幕間2 リリーの商談
「ふぅ……」
いけませんね、レディがため息などついてしまって。
まして、交渉自体はとても上手く進んでいるのですから、本来はため息をつく理由などないはずなのです。
「リリー様? アルト様がスキルを使われて消えてしまった時、リリー様は見事に場を収められたではないですか。胸を張ってください」
向かいの席で馬車に揺られるアガサが励ましてくれます。
「ありがとう、アガサ。ですが……ほとんど全てをアルトさんに頼ってしまっているのは、情けないことです」
今回のベルグ族との交渉、その成果のほとんどの部分はアルトさんによってもたらされました。
特にポイントだったのが化粧水。
毎日、全身の毛を剃らなければならないベルグ族にとって、化粧水はとても有用なものです。間違いなく、今後の交易の軸になるでしょう。
あのタイミングでアルトさんが気付いてくださらなければ、ここまで交渉は上手くいってなかったでしょう。なんの成果も得ることなく引き返すことも有り得たかもしれません。
また、そもそものお話として、ベルグ族の皆さんの声を私達が聞き取れない理由を推測してくれたのもアルトさんです。
もしもアルトさんの推測通り獣人がベルグ族の声を聞き取ることが出来るのならば、ベルグ族との交渉は間違いなく加速します。
これではあまりにもアルトさんに頼り切りではありませんか。それでいて、私たちはアルトさんに何も報いることが出来ていないのです。
情けない。
アルトさんの前で胸を張っているために、何か自分も交渉の役に立ちたいと考えてしまっている自分の浅ましさに気付き、胸が締め付けられます。
自分のための交渉ではないのだ、これは私たち辺境伯家とベルグ族の未来のための交渉なのだと言い聞かせても、浅ましい自分はいなくなってはくれないのです。
「化粧水もそうですが……きっと思いもよらないモノがベルグ族の皆さんには喜ばれるのでしょうね」
アガサがまるで独り言のように呟きます。
そう……これはある程度情報が出揃っている交易とは違います。
相手が何を必要としているのか、それを一から考えないといけません。
しかし、まだベルグ族の皆さんとのまともな交流は始まったばかり。相手方の需要を推測する材料は少ない。
その中でも……何か……。
「あっ!」
一つ、思い当たる節があります。
それは私たちが使っている文字を学ぶための教科書です。
辺境伯家に帰る直前、族長のゴメスさんから頼まれたのです。人間が使っている文字を覚えたいと。
ベルグ族の皆さんが文字を覚えてくだされば、さらに深い交流が可能になるでしょう。
例えば交易においても、文書を用いた契約を交わすことが出来ればより信頼性が増します。なので、この申し出は非常にありがたいです。
当初、私は族長さんにアルトさんに渡したものと同様の教科書を渡そうと考えていました。アルトさんが森の中で独学で学べるようにと選んだ本なので、自信を持ってお渡し出来るからです。
ですが、ここにもう一工夫出来る余地があるのではないかと思うのです。
何か、ベルグ族の皆さんが興味を持ってくれそうな、“おもしろい”モノ。考えなさい……リリー。
「……あぁっ!」
「どうされましたか!? リリー様?」
思わず大きな声を出してしまった私に、アガサが心配そうな顔で問いかけてくれます。
「思いつきましたよ、アガサ! ベルグ族の皆さんに喜んでもらえるかもしれないお土産が!」
※
一度辺境伯家に帰り、ベルグ族の皆さんにお見せするための化粧水などを買い集めた私たちは、急いでベルグ族の里があるゾルデギルへと戻りました。
領地の経営の実務を担う家臣の中でも上位に当たる人間が同行していることに、交易が前に進んでいることを実感させられます。気が引き締まりますね。
「リリー様、申し上げるまでも無いかもしれませんが、ベルグ族の皆さまは化粧水をとても喜んでいただいているようです」
犬の獣人であるジョンが、少し肩肘の張った敬語を使って私に報告してくれます。
「そのようですね。喜んでいただけて本当に嬉しいです」
声は全く聞こえませんが、ゴメスさんを初めとした皆さんが喜んでくださっているのは見ていて分かります。とても素直に喜びを表現するその姿は、なんだかかわいらしくも感じます。
「族長さん。少しよろしいですか?」
タイミングを見計らい、私はゴメスさんに声を掛けます。
「こちら、ご依頼をいただいていました、文字を学ぶための本です」
まずは教科書をお渡しします。小さい子供が一から文字を学べるように分かりやすく編集されたこのシリーズは、私もお世話になりました。
「リリー様。族長殿がお礼を申し上げるとのことです」
ジョンからの通訳を受け、私は笑顔を作ります。
次が、勝負の一品。
果たして喜んでもらえるか……ですが、勝算はあります。
「族長さん。実は、もう一冊お渡ししたいものがあるのです」
そう言って私は、大急ぎで製本した一冊の本を取り出します。
表紙に描かれているのは、整った顔をした男女の絵。男性の方は貴族のような出で立ちをしており、女性は平民の装いです。
「これは、“マンガ”というものです。いかがでしょう?」
“マンガ”とは絵本とは似て異なるモノです。
絵本のように一枚の絵ごとに物語を書いていくのではなく、何枚もの絵を使って物語を進めていく形態の本。初めて読んだとき、私はまるで絵のお芝居を観ているように感じました。
現在、複写する方法を模索していますが、残念ながらもうしばらく時間がかかるでしょう。その大半が絵で構成されているため、手作業以外の方法が見つからないのです。
今までに無い、全く新しい本。
それはアルトさんのアドバイスの下、メアリーの手によって生み出されました。
かわいらしい猫とネズミの絵本を完成させたメアリーに、アルトさんが提案をされたのです。“マンガ”を描いてみないかと。
そのうえで、相当な苦心の末にメアリーにその描き方を伝えたのです。
一体アルトさんは、どこでこの“マンガ”というものを知ったんでしょうか。“スキル”のことと言い、本当に不思議な方です。
ですが、これほどまでに未知な存在であるにもかかわらず、怖さは全くありません。そのことに、私がアルトさんを心から慕っているのだということを実感させられます。
「リリー様。族長殿が……その……」
我に返ると、目の前でゴメスさんがとても興奮しながら、かぶりつくように“マンガ”を読んでらっしゃいます。
字が読めなくとも、絵を追っていけばなんとなく物語を理解出来るというのも、“マンガ”の強みですね。
それにしても、ゴメスさんの心が女性であったことが追い風になりました。当初はとても驚きましたが、本当にありがたいことです。
というのも、ゴメスさんにお渡しした“マンガ”は、平民の女性が貴族の男性に見初められ恋に落ちていくというストーリーなのです。
貴族の実情を知る私からすれば少し夢のようなお話に感じられましたが、それでも心がときめく物語でした。きっと女子ならば誰もが胸をときめかせる物語だと思います。
なので、ベルグ族の女性の皆さんに興味を持ってもらえればと思って持ってきたのですが……本当に棚からぼた餅ですね。
「この“マンガ”の続きはないのかとおっしゃっています」
「申し訳ありませんが、まだ完成していないのです。それに、この“マンガ”を複写する方法も確立していなくて……何か知恵をお借りできないでしょうか?」
私がそう告げると、ゴメスさんは何人かのベルグ族の方々を読んで話し込み始めました。なんだかもの凄い気迫を感じます。
「えぇっと……“マンガ”を複写する方法を話し合っているみたいですね」
ジョンが苦笑いを浮かべながら教えてくれました。
一体ベルグ族の皆さんはどんなことを話しているのでしょう? 全てを聞き取ることが出来ているジョンが羨ましいです。
「リリー様! よかったですね! お手柄ですよ!」
アガサが私の後ろから、嬉しそうな声を挙げます。
本当によかったです。アルトさんにも褒めてもらえるでしょうか。恥ずかしながら少し期待をしてしまいます。
「……メアリーへのお礼、弾まないといけませんね」
この“マンガ”の対価は、私がこのゾルデギルから戻り次第、話し合うことになっています。あまりにも時間が無かったため、申し訳ないことですが後払いにしてもらったのです。
メアリーは、「趣味で描いたモノだからお金はいらない」なんて言っていましたが、そういうわけにはいきません。
これだけの労力が掛けられたモノを無料で得るなど、とんでもないことです。この“マンガ”は、職人の技といってもよいものだと思います。
……もしかすると将来、“マンガ”も職人の仕事として認知され、メアリーはその巨匠になっているかもしれませんね。
その時は、私が彼女の一番のファンになっていることでしょう。
ふふ……。そう思うとなんだか楽しみが増えますね。