を向くと、彼女の視線は俺が持っているガラスビンに集中していた。
「これでいいよね」
ポーションを渡すと、震える手で受け取る。せっかくの薬だ、落とすなよなあ。
トルティアは隣の部屋に行った。ポーションをおじいさんに飲ませたようで、ずっと聞こえていた荒い呼吸が和らいでいった。
「ありがとう……」
戻ってきたトルティアが済まなそうに下を向いて礼を言う。
「別にいいよ。俺が悪かったんだからさあ」
さて、これからどうするかと考えていると、トルティアが物欲しそうに、私が持っていた、もう一つのポーションを見ていることに気がつく。
「これもやるよ」
ガラスビンを差し出すと彼女の顔が明るくなる。
「いいの?」
「ああ、おじいさんに使ってくれ」
「ありがとうございます。でも、何か礼をしないと」
礼? 俺はふと、彼女のボリュームのある胸を見た。いや、ダメだ。俺は何を考えているんだ。視線を外して壁を見る。
「えーと、そうだなあ。じゃあ、そこにある布袋をもらおうかな」
棚に置いてある袋に近づく。それには砂金が入っていたはずだ。
「ダメだよお。僕が苦労して集めたのに」
トルタが口をとがらせて袋を取っていった。
「いいじゃないの、そんなの川でいくらでも取れるでしょ」
トルティアが弟から布袋を強引に奪った。そして、笑顔とともに俺に差し出した。
「どうも、どうも」
俺も笑顔で受け取る。
しかし、砂金がいくらでも採取できるのか。いい世界だな、この世界は。ゴールドは貨幣や流通とは関係ないのか。物の価値基準が日本とは違うようだ。
袋はズッシリと重い。しばらくは遊んで暮らせるかな。俺はにんまりと笑って日本のことを考えた。帰ったら何をしようかな。お金があれば何でもできる世界だからな。
するとあたりに霧がかかったように周りが白くなってきた。
「あれ、貧血かな」
自室でゲームばかりやっていたとき、ちょっと立ち上がっただけで倒れて動けなくなったことがある。しかし、気分は悪くない。
次第に風景が白く光り出し、やがて真っ暗になった。