five rose
僕は知らなかった。
あのとき、真矢さんがあの場所にいたことを。
「澪!どこへ行っていたの?」
玄関の戸を引き、入ろうとした。その瞬間に言われた、鋭い言葉。
「ただいま。母さん」
無視。
している訳じゃない。ただ、もう何も言われたくない。それだけ。
「澪!真矢さんが部屋にいます。真矢さんの部屋に行きなさい」
なんで?
僕とどこかへ行けって言われていたから?
面倒だけど、あとからまたいろいろ言われるのも嫌だから、行くことにした。
真矢さんの部屋は、空き部屋だったところ。
チトセの使っていた部屋は、僕の隣の部屋だった。
僕が父に言って、未だ手つかずであの時とまったく変わっていない。
着いた。
「真矢さん。いいですか?」
ぶっきらぼう?
知らない。ただ、この新しいチトセの記憶をもっと、何度も何度も繰り返し見たい。
「どうぞ」
ふすまを引いた。
すると、眼を赤く腫らした真矢さんがいた。
「どうしたんですか?」
聞かないわけのもいかないので、とりあえず聞く。
「今も、ずっと、好きなんですか?知十世さん」
答えになってない。けど、いっか。
「はい。好きです。それが、何か?」
ひどい?
「あなたは、澪さんは、私の婚約者です!」
叫ぶ真矢さんの声。
「そうですよ。わかっています」
「なら、なぜ。私じゃなくて、知十世さんなんですか!」
「君なら、好きな人が婚約者だったのに、一瞬で変わってしまう。この想いがわかるか!」
あぁ。僕、怒鳴っている。
ダメだな。チトセに怒られちゃうや。
「では、その思いがあるから、婚約指輪の代わりの指輪を贈ったんですか」
見てた?いや、聞いていたのか?
「そうです。僕にとっては、あの指輪が婚約の証です」
言い切った。そう思うけど....
違ったようだ。
その瞬間。真矢さんは、隣に座る僕をたたみに崩した。
そして僕の言葉っを聞きたくないといわんばかりに、僕の口を塞いだ。
このくらい、別にいいんです。
ただ、勝手にキスされるってチトセがいいなって思うだけです。
「満足ですか?」
長いキスをした真矢さんに言った。
「えっ...?」
まるで、何か抜けたような表情だ。
「満足しました?」
きっと今、僕はひどい顔をしているんだろうな。
答えない、か。
いいや。行こう。
「失礼しました」
僕は起き上がって、部屋から出ていった。
やっぱり唇に感じる違和感をぬぐった。
チトセの部屋へいこう。
やっぱり、ここが好きだな。
チトセの匂い。
落ち着く。
あぁ。病院では、かき消される香りがある。
チトセが付けていた香水の匂いもする。
今度はサシェをあげようかな。知十世が好きな、甘い薔薇の香りのを。