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三人称。前半、食事時に相応しく無い言葉有り。後半、若干残酷な場面。



 彼は殆ど光源の無い薄闇の中、温かくも冷たくもない溶液にたゆたいながらただ時を過ごしていた。

 身体的にも意識としても、最低限の覚醒レベルに留めているにもかかわらず、本来大幅に促進されている筈の彼の細胞の補修はいっこうに進んでいない。

 辛うじて現状維持だけがなされるこの溶液の中で、銀色の相棒(ナノマシン)が『メイ・リンヒル』としてゴールディロックス階層世界の住人となった"鈴岡明花"についての報告を携えて訪れるのだけを、彼はひたすらに待ち続けている。


 彼女をゴールディロックス階層世界へ送り出した当初、彼はこの治療用水槽(キュアポッド)の中から常時メイ・リンヒルの動向を見守っていた。

しかし、覚醒レベルをある一定値以上に保ったその状態では、溶液の中でも細胞の補修が追いつかず、結局明花の行動をリアルタイムに追うライブカメラや投影機器の類は、彼の状態の悪さを危惧する銀色の相棒(ナノマシン)によりこの部屋から全撤去されてしまっている。

 それ以来定期的に、また何らかの動きがあればその都度訪れる銀色の相棒(ナノマシン)が齎す情報だけが、彼にとって明花の動向を知る唯一のものとなっていた。


 あの機体(ナノマシン)には可能な限り"マスターの心身の健やかなる保全を行う"と言うルールも組み込まれている。

 だから、リアルタイムの情報を遮断されたのもある意味自業自得だったと彼も分かっていた。

 ……ただ、アレが以前のアレのままであれば、今回のように有無を言わさず強制的にことを済ませるような行動は取らなかった気がした。


 銀色の相棒(ナノマシン)の行動、言動に、強い個性と果断な判断力が備わりつつあることが感じられた。

 自己再生機能と高度な学習機能を搭載したあの使役者サポート型電脳ナノマシンと彼とは、すでに長い付き合いだ。

 あのタイプの電脳が長い時を経て確固たる人格を形成し、機械から機人へと進化するとケースは、昔から一定数報告されていた。

 特に彼女……明花が好んだ創作物のキャラクター造形における性格と口調設定───"オレサマ系"と呼ばれるらしいソレを取り込んで以降、人格確立の傾向は顕著なものとなっている。


 人格を持ち始めた電脳(ナノマシン)に彼女を任せるのに彼としては心理的抵抗を強く感じるのだが、それでもまだ銀色の相棒(ナノマシン)が自分の意を汲み、フィクションとして明花の願望の中にしか存在しえなかった"オレサマ系"の金色の王としてアレがその役に徹しようとしている現状、ゴールディロックス階層世界の中に生息するその他有象無象の雄などの手に委ねるよりはまだ(・・)マシ……と、諦めるしかないとも思っていた。

 そう、あくまでも他に方法が無いことによる、諦念だ。


 地球で"子供"として過ごした時期、周囲の子らが戯れに迫ったあの不条理な選択───『●んこ味のカレー』と『カレー味のう●こ』のように、どちらも選びたくないのに選ばされる究極の選択。

 彼女の人生のパートナーを任せるのは『金色の王様』か『その他の有象無象』か……など、自分を選択肢に加えられない時点でどちらも彼にとっては『うん●味のう●こ』同然、選びたくはない。

 それを無理の無理やり、それこそどちらがカレーの色に近いかと言う微妙さで選んだのが、自分の意向を汲み彼女が幸せな人生を送れるよう努力すると予想される電脳(ナノマシン)入りの『金色の王様』だった───ただそれだけの話。


 自分の現状を鑑みればこその、如何ともしがたい諦念の極みによってなされた選択。

 だが、同時にそこにホッと安堵の気持ちを覚えている自分の姿もあることを彼は知っていた。


 溶液のなか目を閉じて薄闇だった視界を完全に閉ざせば、瞼の裏に浮かび上がるのは、明花……否、メイ・リンヒルとして生きる彼女の姿。

 声に表情、ふとした時に見せる仕草も全て生前の鈴岡明花と変わらないのに、彼女には明花としての記憶は戻っていない。


 彼女が地球上で死を迎えた時に受けた頭部の損傷は重篤であり、部分的には頭蓋骨に護られていた脳漿に挫滅創までを生じさせるほど。

 バラバラに潰れて砕けたソレを可能な限り回収し、細胞片を一片残らず丹念に繋ぎ再生処理を施した。

 あれと同じ作業をもう一度しろと言われても不可能なレベルでの、極限の集中力とふんだんな資金で揃えた機材に薬剤、それから彼が持てる全ての技術を用いて彼女の生前の人格と記憶の復元は行われた。


 バラバラにしたパズルのピースのように、一つ一つの記憶自体は殆ど拾いあげた手ごたえがあった。損傷が激しく消えてしまった部分も自身や銀色の相棒(ナノマシン)と共通のモノであれば、記憶のピースの中へと補もした。

 例えば出会ったころの彼女の生家の玄関マットの色や柄、初めて出逢った時に彼女が着ていた幼稚園のスモックのアップリケの林檎がどんな材質をしていたか、靴下の子猫の如何にも可愛らしかった造形など。

 もっとも、彼の相棒(ナノマシン)は勝手に"これくらいは知っていて当然だろう"……と、いくつかの雑学や単語等まで入れてしまったようだが。

 ……当然、それはすぐに止めた。

 よけいな知識は彼女を彼女たらしめるその純粋にして純朴な気質まで変質させてしまいかねないからだ。

 しかし、変質するもしないもなく、バラバラの記憶のピースは"人格"と言う形を形成することなくバラバラのままで、ついには時間切れとなってしまった……。


 長期間に渡る記憶の再生修復作業が祟り、溶液に対するアレルギー反応を示し始めた彼女をもうあれ以上止め置くのは、生命がかかわるレベルで危険があった。

 やむなく彼は"鈴岡明花"としての人格と記憶の再生を断念し、バラバラの知識や記憶の破片を"人格"と言う形にまとめ上げる為、その記憶の表層にメイ・リンヒルとしての記憶を捏造し植え付け、ゴールディロックス階層世界に彼女を降臨させたのだ。

 この、馬鹿馬鹿しくも美しく、冒険に満ちた人工世界───『ゴールディロックス階層世界』に。


 自分であれば発想も出来なかっただろうこの世界を創るのは、彼にとってとても楽しい作業だった。

 幾度も文明が生まれかけては消滅し、消滅してはまた生て消えたこの惑星(ほし)は、地下資源に乏しい惑星だ。

 それらを補う事と、彼女が望んだ"冒険者"という存在の相性は、とても良い。

 後は元来この惑星に自生していた植物と地球から採取して来た動植物の遺伝子を操作し、地下資源の代用となる物質を自己生成する機能を組み込みつつ、狩猟対象に相応しい姿へと変化させ、それらを生態系のバランスを調整しながら配置してゆく。

 複雑にして楽しいその作業。それに没頭したのは、純然たる楽しさと逃避とが相半ば。


 逃避は、ままならぬ人格の復元と言う現実へと、それからもう一つ……。

 "怖かった"のだ。


 彼は、記憶を取り戻した彼女との再会が、恐ろしかった。

 何故なら、彼にはあの時(・・・)、地球を滅びの道から救い出す手段があったから。地球の人類を生き延びさせることが、可能だったから。


 もちろんそれは容易なことではない。

 しかも、彼には中央宇宙連盟の定めた交流可能文明レベル水準未達成文明との接触に関する規定に抵触する行動を取る事は、実質、ほぼ不可能。

 しかし可能ではあった(・・・・・・・)と言うその事実が、彼の負い目になっていた。

 だから(・・・)ゴールディロックス階層世界の作成に没頭したのは、やり甲斐と楽しさがあったのは事実でも、ある意味地球人類と彼女……明花に対しての贖罪の気持ちからでもあったように思う。


 鈴岡明花と言う少女の人格を、どうあっても取り戻したい。それは紛う事く真実であっても、同時に彼女の人格が取り戻されることに対して"(おそ)れ"もあったのだ。

 彼女の所属していた世界をその能力がありながら救わなかった(・・・・・・)自分に、果たして彼女と合わせる顔があるのか、それが分からなかったから……。


 そもそも彼は明花にとって"宇宙人"だ。

 各種植物型から鉱物系、爬虫類系に水棲タイプ……多種多様な生態と文明スタイルを持つ複数種族との交流が当たり前にある彼とは違い、地球は一部の例外を除いて他種族との接触などほぼフィクションの中のみと言う閉鎖的な惑星。

 彼女から見れば死んだはずの自分を異質な技術を操り見知らぬ世界に蘇らせた彼など、いわゆる普通の"宇宙人"というよりは、地球上の創作物内に敵対的な対象として語られる『エイリアン』なのではないか……そんな不安が拭いきれない。

 だから、"鈴岡明花"と言う人格が彼女に戻らなかったことに、彼はある一面で安堵を覚えてもいたのだ。


 渇望と懼れと安堵と、また渇望。彼女を思う時に覚える感情は、単一ではない複雑な色をしている。

 ふと、そんな彼の脳裏を過るのは、二人がまだ幼い姿をしていた時の一場面。

 互いの額がくっつくほどに頭を寄せ合い、二人が覗き込んでいたのは一冊の絵本。

 臙脂(えんじ)色の革の表紙に箔押しされた金色の飾り枠の中、大、中、小の三匹のクマがシルエットで描かれたその絵本の題名は、表紙に描かれるイラストそのまま


『三匹のくま』


 英題で言えば、"Goldilocks(ゴルディロックス) and(アンド) the() Three(スリー) Bears(ベアーズ)"───金髪と三匹のくま。


 この世界に名称をつけるにあたり、真っ先に彼の頭の中に思い浮かんだのはこの絵本のタイトルだった。

 だが勿論それは、天空城の王が金の髪と目を持つから……と言う理由では無く、絵本の中に語られる物語の内容からのもの。



 ある日、幼い少女が森の中に小さな家を見つけ、誰もいないその中へ入って行った。

 少女はその家の家主である三匹のクマ達の三つの大きさの椅子、三種類の熱さを持つスープ、三段階の固さを持つ寝台を無邪気な好奇心のままに試して行き、自分にとっての心地よさや美味しさ、安らぎを見つけて天真爛漫に楽しむのだけれど、やがて帰宅して来た"クマ"と言う人間にとっての恐怖の対象である存在に驚き、逃げ去ってしまう……と言う、その物語。



 あの絵本を初めて読んだ時、彼は地球外から来た自分と言う存在もまた、もしかしたらこの三匹のクマのように少女を怯えさせるだけの存在なのかもしれないと、そう思った。


 もしも彼女が自分を思い出さないままメイ・リンヒルとして生きるのであれば、ゴールディロックス階層世界に"クマ"は要らない。

 ただ絵本の中の少女のように天真爛漫に冒険に満ちたこの世界を楽しみ、何も知らないままに幸せに生きて、老い、やがて穏やかに生涯を終えるのが何より彼女の為ではないのか……との思いがあって、彼は記憶が無くとも彼女を身近に止め置きたい願望を抱く自分への戒めの気持ちから、この世界を『ゴールディロックス』と名づけた。


 何も知らないままで生きる方が、彼女にとって幸せかもしれない。

 でもやはり、いつも彼の側で笑っていた少女を取り戻したい……。


 半ば以上諦めつつ、そして逢わずに終わるだろう事を心のどこかで安堵しながら、それでも彼は溶液の中たゆたいながら、銀色の電脳(ナノマシン)が彼女についての消息を携えて訪れるのをただひたすらに待っている。


 彼女は……メイ・リンヒルは今、何をしているだろうか?

 白い肌に白い髪、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の小柄な少女の姿を、彼は思い浮かべる。


 明花が死に、地球を出てから既に827年と124日が経過しているのだ。ずば抜けて記憶力の良い彼であっても、さすがに800年を超えた過去の記憶は薄れつつある。

 地球を発った当初は、彼女の幼少時から最後の瞬間までを彼は鮮明に思い出す事が出来ていた。しかし、現在は脳の活性を押えている影響と脳の細胞の劣化が著しい事もあり、地球時代の明花の姿を思い出す事が少しずつ難しくなっていた。


 白い髪と白い肌の彼女の方が記憶の中に鮮明なのは、その姿の方が過去の彼女の姿より長い期間、治療用水槽の中に浮かんだ形で彼の傍らにあったせいだろう。

 アルビノ、金銀妖瞳と言うメイ・リンヒルの色合いの印象が強いことよって、過去の記憶が上書きされているところもある。

 それでも過去の……地球での彼女の姿を鮮明に思い出そうとすれば、現れるのはいつも最後の数日、数時間の"明花"の姿だ。


 火山灰や粉塵、分厚く天を覆う雲のせいで昼なお薄暗い世界にあっても、地球人とは性能が違う彼の両の目は、自分が抱き寄せるようにして支える少女の姿を捉える事が出来ていた。

 かつて艶やかだった暗褐色の髪と言わずその体中が降り積もる煤で薄汚れ、健康な赤味を頬と唇とに宿していた顔の上には今なお明るいその表情だけでは隠し切れない死相が宿る。

 他国から死なば諸共とでも言うように飛来した弾道ミサイルと、繰り返される地震、全世界的に活性化した火山の噴火の影響で、国内の複数の原子力発電所が壊滅的な被害を受けていた。


 彼女の被ばく線量は、とうの昔に深刻なレベルを超えている。

 その上、火山どころか日本列島の形を歪める勢いで地面を縦横に走る地割れから吹き出す有毒ガス、特に硫化水素による中毒で、彼女の両の肺はすでに殆ど機能していない。


 チアノーゼの出た紫色の唇。

 有毒ガスに脳の細胞もダメージを受け、薄暗い場所だからと言うだけでなく、視界も殆ど失われている筈だ。

 ……それなのに、彼女は彼が少しでも有害ガスや放射能数値の低い場所へ避難しようと誘導するまま、本来なら動かない筈の足を動かし、それに従う。

 時に自分を支える彼のことを見上げ、嬉しそうにほほ笑んだ。


 紫色で水気無くカサカサの唇が割れ黒ずんだ血がジワリと零れた彼女の顔を思い出し、彼の目から涙が溢れて溶液の中へと溶けて消えた。

 緩やかに循環する液体の中に溶けた涙は、やがて不純物としてろ過されて再び循環するのだろう。


 あの時の明花は、既に瀕死。

 生まれ変わった先のファンタジーめいた世界についてを語り終え、もう死を待つだけの状態だった筈だ。

 彼女が食事を最後に摂ったのは、この日の四日も前の事。細々と行っていた水分の補給も、前日の朝にはもう行えなくなっていた。

 水や食料が無かったわけでは無い。

 銀色の電脳(ナノマシン)が崩壊したシェルターや地域の防災センターの倉庫から、水のペットボトルや携帯食を調達して来て運んでくれている。

 ただもう、水すら口にする体力が彼女には残されていないだけのことだ。


 殆ど目も見えず、唇だけでなく口内も乾ききり、舌の表面の味蕾一つ一つまでパサパサで声も出せないはずの彼女が、どうやって自分達の頭上に落ちて来る鋼材を見つけ、どうやって自分よりも背の高い彼のことを突き飛ばすだけの力を出す事が出来たのか、いまだに彼には理解出来なかった。


「───ノア君、あぶない……っ」


 彼女の両手に突き飛ばされた衝撃で後ざまに倒れたために、視界が一瞬彼女から外れた。

 まるで今現在目にしている光景のように、鮮明過ぎる映像記憶がコマ送りで頭の中に蘇る。


 暗い空と歪んだ鉄塔と、視界の端を過る鋼材。

 それから、砕けたアスファルトと鋼材の狭間から、あらぬ方向へとねじれ曲がった彼女の白い腕と足。


 治療用水槽(キュアポッド)の微かな動作音を圧して耳障りなアラートが彼の耳に届いた。

 心拍数が上がり、脳波の波形が乱れた事への警告音だ。


 彼の視界……いや、脳内に鮮明過ぎる程鮮明に蘇っては消えてゆくそれ(・・)は、まっとうな追憶によるものではない。

 心的外傷……PTSDの症状の一つであるフラッシュバックと呼ばれるものだった。


 アラートはなおも鳴り続けて止まらない。

 彼の脳内にはかつての明花の姿が、鮮明に浮かび上がっては消えてゆく。

 薄れかけた通常の記憶とは違い、それらはすべて鮮やかではあるが、そのすべてが最後の数日間に集中している。


 彼がPTSDの治療を拒否したのは、あえての事だ。

 思い出す鮮明なその彼女の姿が自分を苦しめるのを承知しながら、それでも彼は、彼女についての記憶のほんの一部でも鮮やかに残ることを願った。

 それが異常だとは承知している。

 これがあるせいで強迫観念にとらわれ休む事を自分に容認できず、結果、溶液の中の現状があるのだと分かっていても尚、彼は忘れる事を拒絶した。


 地獄のような世界を逃げまどい、どんどん弱りながらも楽し気に来世について語る彼女が最初に食料の摂取を拒否しだしたのは、最後の瞬間の六日も前。

 まだあの時には辛うじて食欲も残っていた筈なのに、どうして時々しか食料を口にしないのかと不思議に思っていたけれど、数百年の間を考え続け、今は恐らく消化器官の機能が落ちたの自覚していた彼女が、彼の前で万が一にも粗相してしまう事態を嫌ったせいではないか……とそう思い当った。

 思えば前日辺りから、急に催しては物陰によろけながら走り込むことが何度かあったのだ。


 ほとんど兄弟同然で育ったにもかかわらず、彼女にはそんなところが昔からあった。

 女の子として見られたくない場面は具合が悪くても非常時でも、絶対に彼には見せないと言う女性としての矜持がそこにあったのだろう。

 それに、あの時点でもう彼女は、自分に残されている時間がさして長くない事を自覚していたのかもしれない。

 そんな彼女をもっと気遣うことが出来たのではないか……と、後悔の念が彼の胸を締め付ける。

 荒れた唇に保湿クリームを塗ってあげる事もできた。

 乱れた髪を整える事だって出来た。

 お腹が下らないよう吸収率の高い高カロリー栄養飲料があれば、彼女は最後までもう少しは元気でいられたようにも思う。


 自分は彼女に無駄に恥ずかしい思いをさせていたのではないか?

 彼女を余計に苦しめていたのではないか?

 もしもこうすれば、こう出来ていれば……が、数知れず浮かんでは消え、消えては浮かぶ。


 溶液の中に涙がどんどん溶けて、心拍数が上がっていった。

 アラートが鳴りやまず、一定時間を超えて乱れた感情の昂ぶりを押えるべく、溶液内に鎮静作用のある成分が投下され、強制的に彼の心を静めて行った。


 どうして彼女にここまで執着してしまうのかと、彼は思う。

 彼女の家の隣りに拠点を定めたのは、たまたまの偶然だ。

 ある程度の人口があり、かつ、ある程度の人と人との交流が見込める程よい田舎町。あの当時幼児の姿をしている自分がいれば、同世代の子を持つ近隣家族との交流も容易になり、滅亡までの世界をよりディープに観察できるだろうとの見込みを持って絞ったその条件の中、無作為に選出されたのがあの家だった。

 あくまでも研究者、観察者としてあの場に降りた筈だったのに……。


 躾の悪い子犬さながらに、隣家の庭からこちらの敷地に生け垣をくぐり"彼女"は彼の目の前へと飛び込んで来た。

 友達になってくれと満面の笑みで強請る彼女の背後に、激しく左右に振られる犬の尻尾を幻視した二人の初邂逅。

 何とはなしに柴犬の雑種の子供めいた印象を抱く事になったのは、好奇心旺盛な彼女が幼少時いつも装着させられていた"迷子紐"が一因を担っていたかもしれないと彼は思う。


 信頼関係で結ばれたペットが飼い主に向ける愛情のように、純粋な好意を隠すことなくこちらに向ける彼女に対して、いつ自分が観察者としてではない感情を抱くようになったのかは、彼本人にも分からなかった。


 執着と言うよりは妄執。

 そんな言葉が似合いそうな自分の想いをこのまま胸に、ここでゆるゆると朽ち果てていくのもいいかもしれない。

 薄闇の中、温かくも冷たくもない溶液に瞼を閉じて揺蕩いながらそんなことを考えていた彼の耳に、彼女が彼の名を呼ぶ声が飛び込んで来た。


「ノア君……!」


 ───夢ではない。

 現実のように鮮やかなフラッシュバックの症状でもない彼女の声と、続いて治療用水槽の樹脂面をゴンっ……と叩く振動が溶液越しに微かに届く。

 まさか……そんなことはありえないと思いながらも瞼を開いた彼が目にしたのは、薄闇の室内で水槽の表面に張り付きこちらを凝視するメイ・リンヒル───否───彼がもう会えないと半ば諦めかけていた幼馴染の少女の人格を宿す、白い髪に白い肌を持つ少女の姿だった。



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