時計屋さん
町外れに、小さな古そうな店を見つけた。辺りは木々に囲まれており、ひっそりと佇んでいる。木製の建物で、ドアには「OPEN」と青いインクで書かれたプレートがひっかけてある。プレートの少し上にある小窓から中が見えた。壁には柱時計や丸い掛け時計がいくつも配置され、商品棚には腕時計などの時計が置かれていた。店の奥に作業スペースがあり、そこで1人のおじいさんが時計とにらみ合いっこしている。
なにをしているのだろう。私は気になり、入ってみることにした。
ドアをゆっくりと押し、中に入る。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうにおじいさんは言った。視線は時計にあり、私の方はちらりとも見なかった。
チク、チク、チク……。
幾つもの時計が1つもずれることなく同じ時を刻む。現代のようなデジタル時計はなく、アナログ時計ばかりだ。建物が木製で、時計の殆ども木製で作られているからか、店内は木の独特なにおいがした。
壁にかけてある時計を見ながら、おじいさんのもとに近づく。
コの字に台があり、ドアと正面になるところは会計スペース、その奥が作業台になっているようだ。
おじいさんは私の方を見向きもしない。ルーペを目に当て、時計を直している。
眉間と鼻の頭にシワを彫り、細い金属製の棒を時計に押し込んでくるくると回していた。
「あの、実は直して欲しい時計があるんです」
上着のポケットから小さな時計を出した。ガラスが一部割れ、時刻は16:27で止まっている。おじいさんは手を止め、私の時計をじっと見た。おじいさんは、短く白い髪を軽く撫でると「わかった。すぐできるからそこで待ってなさい」といい、私の時計を手に取った。
「お嬢さん、あなたは過去に戻れたらと思ったことがあるかね」
時計をじっくりと見ながら独り言のように小さな声で私に問いかけた。
「あります」
おじいさんは「そうか。その時のことを強く思い出してごらん」と呟いた。
私が戻りたい過去。それは、15年前の当時記録的な暑さを更新したあの日。
母が、交通事故で死んだ日。
「おかあさん、アイスかってきてー」
「わかったわ。おねえちゃんは?」
小さなショートヘアの女の子が、若い母親におねだりしている。
風鈴が縁側に吊るされ、蒸しかえるような暑い空気を清い音で裂いて、扇風機が部屋の空気をかき混ぜていた。
ここは。ああ、わかった。あの日だ。ここは家だ。あの日もこんな会話をした。どうしてタイムスリップしたのかわからない。けれど、またお母さんを死なせる訳にはいかない。小さな女の子は、私の4つ下の妹だ。少しでも、家を出る時間をずらさないと。たしか、あの時私は「私も欲しい」と即答した。
だから……。
「んー……どうしよう」
少しでも時間を稼ぐ。できるだけ悩むふりをして、家を出る時間を遅らせるんだ。
腕を組んで、うーんうーんと唸る。
「なにがほしいのかなぁー?」
お母さんは私の顔を覗き込む。懐かしい、お母さんの顔だ。すみれのようなしとやかな笑み。
私の大好きな匂い。心が落ち着いて、あたたかくつつまれているような、そんな匂い。
こどもらしい笑顔を作って、お母さんに足に抱きついた。
「私も、おなじのがいい」
「わかったわ、それじゃお留守番しててね。すぐに帰ってくるから」
お母さんは言うと、私と妹の頭を優しく撫でた。この行動は前と同じだ。
鞄と財布を持ち、玄関で靴を履いているお母さん。もっと時間を稼いだほうがいいのだろうか。
「おかあさーん!」
リビングから玄関までパタパタ走って、わざと足を絡ませて転んだ。お母さんがぎょっと目を剥いて、靴を脱ぐ。私に駆け寄り、軽い体を抱き上げて立たせた。
「大丈夫?」
「うんっ! こけちゃった」
舌を出して笑ってみせると、お母さんは「もうっ」と頬を膨らませて、それからクスリと笑った。
「じゃあ、いってくるわね。いい子にしてるのよ」
靴を履いて、玄関のドアを押して外に出ていった。去りゆくお母さんの背中をじっと見つめて、脳裏に焼き付けることしか出来なかった。
少しは前よりも家を出る時間を遅らせる事ができた。
あとは、お母さんが返ってくるのを待つしかなかった。
私はリビングにかけられた時計をずっと見つめていた。秒針の動きが遅く感じる。しかし、私の心臓は早く脈打っていた。
夏の暑さは扇風機だけで凌ぐのは少しばかりきつい。汗が日に焼けた肌を滑り落ち、喉はひび割れた砂漠がそこにあるようにカラカラだった。つばを飲み込むとちょっとだけ痛くなる。汗が床に落ちて、水溜りを作っていた。
妹は扇風機の前に座り「あー」と声を出して遊んでいる。
ヒグラシが澄んだ鳴き声を響かせて、風鈴の涼しげな音と演奏をしていた。
もうすぐで16:27を迎える。お母さんが返ってくるまで油断はできない。
その時の1分はとても長く感じた。
お母さんは無事だろうか。事故してないだろうか。ちゃんと帰ってくるだろうか。
16:30。16:32。16:33。
時間は容赦なく過ぎていく。
その時、玄関のドアが開く音がした。
お母さんが帰ってきた!
玄関まで急いで走る。
よかった、過去を変えることができたんだ。
「おかあさ――」
しかし、玄関に行くとそこにはお母さんの姿はなく、隣に住むおばちゃんが回覧板を持ってきただけだ。
お母さんは事故にあってしまったのだろうか。お母さんを救うことができなかったのだろうか。
私になにか話しかけているけど、私の耳には届いてなかった。水の中にいるみたいに声がぼやけて聞こえた。
おばちゃんが何かをいい終えて、私の頭を撫でると、おばちゃんはでていった。
回覧板を両手で抱いて、陽炎のようにゆらゆらとした足取りでリビングに戻る。
だめだったんだ――。
部屋に入った瞬間、意識が遠のいた。
「お嬢さん、時計なおりましたよ」
おじいさんはルーペを外して、答えた。
「あ、ああ。ありがとうございます」
おじいさんから時計を受け取って、まじまじと見た。
時計の針はちゃんと時を刻んでいる。ここの店に来て30分ほどしか経ってなかったのかと内心驚いた。
鞄から財布を取り出して、おじいさんに尋ねる。
「いくらですか」
「お代はいらないよ」
「でも……」
「いいんだ、大丈夫」
あれだけぶっきらぼうに「いらっしゃい」と言っていたおじいさんが、歯を見せて笑った。
落ち着いた口調で、
「いいんだよ」
おじいさんの優しさに甘えよう。
「わかりました。ありがとうございます」
私はおじいさんにお礼をいうと店をあとにした。
母の形見である時計。それを直してもらった優しさと、夢でもお母さんに会えたことの嬉しさで、つい口元が緩んでしまう。
夕日に染まる道をしばらく歩いて、なんとなく後ろを振り返った。
「えっ」
思わず声が漏れた。
そこにはお店などなくて、ただ1本の大きな木が生えていた。
おかしいな、確かにあそこにあったのに……。
頭の片隅で、お店のことを考えながらまたあるき始めた。
「ただいまー」
誰もいない家に帰ってきて、寂しく「ただいま」という。それが日常だ。
静まり返った廊下に私の声がとける。
ドアを閉め、靴を脱ぐ。
「あれ……」
おかしい。靴が一足多い。妹が帰省したのだろうか。なら、事前に教えてくれているはず。妹じゃないとしたら誰が? まさか泥棒?
息を潜め、足音を立てないようにあたりを見回しながらリビングに向かう。
床が時々ミシッと乾いた音を立てる度心臓が大きく動いた。
110? 119? どっちだっけ……。
リビングからは微かに明かりが漏れている。誰かがそこにいる。
指先が震え、心臓はうるさいほどに脈打った。つま先まで心臓の音が響いて、嫌な汗が滲む。
スカートをきゅっと握り、ゆっくり深呼吸をした。
一歩、また一歩、リビングに近づく。
一度足を止めて、耳を澄ますと鼻歌が聞こえた。聞き覚えのある鼻歌。
この曲はお母さんが好きだった曲。
いや、でもまさか。そんなはずがない。でも、あの時私がお母さんを助けられているのだとしたら、リビングにいるのはお母さんなのだろう。
ドアの取手に手をかけ、音がならないようにそっと開ける。
台所にある人影。女性。
リビングに足を踏み入れた瞬間、その女性が振り向いた。
「あらおかえり」
お母さん。
15年前より老けているが、そこにいるのはたしかにお母さんだった。15年ぶりの再会。やり直したあとのわたしからすれば、毎日あっていたのだろう。お母さんからしてもそう。
お母さんがいる。あの頃、私より大きかった背中は、私より小さくなって。私より大きかった身長は、私より小さくなっている。
お母さんの笑顔は変わらない。優しい声も変わらない。
私の声は震えていた。
お母さんは、首を傾げると私の方に近づき「どうして泣いてるの?」と尋ねた。
指を目尻に当てると、生ぬるい水滴が指についた。
泣いている。
喉が引きつり、ふっと息が漏れた。目の辺りが熱くなって、視界がぼやけていく。
私は、何も言わずお母さんに抱きつき、声を上げて泣いた。
お母さんは困ったように笑って、「もうっ」と言って、私の頭を優しく撫でた。