駅前本屋の不審者
「待て! この万引きが!」
全力疾走のつもりが、男との距離はどんどん開いていく。紫織は自分の運動能力の低さを呪った。身体は重くて前に進まないくせに、人通りの少ない駅前通りに情けなく足音ばかりを響かせる。それは蝉の声に負けず劣らずうるさかった。
必死に走り続けたものの床屋の前でついに足が動かなくなって、紫織は膝に手をついた。しかしそのとき、一人の金髪の青年が紫織を走り抜いて行った。青年はあっという間に万引き犯に追いつくと、抱えていたコミックス『君との関係を例えるなら』一から三巻を引っこ抜いた。万引き犯の男は驚いて、そのままつまずきながら逃げ去っていく。
紫織が唖然としていると、青年がゆったりとした足取りで近づいて、取り返した『君との関係を例えるなら』を差し出した。
「はい。泥棒は逃しちゃいました。すみませんね」
申し訳なさそうに微笑む金髪の青年に、紫織は口をぱくぱくさせた。重力に逆らったような髪形、異国情緒漂うはっきりした目鼻立ち。そんな紫織の人生ではそうそう関わることのない美青年相手に、紫織の顔は何故か見る見るうちに青ざめていった。
「えっと……俺、何かしましたか?」
戸惑う青年に対し、紫織はしどろもどろになりながら、質問をぶつけた。
「あ、あなた、バルド・シュニッツラー?」
「どうして俺の名前を?」
金髪の青年、バルドは質問を質問で返した。
「イザーク・ホラントに仕えてるビスカイア王国の聖騎士?」
そして、またも紫織の質問がぶつけられる。今度は早口だった。
「そうだけど……」
バルドは主人イザークの名が呼び捨てされることに反感を覚えたが、口には出さない。
遠くから車の通り過ぎる音が聞こえる。ついさきほどまで青ざめていた紫織の顔は紅潮していた。
「ニシンが苦手で、拭き掃除にやたらとこだわりがあって、朝起きたら自己流のストレッチをしないと気が済まないあのバルド……?」
「なんでそんな個人情報知ってるんだ!? 流石にキモいぞ!?」
バルドはつい声を荒らげた。敬語も吹っ飛ぶ。そんなバルドにはお構いなしに紫織は歓声を駅前通りに響かせた。
「やっぱりバルドって『オルダント戦記』の登場人物のバルドじゃん! すごい! 夢じゃないよね!? やればできるじゃん! リアル! 最高かよ!」
叫び声に驚いて、電線に止まっていた雀が驚いて全て逃げていった。
「はしゃぎすぎた……。ごめん、バルド」
「いや、もういいさ」
こんな炎天下の中、立ち話もなんだから、と紫織はバルドを本屋へ招いた。
本屋に戻る最中ずっと、「ヤバイ」「最高」「辛い」「泣きそう」などの単語をぶつぶつと呟いていた。が、本屋の従業員室に入りお茶の準備をしているうちに、だいぶ冷静さを取り戻してきたらしい。今はバルドと机を挟んでパイプ椅子に腰掛け、恥ずかしさのあまり顔を両手で覆い隠してうなだれていた。
「なあ、俺が本の登場人物だって言うなら、ちょっと本の中の俺を説明してくれよ」
「良いけど、今あなた何してるところ?」
「一月後のエディナ王国との戦のために物資調達を行っているところだ」
「うん。四巻くらいだね」
深呼吸を一つして、紫織は語り始めた。
バルド・シュニッツラー。『オルダント戦記』に登場するビスカイア王国の聖騎士。名家ホラント家の若き当主イザークに仕える。戦闘能力は高く、オルダント大陸一の槍の腕を持つと言われている。三巻ではエディナ王国第七部隊の作戦担当リックを倒す。シュニッツラー家は騎士を多く輩出しており、女騎士テレーゼはいとこである。人気キャラであり、二次創作も多い。
「そして当然フィクション」
「俺の存在をフィクションと言うか」
「まあ実際そうだからね」
紫織は百均のコップに注いだ麦茶を一気に飲み干した。バルドにも用意したのだが、一度も口を付けていなかった。
「そういえば、挨拶がまだだったね。私は本庄紫織。この書店のアルバイトをしています。でもって!」
紫織は勢いよく立ち上がった。パイプ椅子が倒れて、店のレジから「紫織ちゃん、うるさいわよー」という間の抜けた店長の声が聞こえた。
「あなたのファンです!」
雀たちを一掃したあの大声が店内に響き渡る。一瞬見せた冷静さは何だったのだろうか。
バルドが度肝を抜かれていると、紫織は目を輝かせて手を差し出した。
「握手、して、もらえませんか!」
「いいけど……」
バルドも手を出すと、紫織がその手を握ってぶんぶんと上下に振った。
「こうやって見ると、やっぱりかっこいいなあ。目力がすごい。ヤマト先生の挿絵最高だよね……」
「はあ」
自分の外見を絵だと言われるのは不快だった。自分にとってはこの外見は先祖から受け継いできた遺伝的なものだ。
「おい。俺はまだ、自分が小説の登場人物だなんて信じてないからな」
「え、あんなに説明したのに?」
紫織は手を離して口をぽかんと開けた。
「たしかに、お前の話した俺の情報に不自然な部分は無かった。でもな、お前、逆の立場なら信じるか?」
「信じないに決まってんじゃん」
「ほら」
バルドは脚を組んで頬杖をついた。麦茶を口に含むと一瞬顔をしかめたが、何も言わなかった。彼のいた世界にこんな奇妙な味の飲み物は存在しない。
「でも、うちの店ではよくあることらしいよ?」
バルドが訝しんでいると、紫織は倒してしまったパイプ椅子を起こして座り直した。
「半年に一回くらい本とか漫画の登場人物が出てくるらしい」
「嘘だろ」
「『本の登場人物に会えるかも!?』ってキャッチコピーで求人出してあった」
バルドがため息をついた。
「お前それ信じたのか?」
机に突っ伏すと今度は紫織の方がため息をついた。
「信じてたわけないじゃん……。全部店長たちの作り話だと思ってたよ……」
紫織は思いっきり脱力して手脚を投げ出した。
「まあいいさ、それを議論したって答えは出ないだろう」
バルドはそんな無意味な議論に時間を費やしたくなかった。
「俺たちが小説の人間っていうのが本当だって言うなら、俺たち、次の戦でエディナ王国に勝てるのか、教えてくれよ」
この質問が有意義かも怪しい。しかし、先ほどの議論よりはましに思えた。
「教えられません」
「なんでだよ」
すまし顔の紫織に、バルドが間髪入れず噛みついた。
「昔、この書店の店員が登場人物に展開を教えちゃって、バットエンドの本をハッピーエンドに変えちゃったことがあるのよ。だから、これから起こることは教えられない。だからさっきも、ああやってバルドの現状を聞いたのよ。どこまで話して良いのか見極めるために」
「未来を変えられると困るのか?」
「らしいよ」
紫織ははぐらかすような返事をして、麦茶を飲んだ。バルドにはその返答が気に食わなかった。こんなふざけた奴に自分より優位に立たれるのは癪だ。
「本当は、お前にもどうなるのか分からないからじゃないのか?」
冷笑してみるが、紫織は冷静だった。
「『オルダント戦記』はまだ完結してないけど、その戦は終わったわよ」
紫織はコップを机に戻すととニヤリと笑った。
「まあ結果は教えないけど」
踏ん反り返る紫織。バルドは諦めて、話題を変えることにした。
「じゃあ、主人公って誰なんだ?」
「教えられません」
またもぴしゃりと言い放った。
「未来のことじゃないのに駄目なのかよ」
「駄目です」
自分がもてあそばれているようで、バルドとしては面白くない。
「イザーク様か? アレクか? はたまたテレーゼか?」
「言いませんよ。っていうか、自分が主人公だとは思わないの?」
「え? 俺?」
声が裏返ってしまった。くすくす笑う紫織をバルドは思いっきり睨みつけた。
自分が主人公。バルドにとって、それは考えたこともなかった可能性だった。
「うん。そんな驚く?」
紫織は呆れたように笑った。
「紫織ちゃん、お取込み中悪いけど、ちょっといい?」
店長が従業員室を覗き込んできた。
四〇歳くらいの女性で、バルドが軽く会釈すると、微笑みながら会釈を返した。
紫織とは真逆で、すごい落ち着きようである。
「あ、いいですよ! バルド、少し待ってて!」
紫織は立ち上がると、手を振って店の表へ出ていった。
「店長が言ってたことって本当だったんですね!」
紫織は遠慮なしの音量でそう叫んだ。
店内の端の参考書コーナー、従業員室から一番遠い場所だが、この声は従業員室のバルドにも聞こえているだろう。
この田舎町では駅前通りの店だろうと、閑古鳥が鳴く。
それでもこの書店がやっていけてるのは近くの高校の教科書販売を担っているからだった。
そんなわけで、相変わらず店内には客が全然いなかった。
「そうよ。本当だってずっと言ってたでしょ」
店長は前のめりになって紫織に聞いた。
「元の世界に帰らせる方法、分かってるわね?」
バルドが元いた世界に帰る。当たり前のことだが、紫織は忘れかけていた。
「もうちょっと話したかったんだけどなあ……」
紫織は頭を掻いた。店長は話を続ける。
「日が落ちるとき、この店の中で、その登場人物が元居た小説の元居たページを開く。それだけで良いわ。逆に、そのタイミングを逃せば元の世界には戻れなくなる」
紫織に言い聞かせるようにゆっくり力強く語る。紫織は、普段とは違う店長の雰囲気に圧倒された。それだけ、重要なことなのだ。
紫織が大きく頷くと、店長は表情を和らげた。
「どっちにしろ、日が暮れるまでは帰れないんだから。あと少し、お喋りできるわよ」
「じゃあ戻っても……」
そう言ったときにはもう、紫織はスタンディングスタートの体勢になっていた。よっぽどバルドと別れるのが惜しいらしい。
「ちょっと待って、紫織ちゃん!」
慌てて引き止めると、店長は声を潜めて紫織に聞いた。
「ねえ、あのキャラってあなたが好きな小説の登場人物?」
「『オルダント戦記』からのキャラです」
そのタイトルを聞いて、店長は苦笑した。
「それってこの前、人気キャラが亡くなったってあなたが号泣してた小説よね」
紫織はこくりと頷いた。
「あの人がその人気キャラです」
「嘘でしょ」
『オルダント戦記』は二年前から刊行されているファンタジー小説である。大陸南部の小国エディナ王国が大国三国の連合支配を抜け出すため戦うストーリーとなっている。主人公クルスが幼馴染たちと共に兵士となるところから物語は始まる。クルスたちに身分は無いが、実力登用のエディナ騎士団でクルスたちは見る見るうちに頭角を現してゆく。やがて幼馴染たちで一つの大部隊を率いるようになっていく。だんだんと強い部隊へと成長していき、人々の希望となっていくのだが……。
三巻で幼馴染の一人で唯一無二の頭脳派リックが敵国の聖騎士に殺されてしまう展開は多くの読者に衝撃を与えた。
しかし、先週発売の最新第五巻でついに主人公クルスは聖騎士に復讐を果たすのだった。
その聖騎士こそ、バルドだった。
リックの死も辛かったが、バルドの死もとても辛かった。
今でも思い出すと涙が出てきそうだ。
紫織はバルドの元へ戻る前に、本棚の陰に隠れて頬を両手で叩いた。笑顔を作ると、バルドを待たせている従業員室に入った。
しかし、そこにあるのは飲みかけの麦茶だけだった。
慌てて店内を探して回ると、バルドは店内の出入り口付近の、新刊コーナーにいた。
店長と店の隅で話していたので、バルドが従業員室を出たことに気付かなかったのだ。
背を向けているのと逆光になっているのとで、はっきりとは判らないが、本を読んでいるらしい。
紫織は胸をなでおろした。忍び足でバルドに近づくと、表紙を覗き込んだ。
『オルダント戦記 五』
「えっ……」
紫織が思わず声を上げるも、バルドは微動だにしない。
なんと声をかけて良いのか分からず、バルドの隣で紫織があたふたしていると、バルドがおもむろに口を開いた。
「俺、イザーク様をかばって死ぬんだな」
紫織は答えられなかった。夕日を受けた異国人の横顔は儚げで、胸の奥に重くて暗いものが溢れ出してくるのを感じた。
「主人公はあいつらの方だったんだな」
目頭が熱くなっていく。せっかく、隠し通そうとしたのに……!
「この前俺が殺したのは主人公の親友だったんだな」
紫織は、涙が零れ落ちるのを抑えられなかった。
バルドは目を伏せた。本も持つ手が震えていて、自分が情けなかった。
「だからお前は未来のことも主人公のことも教えてくれなかったのか」
本を閉じて紫織を見遣ると、紫織は顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れていた。
「なんでお前が泣くんだよ」
これじゃ自分は悲しめないじゃないか。バルドはそう思ってしまった。
「だって……バルドもっと、イザークと一緒に……生きたかったはずなのにっ……テレーゼにも……好きだって、伝えず仕舞いになっちゃったしっ……」
「お前、なんでそんなことまで知ってるんだよ……」
自分の心情を全て言い当てられて、恥ずかしくてたまらない。
「だって……全部読んだから……!」
バルドは黙り込んだ。紫織のすすり泣きとたまに通る車のエンジン音だけが聞こえていた。
誰にも言ってなかったのに。
ずっとイザーク様の隣にいたいことも、テレーゼを好いていることも。
そしてこの小説の文章に、そんなことは明言されていないようなのに。
気づいていたんだ。こいつは。
紫織は涙を拭って、何度も深呼吸をした。
窓の外の空はもう橙色に染まっている。
ようやく落ち着くとバルドに向かって話し始めた。
「今日一日この世界にいたら、あなたは元いた世界の元いた時間には戻れなくなる。でも、それってつまり、未来が変わるってことなの。だから……」
「帰る方法を教えてくれ」
バルドは強い口調で遮った。
「帰っても、未来は変えられるけど……」
「誰が未来を変えたいなんて言った」
ーーその声は穏やかだったが、底冷えするほど強い意志が籠っていた。
紫織はその一文を思い出した。小説内の描写の通りだ。
でも、それを認めたくない。
紫織は顔を強張らせて首を横に振った。
「だって死んじゃうんだよ、バルド……! 怖くないの?」
「でも、俺はイザーク様を守り抜いたんだろ?」
紫織は頷いた。この戦でバルドの祖国ビスカイア王国は大敗するが、イザークは奇跡的に生き延びる。
「俺が下手なことをしたら主人を守り抜ける未来を壊してしまうかもしれない。だったら俺はその決まった未来に向かう」
紫織は、バルドならそう答えると初めから知っていた。
そういうキャラクターなのだ。彼は。
「やっぱり強いね、バルドは」
「強いんじゃない。イザーク様を 失う未来が怖いんだ」
「人間離れしすぎだよ……現実の人間じゃそんなことしないよ、できないよ……」
誰かのために自分の命を犠牲にするなんて。簡単にはできない。しかもその運命が決まっているなんて、酷過ぎる。
「本の中の登場人物だからな」
バルドは穏やかに笑ってみせた。
だから、バルドは人気キャラなんだ。紫織はそう心の中で呟いた。
だから、バルドが死ぬと、あんなに悲しいんだ。
「主人公はエディナ王国の方なんだろ? 俺が未来を変えてしまったら、主人公は困るんじゃないのか? どうしてお前は俺にそんなことを言うんだ? 敵に感情移入して読んでいたのか?」
バルドが質問攻めを始める。もう、時間は残っていない。
「主人公のクルスも好きだよ……でも」
ようやく落ち着いてきたところだったのに、紫織はまた肩を震わせ始めた。
「バルドのことも、大好きだったんだよ……! イザークもリックもテレーゼも…みんなみんな大好きなんだよ……!」
また紫織は泣き出した。でも、それがバルドを冷静にさせていく。
自分の成すべきことを、浮かび上がらせていく。
「どうやったら帰れる?」
「元いた場所の……本のページを……本文1ページ目……」
紫織はしゃくりあげながら、何とか答えた。
「本の1ページ目を開けばいいんだな」
「うん」
「ありがとな」
「うん」
紫織は悔しくてたまらなかった。言いたいことは山ほどあるのに、涙が邪魔して何も言えない。
バルドが光に包まれて消えてく。小さな光の粒がバルドを包んでいく。暖かな光に、紫織は見とれていた。
バルドがふと思い出したように口を開いた。
「一つ頼んでいいか、紫織」
「何?」
「俺のこと」
「忘れないでくれ」
その言葉が聞こえたのと、彼の姿が消えたのと、同時だった。
『オルダント戦記 五』が床に落ちた。
紫織は涙を拭うと、何の変哲もないその本を拾い上げて、汚れを払ってレジへと持って行った。
この本を、この想いを、ずっと抱いて生きて行くんだ。
それが、彼らの存在意義。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!