090 着替え 1
宿屋に帰ったのは、太陽が一番高くなるまでにはまだ少し時間がある頃だった。朝は少し肌寒かったが、もうすっかり暖かくなっている。降り注ぐ日差しは近づく夏の気配を漂わせていた。
「お昼前になったら食堂に顔を出してちょうだい。あ、そうそう。マリコさんにこれを渡しておくわね」
カウンターの前まで来たところで、マリコは藍染めの布で作られた小さな巾着をサニアから渡された。手のひらに乗せられた時に、中からチャリッと金属の擦れる音がした。
「これは?」
「あなたのお財布として使ってくれればいいわ。中身は今日の残りよ。金貨一枚分も残ってないんだけど、ここで暮らしてる分にはとりあえず困らないと思うから」
マリコは受け取った巾着の紐を緩めて中をのぞいた。数枚ずつの大銀貨、銀貨、銅貨が入っているのが見える。
「ありがとうございます。これでちょうど金貨十枚分の借金ということですね」
「借金じゃないわよ、支度金。無理に返さなくてもいいことにはなってるけど、普通に働いてたら返すのもそんなに難しいことではないわよ。あ、急がなくてもいいんだからね」
「分かりました」
一旦自分の部屋に戻ることにしたマリコはそこでサニアと別れ、ミランダと廊下を奥へと進んだ。
「これでとりあえず着替えができるな、マリコ殿」
「そうですよ、やっとスカートから解ほ……いえ、着たままだった服を洗濯できます。……あ、この後持っていったら、今日の洗濯に間に合うでしょうか?」
「ん? ああ、そうだな。今持っていけばまだ洗濯している途中だろうから大丈夫だろう。それにこの天気だ。夕方までには乾くのではないか?」
「じゃあ、早速着替えることにします」
「では、私はこのまま一度洗濯場へ行って、追加がくることを告げてくることにしよう。もし間に合わなかったら困るからな」
「え、それは何だかミランダさんに悪いですよ。私が行ってきます」
「私が言ったこと故、違っていたら私が困るのだ。それに早い方がいいのなら、マリコ殿はさっさと荷物を出して着替えた方が良かろう」
「う、分かりました。ではお願いします」
「ああ。ではちょっと行ってくる。戻ったらマリコ殿の部屋に結果を言いに寄ることにする」
「はい」
ちょうど部屋の前に着いたところだったが、ミランダは回れ右して裏へ出る扉へと向かって行く。残ったマリコは鍵を開けて自分の部屋に入った。
「さて、とりあえず着替えを……」
マリコは今日買ってきた服を入れてもらった風呂敷包みをアイテムボックスから取り出して解くと、中身をベッドの上に並べていった。たちまちベッドの上は衣類で占領されていく。
そこから今着るつもりの物を脇へよける。下着類にシャツとジーンズ――もうマリコはそう呼ぶことにした――とベルトである。それから残った物に目をやって、ふとある事に気付いたマリコは後ろを振り返ってクローゼットの襖をガラリと開けた。
(あれ? こいつらはどこにどう仕舞えばいいんだ?)
ハンガーはいくつか余分が掛かっていたので、シャツやズボンの類はそこに掛けておけば問題ないと思えた。しかし、下着類をどのように仕舞っておくのかがよく分からない。
(ミランダさんが帰ってきたら聞いてみるか。先に着替えよう)
マリコは手早く着ている物を脱いでいく。じきにミランダが戻る予定なのでさすがに真っ裸にはならず、シュミーズ姿になったところでパンツとストッキングとガーターを脱いだ。次いで、用意した下着を手に取ると思わずため息をつく。
(縞パンで紐パンか……。漫画やアニメならよく出てくる定番なんだろうけど、自分が穿くのか、これを)
ものすごく微妙な気分に浸りながらも足を通す。そのまま上に持ち上げようとして、太ももの途中で引っ掛かって止まった。
「あれ? あ、そうか。ゴムじゃないから、紐を一回解いて後で結び直さないといけないのか」
一旦足から抜いて、両方の紐を解いた。すると今度は全体が紐状になってしまって、穿くことそのものが難しい。
「んん? ええと、これは股に当てておいて片方を先に結ぶのか? あれ?」
マリコが紐パン相手に四苦八苦していると、コンコンと扉がノックされた。
「マリコ殿、ミランダだ。戻ったので入るぞ」
「え!? あ、ちょっ……」
ちょっと待って、と言う間もなく扉が開かれた。入ってきたミランダは、紐パンを手に身をくねらせているシュミーズ姿のマリコを見て目を丸くした。
「マリコ殿……。一体何をしておられるのだ?」
マリコはちょっと泣きたくなった。
◇
「私の場合は、両方の紐を緩めに結んでおいて穿いてから結びなおすことにしている。先ほどのマリコ殿のように、解いてしまった物を腰に当てて片方ずつ結ぶという方法をとる者もおられるし、ベッドに仰向けに寝転がった姿勢で穿く者もいると聞いたことがあるな」
涙目になったマリコが聞いた「紐パンの穿き方」に対する、ミランダの答えである。穿き方も何パターンか存在するということだった。
泣きっ面に蜂、というほどでもないだろうが、ようやく下着を替えたマリコを待っていたのは、今日の分の洗濯がもう終わっていたという話だった。
「昨夜泊まった者が居なかった故、早めに終了してしまったそうなのだ。明日洗うのでいいなら預かるとマリーンは言ってくれたのだが、そうするとマリコ殿が夕方宿の仕事をするのに困るであろう?」
「あれ? 私達は今日は休みのはずじゃなかったんですか?」
「ああ、一応は休みなんだがな。夕方は時間雇いで来ている者達が少ないのだ。自分の家の食事の準備をせねばならぬ立場の者が多いからな。で、我ら住み込みの者も、宿にいるのならなるべく手伝う。何せ自分の家のことだ。よそに出掛けている者に帰ってきて手伝えとまでは言わぬがな」
「ああ、なるほど」
日本ならブラック企業だとか言われかねない話なのかもしれないが、マリコには妙に腑に落ちた。家族なんだから家にいるならちょっと手伝って、と言われているように思えたのだ。
それはそれとして、下着類はともかくメイド服を洗濯に出すわけにはいかないのも事実である。また、浄化が活躍することになった。
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