009 世界の始まり 6
「何も入ってないです。ああ、さっきの石はちゃんと入ってますけど」
「え、本当に何もないのか!?」
「お財布や着替えや食べる物もないの?」
マリコが改めて告げると、二人は驚いてそれぞれ声を上げた。
「ええ。残念ながらそのようです」
マリコは気落ちしながらも素直にそう答えた。嘘をついても意味はないし、元々の状況の方がもっと訳が分からず驚きなのである。正直、財布がないことより、手がかりになりそうな物がなかったことの方が残念だった。
「何だって一体そんな……」
「ねえ、お父さん」
「ことに、って何だ、アリア」
「この話って、続きはうちに来てもらってからの方がいいんじゃないかな」
まだ何か言いかけていたカミルを遮ってアリアが言った。
「えっ? アリアさんの家、ですか?」
「うん」
「アリアさんの家、ということはカミルさんの家ですよね?」
マリコは二人を見比べながら聞いた。カミルは牛や羊を飼っていると言っていたから酪農家か畜産家ということなのだろう。その家に行く、という意味が分からない。
「え? ああ、違う違う。お父さんは牛飼いもやってるから放牧場の方の家にもよくいるけど、うちは宿屋だから。ほら、あそこに見える大きい家」
アリアは少し誇らしそうにそう言うと、伸び上がって三人の傍に立つ転移門の向こう側を指差した。草原とは反対側のそちらに目を向けると、転移門の少し先からは畑になっていた。麦のような穂をつけた細長い葉の作物が一面に植わっている。
畑の向こうには家が建っているのがいくつか見えた。その一番手前に壁に囲まれた一角があり、その中に建っていると思われる建物の上部が壁越しに見えていた。石造りらしく、塔のような部分も見える。見えている他の家と比べると相当に大きい。あれが宿屋だというアリアの家なのだろうが、マリコの目には宿屋というより、むしろちょっとした城か砦のように見えた。
「アリアさんの家は宿屋なんですか。でも私、どうやら無一文のようですから、宿代が払えないと思いますよ」
「多分、大丈夫だよ。そういう人の世話をするのも宿屋の仕事だって、おばあちゃんが言ってたし。ね、お父さん」
「ああ、そうだな。最前線にやって来る開拓者をまとめて面倒見るのは宿屋の義務だからな」
「フロンティア?」
(フロンティア? パイオニア? 最前線の、開拓者?)
ゲームの中では聞いた覚えのない言葉だった。マリコはまた首を傾げた。
「最前線も分からないとなると、マリコさんはよっぽどの街育ちなのかねえ」
「だから、お父さん。もうおばあちゃんと話してもらった方がいいって。行こう、おねえちゃん」
「あっ」
アリアはそう言いながらマリコの手を握った。マリコのものよりさらに一回り小さい、けれど温かく柔らかな、血の通っている手のひらの感触がマリコの手を包んだ。マリコは一瞬身体を強張らせたが、すぐに力を抜いて握られた左手をアリアに任せた。
(温かい、人の手……)
アリアは自分の家に向かって歩き出した。引っ張られる形のマリコも一緒に足を踏み出すことになった。手を引かれながらマリコは、自分以外の体温に触れたのはいつ以来だっただろうと思った。
「あ」
歩き始めた途端、アリアは声を上げて立ち止まり、カミルの方へ振り返った。
「お父さん。お昼ご飯、どうしよう? 持ってって食べる?」
「はぁ? バカ言え。俺も一緒に行くに決まってるだろう」
アリアの問いかけにカミルは間髪入れずに答えると、近くに座ってこちらを見ていたラシーを呼んだ。
「ラシー、ゲナーとカノーのとこへ行って、一緒に見張っててくれ。何かあったら呼びに来い」
カミルが言うと、ラシーはワンと一声吠えて草原の方へ駆けて行った。
「あれで通じているんですか。すごいですね、ラシー」
「うん、とっても賢いんだよ」
マリコが感心しているとアリアが答えた。ゲナーとカノーも犬の名前だという。牧羊犬ということだろう。
(本当に名犬だったのか)
「じゃあ、行こう」
アリアがまた歩き始めたので、手をつないだままのマリコも一緒に歩き出した。すると、またなぜか鎖骨の下辺りの皮が突っ張る感覚を覚える。先ほどから身体を動かす度に感じる違和感に、マリコは改めて自分の身体を見下ろした。
白いエプロンに包まれた胸の膨らみが、歩くのに合わせて上下に弾んでいた。
(これか)
この身体が本当にゲームのマリコに基づく姿なら、バストのカップサイズはキャラクター作成時に選んだEということになる。ハーウェイ様の人外魔乳とはさすがに比較にならないが、それでも大きい方に入るだろう。
(女の人の身体だというのは、結構厄介かも知れない)
あの時シャレや勢いでHやらIやらを選んでいたらどうなっていたことか。マリコは密かに戦慄を覚えた。ふと視線を感じて隣を歩くカミルに目を向けると、彼はすごい勢いで向こうを向いた。
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