タロット絵師の呪い処
広い広い街の中。小さな小さな病院で、鶯色の髪の少女が白髭の老人とタロット片手に歓談しています。
ランドラルフの診療所。こじんまりとした病院ですが、街一番と評判です。
木造の建物で、屋内の灯りは暖かみのある黄色系のものが使われており、どこか安心感のある空間となっています。
今は来客のいないその空間でソファに腰掛ける白髭の白衣の老人。彼こそがこの診療所を営む町医者、ランドラルフです。ラルフという愛称で親しまれています。
その隣に座る淡い鶯色の髪の少女。タロットカードを大事そうに握って話す彼女の瞳はあちらからは緑、こちらからはオレンジ、といった具合にあらゆる色に変化する不思議な瞳です。
そんな瞳を持つ彼女はタロット絵師のツェフェリ。紆余曲折あり、街の中でも一、二を争う富豪ハクアの元で暮らしています。
さてはて。
ラルフとツェフェリは一体何の話をしているのでしょう?
「ふむ、やはりツェフェリくんに直してもらうと違うのう」
「本当!?」
ラルフはソファの脇の机に置かれたカードケースを手に取ります。中には七十四枚のタロットカードが入っています。
「これはわしの宝物でな。大事な女みたいなもんじゃよ。……もうこんなきらびやかな姿は拝めんと思っとった。ツェフェリくんのおかげじゃよ」
「そんな、大袈裟だよ。……照れるなぁ」
ツェフェリは褒めちぎるラルフに微かに頬を赤らめました。
「大袈裟なことがあるか。わしゃこのタロットに一目で落ちたんじゃ。それ以来女には目もくれなくなったのう」
「そういえば、ハクア様が街一番の変わり者だって、言ってたっけ?」
ラルフは天涯孤独で、親もなく、しかしながら息子娘もおりません。嫁をもらっていないのです。
家族を持たない──人で賑わうこの街で、それは最も変わったことでした。
「……わしゃの、このタロットさえおればいいんじゃ。そう思えるほどに運命を感じてしまっとるんじゃよ」
運命……とツェフェリは呟き、自分の手の中のタロットを広げます。一番上に[運命の輪]が現れたところで手を止めました。
「そういえば、ハクア様に占ってもらったとき、最終結果で出たのはキミだったね……」
ウロボロスの絡んだ歯車を見つめる天使。それが[運命の輪]です。意味はその名のとおり、運命的な巡り合わせ。
絵師としてやっていけるかどうかを祈りながらの占いで、彼の姿を見たとき、ツェフェリはとても嬉しかったのをよく覚えています。──思えばあの感情は、このタロットたちと出会った瞬間に抱いたものと同じでした。
ツェフェリは絵を描くのが好きでした。
けれど、彼女はその特殊な瞳から[虹の子]として人々にあげ奉られ、自由な行動ができずにいました。
彼女がおおっぴらに絵を描けば、その絵に虹の子の恩恵が宿っているなどとのたまう輩が出て、絵の取り合いになるだろうことは、当時幼いツェフェリでも、容易に想像できました。
だから彼女は親にキャンバスや画材をねだることもできず、切れ端のような手のひらサイズの紙に鉛筆で描くくらいしかできませんでした。
それでも充分、絵を描く楽しさを味わうことはできました。──しかし、さすがのツェフェリも一人で密やかに描き続けるのは寂しくなります。
誰かに見てほしい、褒めてもらいたい、というのは、子供が抱くごくごく自然な感情です。虹の子だと奉られようと、ツェフェリの心は年相応──けれども周りの大人は気づいてあげようとしません。
だからツェフェリは、自分で考えました。みんなが争ったりしない形で、自分の絵を披露する方法を。
ツェフェリはふと、手で玩んでいたカードを見ます。切れ端なので、形はあまり綺麗とは言いがたいものでしたが、それを見て閃きました。
「おまじないのカードを作ろう!」
ツェフェリは様々な本を読み、タロットカードの存在を知っていました。タロットは人々の幸運を占うためのカードだと教わっていましたので、そう思い立ったのです。
カードなので、今ツェフェリが描いているサイズともぴったりです。
絵柄も知識として知っていました。だから、すいすいと描いていきました。
さすがに、[剣]、[聖杯]、[棒]、[金貨]各十三枚を全て描くまでには至りませんでした。描くのにかなりの労力がいるのと、もう一つ、理由がありました。
「へえ! 大アルカナだけでもタロット占いってできるんだ!」
ツェフェリがそれを知ったのは、まだ故郷にいた頃──ちょうどその街に来ていた渡りの商人の息子が教えてくれたのです。
その商人の息子の名前はサファリ。名前の響きが似ているね、となんとなく話しかけたのがきっかけで仲良くなりました。
サファリは一言で言うと、海のような男の子でした。
口数は商人の息子の割には多くなく、口調も素っ気ないので、どこか冷たい印象を受けますが、どんな心ない言葉も静かに受け入れられる、広い心の持ち主だとツェフェリは思っていました。
彼の細波のようなさわさわと心地よい声、穏やかな空に浮かぶ雲のような白髪。そして何より、瞳の色。──透明な水色に翠をさして、乳白色を溶かしたような翠玉色。彼は濁った翡翠と揶揄するけれど、ツェフェリはそんな彼の色が好きでした。
「それにしても、よく描いたね。二十二枚描くのだって、なかなかの大仕事だよ」
街の中央にある商店街の端っこ──サファリの養父が店を出しているその片隅で、サファリはツェフェリのタロットたちを翠玉色でひとしきり眺めて言いました。
「そう? ありがとう。ねね、じゃあ、占い方知らない? せっかく描いたんだし、ちょっと使ってみたいんだ」
「うん。じゃあ、占ってみようか」
とん、とサファリはカードを整えて、テーブルに置きました。青い石と翠の石の腕輪がしゃらんと音を立てて上下します。何をしたでもないのに、ツェフェリにはサファリが神秘的な雰囲気を纏ったような気がしてなりませんでした。
「……うーん、ツェフェリ。何か占いたいことある?」
「特にないなあ。サファリは?」
「……僕はいいんだ。別にない。それじゃあ……ちょっとそこのお姉さん」
店の前を通りかかった女性をサファリは細波の声で呼び止めました。
「あらっ!! 虹の子様じゃないですか!! こんなところでお目にかかれるなんて、今日はなんていい日なのでしょう!!」
話しかけたサファリには目もくれず、女性はツェフェリの姿に感激の声を上げました。
それを気にした風もなく、サファリは続けました。
「せっかくのいい日が過ぎないうちに、占いを一つ、いかがですか?」
女性はそこでサファリの存在に気づき、あら、と呟きます。占い、という言葉に耳がぴくりと動いたのをツェフェリは見ました。
「何を占ってくれるのかしら?」
「なんでも。何分占い手は未熟なものですから、当たるも八卦、外れるも八卦。博打のような占いですが、料金はなし、幸運を呼ぶという虹の子様もご覧になります。一つ乗っていただけませんか?」
静かな声のままですが、さすがは商人の息子といったところか、流暢に呼び寄せます。乗るわ、と女性は笑顔で寄ってきました。サファリは椅子を向かいに用意し、女性を座らせます。自分も元の位置に戻って座ると、女性を真っ直ぐ見つめました。
「さて、何を占いますか?」
「うふふ、やっぱり占いといったら……私だってまだ若いですもの。ぜひ、恋愛について占ってほしいわ」
サファリは頷き、黙り込みました。しばらくカード切ります。その音が三十秒ほど続き、サファリはぽつりと言いました。
「……失礼ですが、想い人がおいでで?」
「想い人なんて……子供なのに難しい言葉を知っているのね」
女性は頬を少し赤らめ、答えました。
「いるわ。……誰かは内緒よ? それでも占える?」
「勿論。では、[愛の架け橋]をしましょう」
[愛の架け橋]──いかにもな名前の占いです。
これは自分(この場合は女性)側と相手(想い人)側の互いに対しての[過去]、[現在]、[未来]を見るもの。
サファリは切って整えたカードを崩し、ぐちゃぐちゃにまぜます。カードの向きに構うことなく、長辺と短辺だけ揃えた状態で、今度は山札を三つに分けます。それから一つの山に戻します。
同じように、と女性に渡し、女性も三つに分け、一つに戻しました。
「自分と想い人がどうなっていくか、それだけを念じてください」
女性は真剣な表情でカードを見つめ、やがてサファリに返しました。
サファリもカードに何やら念じるように数秒目を閉じた後、動き始めました。
「展開──」
そんな呟きとともに、滑らかな動きで彼の手はカードを配していきました。
まず、手前の左隅に上から一枚一枚カードを置きます。八枚目を置いたところでその右隣に一枚、更にその隣に一枚を並べます。
続いて、反対側にも同じように八枚、一枚、一枚の順でカードを配しました。
そして、真ん中の二枚のカードの間に一枚置き、残った一枚をそのカードと交わるような格好で置きました。
「解釈──ここからが占いの内容。僕から見て手前からカードを置いた順に想い人の[過去]、[現在]、[未来]──お姉さん側のカードを置いた順にお姉さんの[過去]、[現在]、[未来]を表します。間にかけられたこのカードは二人を繋ぐ愛の架け橋──二人の関係性を示します。では、開いていきましょう」
あれ、とツェフェリは声を上げました。
「この橋の上にかかったカードは?」
一つだけ説明されていない、橋の上に交わるように置かれたカードを示します。サファリは後で、と答えて[女性側の過去]を開きました。
[皇帝]──玉座に座った壮年の男性が女性側の向きになっていました。
「真面目で実直な人、という印象を抱いていました」
「その通りだわ。私、彼のそういうところに惚れたの」
うっとりする女性を興味なさげに一瞥し、サファリは向かい側のカードをめくります。
[恋人]──男女が手を繋いで歩いているカードが、今度はツェフェリたちの向きで出てきました。
「[恋人]の逆位置。相手の方は貴女を恋人とまでは思っていなかったようです」
「そうかもしれないわ……私、何も言ってないもの」
女性は間に一言二言挟みますが、サファリは淡々と進めます。
ツェフェリはサファリの一言一句を聞き漏らさないようにしていましたが、どうしてもその瞳が気になります。
翠玉色が一枚捲るごとに沈んでいくように見えるのです。
[女性側の現在]
[太陽]は女性向きで出ました。──結婚願望もあるようですね。
[想い人側の現在]
[法王]も女性向きです。──彼は貴女に精神的な救いを求めているのかもしれません。
[想い人側の未来]
[審判]、これもまた女性向きで出たカードです。──審判は復活を意味します。彼は今精神的に追い込まれていますが、貴女の存在がその救いになるのかもしれませんね。
[女性側の未来]
[死神]はツェフェリたちの向きで出ました。──一見すると、不吉なカードに見えるでしょう? けれども、これは逆向きですから、意味も逆になるんです。通常なら[死]や[停滞]を示しますが、逆だと[始まり]を表します。貴女との出会いは彼にとって新たな人生の始まりとなるのでしょう、おそらく。
ツェフェリは女性の顔を伺います。あまりの好展開に表情が弛みきっています。サファリが最早一瞥すらしていないことには気づいていないようです。
ツェフェリは暗く暗く沈んでいくサファリの瞳が気がかりで仕方ありません。
サファリは暗い色のまま、愛の架け橋のカードに手をかけました。
そこには[運命の輪]が女性の方を向いた状態でありました。
「貴女たちは運命的な巡り合わせで出会いました……このカードは見るまでもありませんでしたね」
サファリは最後の一枚をそっと取り、確認しました。
[塔]が逆さで握られていました。女性には見せず、そのまま仕舞います。
「最後の一枚は二人を妨げる[障害]を表すカードでしたが、見るまでもなく、二人は関係を築いていけるでしょう。……ありがとうございました」
「ありがとう。とっても楽しかったわ」
女性は喜んで去っていきました。
女性の姿が見えなくなると、さて、とサファリが振り向きます。
「本当の解釈を始めるよ」
「本当の解釈……?」
首を傾げるツェフェリにサファリは[塔]カードを元の位置に戻して説明しました。
「本当は逆なんだ。さっきのお姉さん側にあるのが想い人さんの[過去]、[現在]、[未来]。僕ら側がお姉さんのだ。意味も全部逆。
僕の想像もまざるけど、想い人さんとお姉さんは以前は恋人だった」
外側を向いた[恋人]を示します。指はそのまま想い人側の過去へ。
「想い人さんはお姉さんが真面目じゃないことを知った。だから今は不幸せ」
[皇帝]の逆位置、[太陽]の逆位置。すっ、と今度は女性の現在のカードへ──[法王]の逆位置です。
「振られたお姉さんは現実を受け入れられずに、すがり続け、救いを求めます。でも」
未来に待つのは[審判]の逆位置。──再起不能の未来。
「想い人には死が訪れる……きっと、お姉さんが、その審判を下す」
「えっ……そんな……」
「だって」
サファリは寂しげに[運命の輪]を指しました。──逆位置です。
「運命の人ではなかったんだもの。……修復不可能とも出ているし」
逆さまの塔──稲妻によってばらばらに砕かれた[塔]は崩壊を表します。逆位置も正位置も、よくない意味のカードです。
「……なんで?」
ツェフェリからこぼれ落ちたのは。
「なんで本当の意味を隠したの?」
透明で、苦しげな水色でした。──サファリの瞳によく似た色でした。
「……言える?」
サファリは[塔]のカードを示しました。ツェフェリはふるふると首を横に振りました。
「……占いっていうのはね、所詮気休めなんだよ。だから、いいように解釈すれば、いいんだ。僕はあの人が救いを求めていたからこんな嘘を吐いた」
ひらひらと[法王]のカードを振りました。ツェフェリは俯いて、翠色の光を返しました。そろそろと伸ばした手で、[運命の輪]のカードを取ります。
「悲しいよ……」
「うん」
「悲しいよ……」
優しく頭を撫でるサファリと俯いたまま泣きじゃくるツェフェリ。
ツェフェリの涙が[運命の輪]の上で弾けました。
そのときです。
「マスター……マスター……泣かないでください、マスター」
ふと、そんな声が聞こえました。
「……誰?」
「ここです。マスターの手の中に」
ツェフェリの小さな呟きに応じたのは、青年の声。手の中、と言われて、手に握りしめたタロットを見ます。タロットのナンバーⅩ[運命の輪]です。
「え、え? [運命の輪]? キミが喋ってるの?」
「そのとおりです。マスター」
「ツェフェリ、どうしたの?」
カードの返答とサファリの問いにツェフェリは言葉を濁します。しかし、次の二人の一言に、ツェフェリははっとしました。
「知っていてほしい。そんな世界もあることを」
サファリの反応から、彼には[運命の輪]の声が聞こえていないことはわかりました。ところが、この二人の台詞は狙ったようにぴたりと重なって、ツェフェリに響きました。
「ツェフェリ(マスター)には辛い現実かもしれないけれど、いつか、こんな嘘を吐かなければならないときがくるから……」
サファリがそっとツェフェリの眦を拭います。また、その声がタロットと重なります。
「君の正しい呪いのために」
サファリは翠玉の瞳を寂しげに細めて続けました。
「僕はずっとは側に居られないけど」
続くように[運命の輪]が言いました。
「我々が側に居ますから」
仄かながらも暖かいものがツェフェリの胸を流れていきました。とても暖かく、大切な──
そのときツェフェリの目は赤みのさした金色になっていました。
「……ボクも、このタロットたちに出会えたこと、運命だと思います」
ラルフと同じソファに腰掛け、ツェフェリは言いました。
「ほっほっ、ツェフェリくんもカードが恋人なたちかの?」
「そうかも……しれませんね。でも」
ツェフェリは脳裏にあの綺麗な翠玉色を浮かべました。
「このタロットたちと同じくらい、大切な思い出のある人がいます──」
サファリくん、今、どうしているかなぁ……
そんなツェフェリを凝視して、ラルフがぼそっと呟きました。
「サルジェくん、ライバルがおるぞ……」
サルジェが狩りの最中くしゃみをします。
「なんだ、風邪か? 我が弟子のくせになってないな」
「違いますよ、師匠」
そこに一人の少年が通りかかりました。
「すみません、この近くの街はどこですか?」
「ああ、すぐそこだよ」
答えながらサルジェは少年を見ました。
晴れの日の雲のような清々しい白さの髪、水色と翠色を溶いた中に乳白色を入れたような柔らかい色合いの眼差し。引いて歩く荷車には様々なものが積まれています。商人のようです。
「案内しようか? 俺と師匠もその街に住んでいるし」
「ぜひお願いします」
「俺は狩人のサルジェ。お前は?」
「僕はサファリ。しがない商人です」
これはまた別のお話です。