僕にできること
部屋の中でよく蜘蛛を見た。五月の中旬のことだ。網戸があるというのに、ベランダから入ってくるのか、それとも外に干している洗濯物に引っ付いてくるのか(これは妻の説だ)。白い壁に、白いカーペットの上に、よく蜘蛛を見るようになった。
それは一センチにも満たない程の大きさだったけど、それでも部屋の中で虫を見るのはあまり気持ちのいいことではない。かといって、僕は無益な殺生をしたくはなかった。小さかった頃には蟻の巣に水を流したり、冗談交じりに友人に「死ね」などと酷い言葉を浴びせかけたりしたこともあった。ーー生命の重さも、言葉の鋭さも知らなかった、幸せな子どもの頃の話。
僕は蜘蛛を逃してやろうと思った。ティッシュを一枚取ると、近づいてゆき、掴んで外に放ってやろうと。ーー結論から言って、蜘蛛を捕まえることはできなかった。母は幼かった頃僕によく「どんくさい」と言った。僕は運動ができなかったからその通りだと思うし、元々虫はニガテだった。勢いよく捕まえようとすれば潰して、殺して、手を黒く汚してしまうかもしれなかった。壁を、カーペットを汚してしまうかもしれなかった。近づくと、その小さな蜘蛛の、グロテスクな容姿が細部まで見えた。全身に生えた細かな産毛に、ヒクヒクと動く口。僕が手を近づけると、蜘蛛は何本かある足を巧みに連動させて、素早く動いた。そして僕が捕まえられずに手を差し出したり引っ込めたりしているうちに、蜘蛛は机やテレビラックの後ろに、隠れてしまう。そうすると僕は途方に暮れて、その手にしたティッシュで鼻をかみ、丸めたそれをくず籠に入れると、諦めて別の事に取り掛かった。
何度かそんなことが続いたある日、僕は部屋の中を横切るように歩いていて、一瞬視界の端に何かの異常を捉えた。振り返り、僕はその異常をしっかりと両目で捉えた。その白いカーペットの上には、そこには、黒い小さな染みがあった。
近づいてしゃがみ込み、その染みをよく見た。それは、蜘蛛の潰れた死骸だった。外を歩いていて、靴のソールに小石が挟まってしまった時、なにかベタベタしたものを踏んでしまった時のように、僕は近くのソファに手をつくと、両足の裏を交互に覗き込んだ。ーー右足の裏に、黒い跡を見つけた。
僕はティッシュを一枚取り、キッチンで濡らすと絞って、まず足の裏を拭いた。カーペットの所まで行くともう一枚取り、蜘蛛の死骸を取り除いた。黒い染みを濡らしたティッシュで拭き取っていると、取り除き損ねた脚の一本が転がっていた。ーー僕はそれも取り、跡を完全に拭き取ると、手にしたティッシュを、くず籠に捨てた。
ーー僕が悪かったんだろうか。僕は考えた。僕が蜘蛛をちゃんと捕まえ、逃してやることができていれば、蜘蛛は死なずにすんだ。僕は蜘蛛を殺さずにすんだ。でも、僕がちゃんと蜘蛛を捕まえることができなかったから。蜘蛛は死んだ。僕は蜘蛛を殺した。
人間様の住む場所に入り込んだ蜘蛛が悪かったのだろうか? いや、蜘蛛からしたら人間のテリトリーなんて、知ったこっちゃないだろう。そこが誰の土地なのか、どこの国の土地なのかなんて、人間以外の生物からしたら知ったこっちゃないだろう。蜘蛛は僕たちと同じように、別に生まれてきたかった訳でもなく生まれ、生きるままに生きていた。僕は故意では無かったとはいえ、蜘蛛を踏んで殺してしまった。潰して死なせてしまった。
ーーとはいえ僕は、蜘蛛に対して申し訳のない事をしてしまった、と少しの間罪悪感に囚われた後、テレビのリモコンを取って電源を点けた。そしてソファに座ると、チャンネルを幾つか変えたのち、その番組を観始めた。
その程度の罪悪感。
その程度の正義心。
*
ある日の夜の事だった。ぬるい風の吹く夜、僕は煙草を吸いながら、自転車をのろのろ走らせていた。
最後に定時に帰れたのは、もうどれ程前の事だっただろうか。ーー残業続き、一日中パソコンのディスプレイとにらめっこする毎日だった。
街灯が霞み、ピントがブレる。また目が悪くなったか……? と僕は眼鏡の位置を調節した。
短くなった煙草を口元へ持って行き、吸う。苦み走った、もう終わりに近い味がした。手元に熱を感じ、見るともうフィルターが燃えだしそうな位置に火はあった。
僕は短くなった煙草を親指で弾いて、火種だけを落とそうとした。何度か弾くと、誤ってフィルターごと、煙草の吸殻を落としてしまった。
「あっ」
思わず声が出た。ブレーキをかけ、自転車を止める。振り返ると、夜の闇で濡れた路面が広がっていた。
「クッソぉー……」
僕は自転車に跨ったまま、フロントフォークに取り付けられたライトで道を照らす。ゴツゴツとしたアスファルトが、視界に映る。
まるでコンタクトレンズを落としてしまった人のように、僕は目を細めて地面を舐めるように見下ろす。時々辺りを見回して、そばに人が通らないかどうかを気にしながらも、僕は煙草の吸殻を探した。
煙草の吸殻を見つけた。ーーしかしそれは、僕の落としたものはなかった。それはフィルターが白かった。僕の吸っている銘柄のは、持つ部分が茶色い。僕はそれを拾うことなく、他の部分を照らした。
またあった。でも、それはまだ吸う部分の残った、葉っぱのはみ出た長い吸殻だった。また僕は、違うところを照らす。ーーまた見つける。でも、探しているものとは違う。
そしてようやく、僕は自分の吸っていた煙草の吸殻を見つけた。まだ火が微かに燃え残っていて、オレンジ色に光っていた。
僕はそれを拾い上げると、今度こそちゃんと火種だけを落とし、前輪で潰して火を消した。そして左手の人差し指と中指でそれをちゃんと摘むと、ペダルに足をかけてその場を走り去った。
ーー他の吸殻を拾うことはなく。
僕は嘘をつきたくなかった。
僕は今後口にする「煙草の吸殻をポイ捨てしたことはない」という言葉が嘘になるのが、嫌だったんだ。
*
僕は小さな頃からテレビに映る正義の味方が好きだった。カッコ良くて、憧れた。
だから僕は友人達や、親含め大人達がルールを破り、正しくない事をするのがイヤだった。
正しくない事、良くない事、ルールを破る事。それは悪だ。自分がされてイヤな事は、他の人にもしてはいけない。それは悪い事だし、カッコ悪い事だと、僕はテレビに映るヒーロー達から情操教育的に学んだ。
でも、現実は違う。
みんながみんな、正しくない事をしている。みんながみんな、正しくない事をすれば。正しい事をしようとする人達よりよっぽど多ければ、正しくしようがない。罰そうにも、罰せない。数の問題。正しくない事したもん勝ちだ。
金や権力がものを言う。僕が憧れていたテレビのヒーロー番組だって、金が無くちゃあ作られない。医者だって、警察だって、政治家だって悪い事をする。派手にやってバレれば逮捕される。バレなきゃ、バレなかったもん勝ち。
仕事の出来不出来より、力のある者に取り入ったもん勝ち。
一般的に美しいとされる行為より、恥を捨てた美しくない行為が平気で出来る人間の方が、幸せに生きられる。
僕の目には世界はそう映る。
「俺、特撮ヒーロー番組とかそんなの、好きじゃないんだよ」
友人はある飲みの席で言った。「どうして?」。僕は聞く。
「何も知らない子どもに対して、『これが“正義”です』って押し付けがましく教えるだろ。最終的には武器で敵をブチのめす。前時代的で暴力的だ。ある意味、正しいけどな。『勝った方が正義』! 敗戦国日本に住む俺らは、それを何十年もの間体感してきた。でも、それじゃ真の平和に繋がらない」
「でも……特撮ヒーロー番組は何十年も昔っから放送されてる。そのストーリーラインはシンプルな『勧善懲悪』。時代劇や神話なんかも一緒だ。長年人間に愛され続けてきた『伝統美』なんだよ」
苦し紛れの反論も法学部出身の彼には響かず、彼は最後にこう言った。
「俺は将来子どもができても絶対ヒーロー番組は見せない」
*
ズルや汚い事はしたくなかった。心に根付いた罪悪感が、自分の心が『悪だ』と認める事を、自分がする事を許さなかった。それで損をした、と感じた事は今まで何度もあった。人に嫌われることもあった。自分から人を遠ざけたりもした。それでいて、僕は正義にもなりきれなかった。半端で、非力で、ちっぽけだった。
妻の大きくなってきたお腹を撫でて、僕は思う。生まれてくる彼は、幼かった頃の僕のようにヒーロー番組を観るだろうか。観たがるだろうか。好むだろうか。僕は、それを観せるべきなのか。観せないべきなのか。
僕に、生まれてくる彼に『正義』を教える資格はあるのか。彼にとって、生きる上で『正義』は必要だろうか。
知らない方が、考えない方がよっぽど幸せに生きられるのではないだろうか。僕は考える。人に裏切られる覚悟を、人を裏切る覚悟を持っている人間の方が、この世を生きる上で強い人間だと言えるのではないだろうか。強い人間がより大きな幸せを掴むのではないか。
「あなたはどうなって欲しいの?」
僕の話を聞いて、妻は言った。
「僕はーー」
……ただ、幸せになって欲しい。シンプルに言えば、それだけだった。
*
「ぱぱ」
声の方を向く。歩けるようになり、拙いながらも言葉を使えるようになった息子が、彼の身体からしたらとても大きな本を抱えて、僕の方にやってきた。
「これぇ、だれ?」
彼は本を開くと、その中で並ぶ、カッコいいポーズをとるヒーロー達の中の内一人を指して、聞いた。
「レッドポーン」
息子は満面の笑みを見せる。あざとさの欠片も無い、自然と漏れ出る喜び。
「これは?」
「ブルーナイト」
「これは?」
「ブラックルーク」
僕は彼に、意図してヒーローを見せたりはしていない。
それを好み、見ているのは彼の意思だ。自分の見るもの、自分の信じるものは、自分で決めるべきだと思う。
彼もきっと、悪の誘惑を体験する。正義に絶望する日も来るだろうし、自らの非力に打ちひしがれる時もあるだろう。
僕が君に教えてあげられることは少ない。僕にできることは、君が傷付いた時も、ものを考えている時も、その身を休めることの出来る場所を守ること。
いつまでも君の味方でいること。